第七話 やぎがきた
山羊探しは、思っていたよりずっと骨の折れる仕事だった。
一日目、ハヤトはカインを抱き紐で胸に括りつけ、夜明けとともに山小屋を出た。
目指すのは、山を降りた先に広がる草原だった。
野生の山羊の群れを、以前そこで見かけたことがある。
片道、およそ二時間の道のりになる。
最初の三十分、カインは上機嫌だった。
いつもの散歩より、ずっと遠い。
知らない木、知らない花、知らない鳥の声。
黒い瞳がきょろきょろと忙しなく動いて、「あー!」「うー!」と声が途切れない。
一時間を過ぎたころから、様子が変わった。
「……ぅ、あぅ……」
声が細くなった。
揺れに飽きたのか、疲れたのか。
ぐずりはじめる前の、あの湿った声だった。
ハヤトは歩きながら、小さな背をぽんぽんと叩いた。
「もう少しだ。山羊を探しに行くんだぞ」
「……ぅ」
意味は分からなくとも、声の震えが胸板から伝わって、いくらか落ち着いたらしい。
けれど、長くは持たなかった。
草原の縁にたどり着いたときには、カインは盛大に泣いていた。
「ふぇぇぇぇ……っ!」
腹が減ったのだ。
道中では、湯を沸かすことができない。
ハヤトは草原の端の木陰に腰を下ろし、携えてきた容れ物から、朝のうちに溶いておいたミルクを取り出した。
すっかり冷めている。
カインは不満そうに顔をしかめたが、空腹には勝てず、しぶしぶ吸いついた。
小さな喉が、こくり、こくりと鳴る。
その音を聞きながら、ハヤトは草原を見渡した。
山羊の姿は、なかった。
糞の跡はある。
草を食まれた跡もある。
けれど、群れはここにいない。
野生の山羊は、ひとところに留まらない。
草を食べ尽くせば、次の場所へ移っていく。
カインはミルクを飲み終えると、けぷ、と小さなげっぷをして、そのまま眠ってしまった。
ハヤトは眠るカインを胸に抱いたまま、草原の周りを歩いた。
蹄の跡を辿り、糞の乾き具合を指で確かめ、群れの去った向きを探る。
草原の奥、傾斜の高くなっていくほうへ、跡は続いていた。
だが、今日はこれ以上進めない。
赤子を連れたまま、慣れない斜面を登るのは危うい。
その日は、手ぶらで帰った。
夕方、ミルクの支度をしながら、ハヤトは粉の袋を持ち上げた。
また少し、軽くなっている。
袋を棚に戻す手つきが、いつもよりほんの少しだけ、静かだった。
二日目は、前日の反省を活かした。
出発を、さらに早めた。
ミルクの予備を多めに持ち、途中で休みを挟む段取りにした。
腹が空いたと泣かれる前に、こちらから先に飲ませてしまえばいい。
カインは朝から機嫌が良かった。
昨日の長い外出が楽しかったのか、抱き紐に収められると、「あうー!」と声を上げた。
また遠くへ行ける、と思ったのかもしれない。
二時間半かけて、前日よりも高い場所へたどり着いた。
いた。
草原の向こう、岩場のそばに、七、八頭の山羊の群れがある。
灰色と白の入り混じった毛並み。
角のある雄が二頭、残りは雌と子山羊だった。
ハヤトは距離を取り、風下の岩陰に身を伏せて、群れを観察した。
乳の出る雌が要る。
見定めるべきは、張った乳房と、そばにいる子山羊だった。
――そこで、カインが目を覚ました。
「あっ!」
山羊を、見つけたのだ。
生まれて初めて見る、自分とハヤト以外の生き物。
四本の足で立ち、角が生え、ひくひくと鼻を動かす、見たこともないもの。
「あー!! あーー!!」
大興奮だった。
両手がばたばたと宙を打ち、体がよじれ、声が弾ける。
静かにしてほしい場面で、カインは全力で、自分の存在を主張した。
山羊の群れが、一斉にこちらを向いた。
そして、駆けた。
