↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/23

第八話 はたけしごと

翌日から、畑を広げることにした。


すぐに実りが出るわけではない。

けれど、人の子を育てるあいだだけでも、口に入れられるものを増やしておいたほうがいい。

山の恵みと干し肉だけでは、心もとない。


ハヤトの畑は、これまで、申し訳程度のものだった。


山小屋の裏手に、数歩四方の小さな区画がある。

薬草がいくつかと、気の向いたときに植えた野草の類。

独りのエルフには、それで足りた。

足りないものは、山で採ればいい。

狩りをすればいい。

それが、百年のあいだ続いてきた暮らしだ。


だが、人の子を育てるとなれば、話は別になる。


カインは、まだ乳を飲むだけだ。

けれど、人間の子の成長は早い。

じきに歯が生え、固いものを食べはじめ、這い、立って、走り回るようになる。

そのとき、山菜と干し肉ばかりでは、いかにも心もとない。

根菜、葉物、豆。できれば、穀物も。

育てられるものは、育てておいたほうがいい。


ハヤトは、朝から土を掘り返しはじめた。


カインは、ゆりかごごと外へ運ばれ、畑のすぐ脇の木陰に置かれた。

木漏れ日が、ゆりかごのなかに、ちらちらと落ちている。

カインは、それを目で追っていた。


木漏れ日だけを追っているのか、

そのあいだに揺れる何かを追っているのか、

ハヤトの目では確かめようがなかった。


ざく、ざく、と鍬が土を割る音がする。


鍬は、何年も前に、人里の鍛冶屋で手に入れたものだった。

柄は少し痩せているが、刃はまだ使える。

山の硬い土も、体重を乗せて振り下ろせば、割れる。

石をどけ、根を掘り起こし、土を砕いて、柔らかくしていく。


カインは、ゆりかごのなかから、その作業を、じっと見ていた。


ハヤトが鍬を振り上げる。

振り下ろす。

土が跳ねる。

また、振り上げる。


その繰り返しを、黒い瞳が、飽きもせず追いかけている。

柵を建てていたときも、そうだった。

ハヤトが何かをしていると、カインは、驚くほど静かになる。


泣かない。

騒がない。

ただ、見つめる。


この子は、動くものを見るのが好きなのかもしれない。


光の揺れも、山羊も、ハヤトの手も。

世界が動いているかぎり、この子の目は、退屈しないのだろう。

ハヤトは、鍬の柄に両手を預けて、額の汗をぬぐった。


ひと息つくつもりで、畑を見渡す。

掘り返された黒い土。

その向こうに、山の稜線。

風が、汗ばんだ首筋を、すうと抜けていった。


山の斜面で畑を耕し、鍬に寄りかかって、山並みを眺める。

これは、いかにも――


「……ご隠居っぽいな」


口に出してから、ハヤトは、満足げに頷いた。


「実に、ご隠居らしい」


ちらりと、ゆりかごを見る。

カインは木漏れ日を追うのに忙しく、こちらを見てもいなかった。

昨夜、二度も起きてゆりかごを覗きこんだことは、この際、棚に上げておく。

ハヤトは、何事もなかった顔で鍬を握り直し、土に向き直った。


昼過ぎまでかかって、畑の広さは、およそ三倍になった。


もとの区画の南と東へ広げ、日当たりのよい緩い斜面に沿って、段を切った。

整地としては、粗いものだ。

石は、まだ残っている。

土も、十分にはほぐれていない。

けれど、何日かかけて耕しつづければ、形になるだろう。


問題は、種だった。


手もとにあるのは、薬草の種がいくつかと、保存用に取っておいた豆が少し。

これでは、畑の広さに対して、まるで足りない。

山のなかで野生に戻った野蒜や山牛蒡なら、根を掘って移し植えられる。

けれど、大根や蕪や麦の種は、人里でなければ手に入らない。


そろそろ、村へ降りる日が来る。


その覚悟が、少しずつ、固まりつつあった。

山羊のときにも、思ったことだ。

山のなかだけで、すべてを賄うことには限りがある。

カインが育てば育つほど、外の世界との接点が要るようになる。


だが、今日ではない。

今日は、今できることをやる。


ハヤトは、山の中腹まで登り、野蒜の群生地から株を掘り起こして、持ち帰った。

山牛蒡の根も、数本。

それから、沢の近くに自生していた、芹の株。

水辺の草は、畑には向かないが、沢から引いた水路の脇なら、根づくかもしれない。


夕方、カインにミルクを与えながら、ハヤトは畑を眺めた。


掘り返されたばかりの、黒い土。

点々と植えられた、移し植えの株。

まだ、何も実ってはいない。

芽さえ、出ていない。

ただの土と、小さな緑が並んでいるだけだ。


けれど、数か月のちには、ここに根菜が育っているかもしれない。