散り散りに、岩場の向こうへ消えていく。
追おうにも、胸にはカインがいる。
走れない。
「…………」
カインは、きょとんとした顔で、山羊の消えた方角を見つめていた。
自分が何をしでかしたのか、まるで分かっていない。
むしろ、面白いものが消えてしまったことに、不満げですらある。
「あー?」
どこいったの、とでも言いたげな顔だった。
ハヤトは、長く息を吐いた。
怒る気にはなれなかった。
怒ったところで、通じない。
それに、収穫が何もなかったわけではない。
逃げていく群れの向きは、見届けた。
岩場の北側、斜面の窪みの先。
夕方、その方角へ短く足を延ばして、小さな水場を見つけた。
蹄の跡が、水際に幾重にも重なっている。
二日目も、手ぶらで帰った。
けれど帰り道の足取りは、前の日よりも軽かった。
その晩、ハヤトは卓の前で、蔓を撚った。
細い蔓を何本も揃え、掌で擦り合わせて縄にする。
輪を作り、解き、また作る。
昔取った杵柄、というほど立派なものではない。
狩りのついでに覚えた、手慰みに近い技だ。
それでも、手は迷わなかった。
ゆりかごの中で、カインは天井の木目を眺めていた。
ハヤトの手の動きが気になるのか、ときおり首を傾けては、「あ」と短く声を出す。
「静かにしていろよ。明日は、お前が寝ていてくれないと困る」
「あうー」
返事だけは、いつも立派だった。
三日目は、まだ暗いうちに家を出た。
出発の前に、カインへたっぷりとミルクを飲ませた。
腹いっぱいになった体を抱き紐に収め、ゆっくりと揺らしながら、家の周りを何周か歩いてみた。
いつもより長めに遊ばせて、疲れさせておくのも忘れなかった。
カインの瞼が重くなり、ことり、と頭が胸に預けられる。
ぐっすりと眠ったのを確かめてから、ハヤトは、山道を下りはじめた。
水場に着いたのは、空が白みはじめたころだった。
風下になる茂みを選んで、身を潜める。
縄は、手首に巻かず、掌に軽く握った。
胸のカインに縄が絡まないよう、身をわずかに斜めにして、腕の位置を探る。
万が一引きずられても、すぐに手放せるように確認もした。
朝の冷えた空気のなかで、息を細くし、動かずにいる。
胸の上の寝息だけが、一定の拍を刻んでいた。
ハヤトにとって、待つことは苦ではない。
苦ではないはずなのに、今日は、胸の寝息が止まらないかばかりが気にかかった。
一時間ほどが過ぎたころ、水場の向こうの岩陰に、影が動いた。
山羊が来た。
警戒しながら、一頭ずつ、水際に降りてくる。
最後尾に、子山羊を連れた雌が一頭いた。
あれだ、と思った。
乳房が張っている。
子山羊のほうは、母の脇で水を飲みながら、足もとの草も、よく食んでいた。
乳離れは、もう間近なのだろう。
これなら、母親を連れていっても、群れのなかで生きていける。
そう見定めてから、ハヤトは、ほんの少しだけ迷った。
それから、迷いを置いた。
茂みを出た。
足音を消し、風の向きを背に受けて、距離を詰める。
山羊の耳が、ぴくりと動いた。
気づかれる、一歩手前。
そこで足を止め、呼吸を整える。
――投げた。
縄の輪が空を切り、雌山羊の首に、すとんと落ちた。
山羊が暴れた。
群れが散り、蹄の音が岩を打つ。
縄が掌を焼くように滑り、ハヤトの体が前へ引かれた。
踏ん張る。
腰を落とし、体の重みを後ろへ預ける。
縄を手放すことだけは、しなかった。
その震動で、胸のなかのカインが目を覚ました。
「ふぇ……?」
目を開けたら、世界が揺れていた。
ハヤトの体が、激しく動いている。
耳もとで、荒い息が聞こえる。
目の前には、灰色の大きなものが、暴れている。
「ふぇ……ふぇぇぇ!!」
泣いた。
盛大に。
ハヤトは片手で縄を握り、片手で、胸の小さな背を押さえた。
「大丈夫だ、大丈夫だぞ……」
どちらに向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
山羊を落ち着かせるように縄を緩め、カインをあやすように背を叩く。
傍から見れば、さぞ妙な光景だったろう。
数分の格闘のすえ、山羊はようやく動きを止めた。
荒い息をつきながら、ハヤトを睨むように見ている。
カインも、泣き止んでいた。
泣き疲れたのではない。
山羊を、じっと見ていた。
至近距離で見る山羊だった。
灰色と白の毛。
横に長く伸びた瞳孔。
ひくひくと動く、湿った鼻先。
カインは目を見開いて、食い入るように見つめている。
「……あ」
小さな手が、山羊のほうへ伸びた。
怖がる様子は、まるでない。
さっきまで泣いていたのが嘘のように、黒い瞳は、好奇心で満ちていた。
触りたい。あの毛に、触りたい。
全身で、そう訴えている。
ハヤトは、山羊が嫌がらないぎりぎりの距離まで、ゆっくりと身を寄せた。
カインの指先が、山羊の鼻面に、ちょん、と触れる。
温かい。
湿っている。
ふんふん、と息がかかる。
「あっ……あぅ!」
カインが笑った。
声を上げて、全身で笑った。
山羊は迷惑そうに鼻を鳴らしたが、暴れはしなかった。
岩場の向こうで、小さな鳴き声がした。
子山羊だった。
群れの影から、こちらを窺っている。
ハヤトは、縄を引く手を止めて、その方角を見た。
子山羊は、母親のあとを追ってくるでもなく、水場の縁に立ったまま、じっと動かなかった。
あの子には、群れがある。
そう言い聞かせるように、ハヤトは前を向いた。
雌山羊の縄を引いて、歩き出す。
一度だけ、振り返った。
子山羊は、もう、草を食んでいた。
帰り道は、長かった。
縄を引き、赤子を抱え、山道を登る。
雌山羊は、ときどき足を踏ん張って動かなくなり、そのたびに、ハヤトは立ち止まって待った。
引っぱるのは簡単だが、機嫌を損ねさせては、あとが面倒だ。
カインは、終始ご機嫌だった。
抱き紐から身を乗り出して、山羊の背中を見下ろし、ときどき「あー」と呼びかける。
新しい同居人が、よほど嬉しいらしい。
三日目にして、ようやく、成果が出た。
山小屋に着いたころには、日はすっかり高くなっていた。
囲いは、まだない。
ハヤトは、山小屋の脇の古い木に縄をしっかりと結わえつけ、足もとに水と草を置いた。
山羊は、最初は口もつけず、ハヤトを睨んでいたが、そのうちに、ゆっくりと草へ首を伸ばした。
囲いが要る。
何をおいても、まずそれだった。
山小屋の脇に、長く使われていない空き地がある。
ここに柵を建てる。
ハヤトは、山から適当な太さの丸太を切り出してきて、地面に打ち込みはじめた。
カインは、抱き紐のなかから、その作業を見ていた。
ハヤトが木槌を振り下ろすたびに、ずん、と地面が震える。
「あっ」
最初は、びくりと肩をすくめていた。
けれど、何度も繰り返されるうちに慣れたらしく、やがて震動が来る拍に合わせて、「あっ」「あっ」と声を出すようになった。
まるで、ハヤトの作業に、合いの手を入れているようだった。
「……お前、楽しんでいるな」
「あっ」
返事のように聞こえたが、たぶん、ただの合いの手だった。
柵は、三日がかりで出来上がった。
高さは、ハヤトの胸のあたり。
山羊が飛び越えられない高さで、狼にも、容易には破られない頑丈さを目指した。
隙間は蔓で締めて補強し、出入り口には、開け閉めのできる簡素な扉をつけた。