来年の春には、葉物が芽吹いているかもしれない。

カインが初めて固いものを口にするころには、この畑のものを、食べさせてやれるかもしれない。


気の長い話だ。

エルフの身には、数か月など、瞬きに等しい。

ただ、乳を飲み干すたびにずしりと重くなるこの子の時間は、どうやら同じ速さでは流れていないらしい。


「んっ、んっ……」


カインが、山羊の乳を飲み干して、ぷは、と口を離した。

唇に、白い雫がついている。

ハヤトが布で拭うと、カインは、にへっと笑った。


「あうー」


満腹の合図だった。

それから、カインの視線が、畑のほうへ向いた。


黒い土の匂い。

掘り返された大地の、湿った匂い。

初めて嗅ぐ匂いに、小さな鼻が、ひくひくと動いている。


その仕草は、柵のなかのキャロルに、そっくりだった。


――畑の仕上げに、数日を費やした。


石を拾い、土を何度も鋤き返し、畝を立てる。

野蒜と山牛蒡の移し植えに水をやり、沢から引いた細い水路も、どうにか形になった。

完璧ではない。

けれど、根づいてくれれば、春には収穫が見込める程度には整った。


そして、いよいよだった。


本来なら、とうに一度は降りている時期だった。

例年なら、秋口に一度、冬支度の買い出しに出る。

塩と布と金物を、まとめて背負って帰ってくる。

今年はそれを、カインと山羊と畑にかまけて、ひと月近くも先送りにしてきた。


数えれば、もう先送りはできなかった。

大根や蕪の種を蒔く時期は、過ぎかけている。

これ以上遅れれば、広げた畑は、空のまま冬を迎える。

布も、限りに近い。

洗って干して、また洗って。

そうして使い回した布は、薄く透け、縁がほつれはじめていた。


ハヤトは、山小屋のなかで荷を整えた。

いつもの買い出しとは、わけが違う。

要るものが、多すぎた。


まず、種。

大根、蕪、麦。できれば、芋の類も。

でなければ、畑を広げた意味がなくなる。


布。

赤子の肌に触れても、障りのない柔らかいもの。できれば、何枚も。


塩と油。

保存食を作るのに、欠かせない。

備蓄は、心もとなかった。


それから、犬。

番犬になりそうな仔犬がいれば、と思う。

薬草の匂いと鳴子だけで冬を越せるのかどうか、確かなことは分からない。


そして、もうひとつ。

赤子を育てるための、知識だ。

村に、子育てを心得た者がいるなら、話を聞きたい。

乳のほかに、何を与えるのか。

固いものは、いつごろからなのか。

病の兆しは、どう見分けるのか。

ハヤトの知らないことは、山ほどあった。


問題は、対価だった。


百年、山で暮らしてきて、金の手に入る道は、薬と毛皮を人里で売ることだった。

薬を出せば、相応の値がつく。

それは、知っている。

ほかの薬より効く、と言われることも、一度や二度ではなかった。

どうしてなのかは、深く考えたことがない。

山で採り、煎じ、煮詰める。

手が覚えていることを、瓶に詰めているだけだ。


とはいえ、今回は買う量が、桁違いだった。

見合うだけの品を、揃えなければならない。


数日前から、支度を進めていた。

薬草を乾かして、束にした。

狩りで得た毛皮を、丁寧に鞣した。

傷薬を煮詰めて、小さな瓶に詰めた。


荷をまとめると、かなりの量になった。

背負い籠にいっぱいに詰め、さらに布袋が二つ。

帰りは帰りで、荷が増える。

それでも、これだけあれば、足りるはずだった。


けれど、いちばんの問題は、荷の量ではなかった。


カインだ。


片道、半日の山道。

大量の荷。

そして、胸のなかの赤子。

背に荷、胸にカイン。

両手は、ふさがる。

山道で足を取られれば、いちばん危ないのは、カインだ。


かといって、置いていくわけにはいかない。

ゆりかごのなかで、一日以上も待たせるなど、論外だった。

乳の問題がある。

何より、ハヤトが視界から消えただけで泣く子を、丸一日も一人にしたら、どれほど泣き叫ぶか、想像もつかない。


連れていくしかない。


ハヤトは、抱き紐を取り出して、結び目を確かめた。

何度も使って、体に馴染んでいる。

結び目を補強し、カインの頭を支えるあたりに、古い布を重ねて縫いつけた。

長い道に耐えるように。


それから、もうひとつ、考えておかなければならないことがあった。


村の者に、カインをどう説明するか。


エルフが、人間の赤子を連れている。

それだけで、好奇の目を向けられるのは、まず間違いない。

山で赤子を拾った、と、正直に言うか。

言ったところで、信じてもらえるのか。

子どものいない者に、渡せと言われたら。