不格好だが、働きは果たすだろう。
次は、小屋だった。
雨風をしのげる屋根のついた場所が要る。
山小屋の壁に沿わせるようにして、片流れの屋根を組んだ。
床には、乾いた藁と落ち葉を敷き詰めた。
山羊が寝転がれる程度の広さがあれば、今はいい。
冬が来るまでには、もう少し壁を厚くしなければならないだろう。
山羊は、最初のうち、新しい居場所を警戒していた。
柵のなかを落ち着きなく歩き回り、ハヤトが近づけば後ずさりして、鼻を鳴らして威嚇した。
けれど、水と草を欠かさず与えているうちに、距離は少しずつ縮まっていった。
連れ帰って三日目には、ハヤトの手から草を食むようになった。
四日目には、体に触れさせるようになった。
そして、乳だ。
初めて搾ったときの手つきは、ひどくぎこちなかった。
山羊は嫌がって足を踏み鳴らし、危うくバケツを蹴り倒しかけた。
ハヤトは、とっさに器を抱え上げて、飛び退いた。
胸の抱き紐のなかで、カインが「あぅっ」と声を上げる。
「……乳しぼりは、本来ご隠居の仕事ではないのだが」
呟いてから、ちらりと胸元を見る。
カインは、山羊のしっぽの動きに夢中で、ハヤトの言葉など聞いてもいなかった。
ハヤトは、こほん、と咳払いをして、もう一度、山羊の脇に屈みこんだ。
何度かの試行錯誤のすえに、ようやくコツをつかんだ。
優しく、拍をつけて。
山羊が力を抜く瞬間を、見計らって。
温かな乳が、木の器に溜まっていく。
穀物の粉を溶いただけのものとは、まるで違った。
白く、濃く、生きものの匂いがする。
少し冷まして、ハヤトは、まず自分の指先に数滴を落とした。
それから、ほんの少しだけを、カインの口もとへ運んだ。
人間の赤子の腹に、山羊の乳が合うのかどうか。
本で読んだ覚えがあるだけで、確かなことは分からない。
だから、最初は、わずかな量だけにした。
「……」
カインは一口含んで、動きを止めた。
それから、目を見開いた。
「んっ、んっ、んっ……!」
勢いが違った。
これまでのミルクとは、比べものにならない飲みっぷりで、小さな口が必死に吸いつく。
両手で器を押さえようとして届かず、代わりに、ハヤトの指をつかんで引き寄せた。
もっと、もっと、と全身で訴えている。
「待て。今日は、ここまでだ」
腹の具合を見なければならない。
ハヤトが器を離すと、カインは「ぅー!」と不服の声を上げたが、すぐに、口もとを舐めて、満足そうに目を細めた。
「ぁ……ふぅ」
盛大なげっぷが出た。
それからにへっと笑って、そのまま、ことりと眠ってしまった。
腹が満たされた安心感が、体じゅうに染みわたったのだろう。
これまでで一番深い、穏やかな眠りだった。
その夜、ハヤトは何度も、ゆりかごを覗きこんだ。
熱はないか。腹は張っていないか。
カインは、すうすうと寝息を立てて、一度も目を覚まさなかった。
翌朝も、機嫌は上々だった。
それで、ようやく、肩の力が抜けた。
山羊に、名前がないことに気づいたのは、そのころだった。
乳を搾るたび、「おい」だの「こら」だのと呼んでいる。
それでは、あまりに味気ない。
いつまでも「山羊」では、この先の暮らしに、いささか不便でもあった。
少し考えるふうでもなく、ハヤトは、その名を口にしていた。
「……キャロル」
山羊が、耳をぴくりと動かした。
「蹴るなよ、キャロル」
キャロルは、鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
けれど、足は、もう踏み鳴らさなかった。
狼への備えにも、手を抜かなかった。
この山には、狼がいる。
長年の暮らしで、ハヤトはそれを知っていた。
普段は人を避ける獣だが、家畜の匂いを嗅ぎつければ、話は別になる。
獲物の減る冬場には、ことさら大胆になる。
柵の周りに、狼の嫌う匂いの薬草を植えた。
エルフの知識だ。
苦く、青臭い草を煮詰めて、その液を柵の丸太にも塗っておく。
匂いの壁を作るのだ。
完璧ではないが、抑えにはなる。
それから、鳴子を仕掛けた。
蔓に小石を結びつけ、山小屋の周りに渡しておく。
何かが通れば、石同士がぶつかって音を立てる。
原始的だが、夜の接近を知るには、十分だった。
柵の出来を確かめながら、ハヤトは、ふと思った。
番犬がいれば、もっと安心できる。
狼を追い、山羊を守り、異変を知らせてくれる存在。
けれど、犬を手に入れるには、人里へ降りるしかない。
それは、今ではない。
いずれ、必要に迫られたときに。
そう思って、柵の丸太を、掌でひとつ叩いた。
夕暮れどきに、ハヤトはカインを抱いて、柵のそばへ出た。
柵のなかで、キャロルが草を食んでいる。
傾いた陽が、灰色と白の毛並みを、橙色に染めていた。
カインは、山羊を見つけると、体を前のめりにした。
「あー! あーう!」
手を伸ばす。
届かない。
もっと近くで見たい、と全身が言っている。
この数日で、カインは、山羊のことをすっかり気に入っていた。
ハヤトが世話をするたびに、抱き紐のなかから身を乗り出して、声を上げ、手を伸ばした。
キャロルのほうも、少しずつ、慣れてきたようだった。
最初は、カインの甲高い声に耳をぴくぴくさせていたが、今では聞き流している。
ときどき、カインのほうへ鼻を向けて、ふんふんと匂いを嗅ぐことすらあった。
ハヤトは柵に寄りかかり、見つめ合う一人と一頭を、眺めた。
五日前には、なかったものが、ここにある。
柵。小屋。山羊。搾りたての乳。匂いの壁。石の鳴子。
全部、この小さな命のために、作ったものだ。
山小屋は、もう、かつての静けさではなかった。
赤子の声があり、壁一枚隔てた外からは、山羊の気配が届く。
夜には、藁を踏む音と、ときおりの鼻息が聞こえる。
「あうー」
カインが、山羊に向かって声を出した。
キャロルの耳が、ぴくりと動いた。
カインが、また声を出した。
キャロルが、ふんと鼻を鳴らした。
会話、とは言えない。
けれど、カインは満足そうだった。
自分が声を出すと、何かが返ってくる。
ハヤトも、山羊も。
この世界は、声を出せば応えてくれる場所なのだと、カインの体が覚えはじめていた。
ハヤトは、その横顔を見ながら、思う。
ひとつ声が増えるたびに、この小屋は、少しずつ、にぎやかになっていく。
それが、ずいぶん前から続いていたことのように感じられて、少しだけ、おかしかった。
翌日から、畑を広げることにした。
すぐに実りが出るわけではない。
けれど、人の子を育てるあいだだけでも、口に入れられるものを増やしておいたほうがいい。
山の恵みと干し肉だけでは、心もとない。
ハヤトの畑は、これまで、申し訳程度のものだった。
山小屋の裏手に、数歩四方の小さな区画がある。
薬草がいくつかと、気の向いたときに植えた野草の類。
独りのエルフには、それで足りた。
足りないものは、山で採ればいい。
狩りをすればいい。
それが、百年のあいだ続いてきた暮らしだ。
だが、人の子を育てるとなれば、話は別になる。
カインは、まだ乳を飲むだけだ。
けれど、人間の子の成長は早い。
じきに歯が生え、固いものを食べはじめ、這い、立って、走り回るようになる。
そのとき、山菜と干し肉ばかりでは、いかにも心もとない。
根菜、葉物、豆。できれば、穀物も。