あるいは、どこかの誰かが、この子を探していたとしたら。


答えは、出なかった。

出ないまま、荷の横に腰を下ろして、眠っているカインを見下ろした。


黒い髪。小さな鼻。きゅっと握られた拳。

拾ってから、まだひと月にもならない。

それなのに、この子のいない暮らしが、もう、うまく思い出せなくなっている。


カインが、寝返りを打った。

無意識に、ハヤトのほうへ体を寄せる。

温もりを探すように。


「……大丈夫だ。ちゃんと、ここへ連れて帰る」


誰に言ったのか。

カインにか、自分にか。

ハヤトにも、よく分からなかった。


荷を背負い籠に詰め直し、紐を締める。

出発は、明日の朝だ。

夜明け前に、キャロルの乳を搾り切る。

柵と鳴子を見て回り、狼避けの液を、丸太に塗り直しておく。

水と草は、ありったけ置いていく。

半日歩いて、用を済ませて、半日歩く。

一日で戻れるかどうかは、行ってみなければ分からない。

長引けば、戻りは翌日になる。


準備は、整った。

あとは、朝を待つだけだ。


「あ……ぅ」


カインが、薄く目を開けた。

ハヤトの顔を確かめて、安心したように、また瞼を閉じる。

その、ほんの一瞬の確かめ方が、いつのまにか、この子の習慣になっていた。

目を覚ましたら、まず、ハヤトを探す。

いれば、安心して眠る。

いなければ、泣く。


明日、この子を連れて、山を降りる。

初めて、人の世界に触れさせる。


何が起きるかは、分からない。

けれど、必要なことだった。

この子のために。






カインは、ゆりかごのなかで目を覚ました。


天井の木目が見える。

指をしゃぶりながら、ぼんやりと、それを眺めた。

まだ、完全には起きていない。

朝の光が、山小屋の小窓から斜めに差しこんで、光のなかで、細かなものが金色にちらちらと揺れている。

カインの黒い瞳が、それを追いかけはじめた。

光のなかで、ゆれるもの。

いつも、掴めないもの。


そこへ、声がかかった。


「カイン」


ハヤトの声だった。


カインの目が、光のなかのものから、声のほうへ移った。


一瞬の間。


それから、にへっと笑った。

目が細くなり、口が開いて、涎が顎を伝う。

全身で、「いた」と言っている。

朝の確かめ。ハヤトがいる。世界は、大丈夫だ。


「あー!」


声を上げて、両手を突き出した。

抱き上げろ、の合図だった。

ひと月近くのあいだに、すっかり根づいた要求だった。

カインにとって朝とは、目を覚まして、ハヤトを見つけて、抱き上げられることで始まるものだった。


ハヤトは、ゆりかごのそばに屈みこんで、カインを抱き上げた。

それから、ゆっくりと、話しはじめた。


「今日は、山を降りるぞ」


カインは、声に耳を傾けた。


「少し長い道になる。揺れるし、腹も減るだろうが」


意味は、分からない。

「山」も「降りる」も、カインにとっては、音の連なりにすぎない。

けれど、ハヤトの声の調子は、聞き分けている。

いつもと、少し違う。

普段の、ゆったりとした語りかけとは、どこか響きが違った。


「う?」


小さな問いが、口からこぼれた。

カインは、ハヤトの顔をじっと見つめた。

眉の動き、口もとの形、声の高さ。

カインに読み取れるのは、それだけだ。

けれど、それだけで十分だった。


「人の村だ。お前を、そこへ連れていく」


しゃぶっていた指が、いつのまにか止まっていた。

声を出さず、ただ、見つめている。

生まれて数か月の赤子にしては、不思議なほど、集中して聞いていた。


「大丈夫だ。俺がいる」


ハヤトが、話し終えた。


沈黙。


カインは、しばらくハヤトの顔を見つめていた。

それから、ゆっくりと、手を伸ばした。

ハヤトの頬へ。

小さな指が、ぺたり、と肌に触れる。

温かい。


「あう」


何を言いたかったのか、カイン自身にも分かっていない。

ただ、触れたかった。

ハヤトの声が、いつもと違ったから。

だから、触って確かめたかった。

ここにいるよね、と。


小さな掌が、ハヤトの頬を、ぺたぺたと探る。

力は、ほとんどない。

ただ、触れているだけだ。

けれど、カインの目は、真剣だった。

この人は、自分のそばにいる人だ。

毎朝、目を覚ますと、そこにいる人だ。


確かめが済むと、カインは満足したように、手を引っこめた。


そして、また、にへっと笑った。


「あー」


大丈夫。

ハヤトは、ここにいる。

だから、大丈夫。


それだけが、カインの世界のすべてだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。