育てられるものは、育てておいたほうがいい。
ハヤトは、朝から土を掘り返しはじめた。
カインは、ゆりかごごと外へ運ばれ、畑のすぐ脇の木陰に置かれた。
木漏れ日が、ゆりかごのなかに、ちらちらと落ちている。
カインは、それを目で追っていた。
木漏れ日だけを追っているのか、そのあいだに揺れる何かを追っているのか、ハヤトの目では、確かめようがなかった。
ざく、ざく、と鍬が土を割る音がする。
鍬は、何年も前に、人里の鍛冶屋で手に入れたものだった。
柄は少し痩せているが、刃はまだ使える。
山の硬い土も、体重を乗せて振り下ろせば、割れる。
石をどけ、根を掘り起こし、土を砕いて、柔らかくしていく。
カインは、ゆりかごのなかから、その作業を、じっと見ていた。
ハヤトが鍬を振り上げる。
振り下ろす。土が跳ねる。
また、振り上げる。
その繰り返しを、黒い瞳が、飽きもせず追いかけている。
柵を建てていたときも、そうだった。
ハヤトが何かをしていると、カインは、驚くほど静かになる。
泣かない。騒がない。ただ、見つめる。
この子は、動くものを見るのが好きなのかもしれない。
光の揺れも、山羊も、ハヤトの手も。
世界が動いているかぎり、この子の目は、退屈しないのだろう。
昼過ぎまでかかって、畑の広さは、およそ三倍になった。
もとの区画の南と東へ広げ、日当たりのよい緩い斜面に沿って、段を切った。
整地としては、粗いものだ。
石は、まだ残っている。
土も、十分にはほぐれていない。
けれど、何日かかけて耕しつづければ、形になるだろう。
問題は、種だった。
手もとにあるのは、薬草の種がいくつかと、保存用に取っておいた豆が少し。
これでは、畑の広さに対して、まるで足りない。
山のなかで野生に戻った野蒜や山牛蒡なら、根を掘って移し植えられる。
けれど、大根や蕪や麦の種は、人里でなければ手に入らない。
いずれ、村へ降りる日が来る。
その覚悟が、少しずつ、固まりつつあった。
山羊のときにも、思ったことだ。
山のなかだけで、すべてを賄うことには限りがある。
カインが育てば育つほど、外の世界との接点が要るようになる。
だが、今日ではない。
今日は、今できることをやる。
ハヤトは、山の中腹まで登り、野蒜の群生地から株を掘り起こして、持ち帰った。
山牛蒡の根も、数本。
それから、沢の近くに自生していた、芹の株。
水辺の草は、畑には向かないが、沢から引いた水路の脇なら、根づくかもしれない。
夕方、カインにミルクを与えながら、ハヤトは畑を眺めた。
掘り返されたばかりの、黒い土。
点々と植えられた、移し植えの株。
まだ、何も実ってはいない。
芽さえ、出ていない。
ただの土と、小さな緑が並んでいるだけだ。
けれど、数か月のちには、ここに根菜が育っているかもしれない。
来年の春には、葉物が芽吹いているかもしれない。
カインが初めて固いものを口にするころには、この畑のものを、食べさせてやれるかもしれない。
気の長い話だ。
エルフの身には、数か月など、瞬きに等しい。
ただ、乳を飲み干すたびにずしりと重くなるこの子の時間は、どうやら、同じ速さでは流れていないらしい。
「んっ、んっ……」
カインが、山羊の乳を飲み干して、ぷは、と口を離した。
唇に、白い雫がついている。
ハヤトが布で拭うと、カインは、にへっと笑った。
「あうー」
満腹の合図だった。
それから、カインの視線が、畑のほうへ向いた。
黒い土の匂い。
掘り返された大地の、湿った匂い。
初めて嗅ぐ匂いに、小さな鼻が、ひくひくと動いている。
その仕草は、柵のなかのキャロルに、そっくりだった。




