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第六話 にぎやかなせいかつ

ハヤトは、意識してカインに話しかけるようになった。


「今日も、空が青いな」

「ミルクは、ぬるめにしたぞ」

「風が気持ちいいな。……お前には、まだ分からないか」


一人で暮らしてきた年月が長かったせいか、最初のうちは、どうにもぎこちなかった。

独り言ならいくらでも出てくるのに、誰かに聞かせるための声となると、喉のあたりで引っかかる。

ぶっきらぼうな言葉が、短く落ちるだけだ。


それでもカインは、声のするほうへ顔を向け、口をもごもごさせた。

ハヤトが黙ると、続きを待つように、じっと見上げてくる。


だから、話すことにした。


以前のハヤトは、一日のほとんどを、無言で過ごしていた。

一人暮らしに会話は要らない。独り言は虚しいだけだ。

だから百年のあいだ、この山小屋には、薪の爆ぜる音と、風の音と、鳥の声しかなかった。


それが、変わった。


朝、カインをゆりかごから抱き上げるとき。

小窓から差す光を見せながら語りかけると、カインは目を丸くして窓の外を見て、それから、ハヤトの口もとをじっと見つめた。

唇が動いて、そこから音が出る。

その仕組みそのものが、この子には不思議なものらしかった。


ミルクを飲ませるときも、ただ黙って口もとへ運ぶのをやめた。

意味は、当然、分かっていない。

けれど、声の音色が柔らかいときは、安心するのか、飲みが良くなる。

声が途切れると、不思議そうに見上げてくる。

もっと喋れ、と言わんばかりに。


散歩のときは、特によく喋った。

抱き紐の中で、カインは外の世界を見渡しながら、ハヤトの声を胸板越しに聞いている。

声と、心音と、風の音。

三つが混ざって、小さな耳に届く。

木々の名前。鳥の声の違い。沢のせせらぎ。空の色。

すべてが言葉と一緒になって、カインの中へ流れこんでいく。


理解しているわけではない。

まだ、音でしかない。

けれど、音は、積み重なる。


数日が経ったころ、ハヤトは棚の奥から、一冊の本を引っ張り出した。


薄い絵本だった。

いつから棚にあるのか、本人も覚えていない。

エルフの幼子に読み聞かせるための、ごく簡単な物語だ。

森に住むウサギが冒険に出て、友達を作って、家に帰ってくる。

それだけの話。

長年、埃をかぶっていた。


この小屋にあるのは、エルフの本ばかりだった。

人の子が読むような本は、一冊もない。

百年も暮らしていれば、本だけは、それなりに溜まる。

そのほとんどは、赤子に読んで聞かせるには似合わない。

けれど、この一冊だけは、別だった。


ハヤトは、膝の上にカインを座らせて、頁をひらいた。


「むかしむかし、おおきな森に、ちいさなウサギがいました」


カインは、絵本の表紙を、ばしばしと叩いた。

紙の感触が面白いらしい。

物語の内容など、まるで聞いていない。


「こら、聞いてるのか」


「あうー!」


聞いていない。

けれど、ハヤトが思わず声を出して笑うと、カインも、つられて笑った。

何がおかしいのか分かっていないのに、ハヤトが笑うから、笑う。

それだけの理由で、声を上げて。


ハヤトは、構わず読み続けた。


「ウサギは言いました。『ぼく、山の向こうに何があるか見てみたい』」


カインは、いつのまにか、絵本を叩くのをやめていた。

ハヤトの声に耳を傾けている――ように見えた。

実際は、声の抑揚を楽しんでいるだけかもしれない。

登場人物ごとに、ハヤトが少しずつ声色を変えるのが、面白いのだろう。


それでもいい。


声は積み重なる。

意味は、あとからついてくる。

今はただ、この子の耳に、できるだけたくさんの言葉を届ければいい。


日を追うごとに、カインの反応は変わっていった。


最初は、声にただ目を向けるだけだった。

それが、声のするほうへ首を動かすようになり、声の高低に合わせて、表情を変えるようになり、やがて。


「あー。あーうー」


ハヤトが話しかけると、声を返すようになった。


意味のある言葉ではない。

ただの喃語だ。

けれど、その間合いが、明らかに「応え」だった。

ハヤトが話す。カインが黙って聞く。ハヤトが間を置く。カインが声を出す。

会話の、いちばん原始的な形。


「そうだな、今日は雲が多い」


「うー、あっ」


「雨にはならんだろう」


「あぅー」


会話にはなっていない。

なっていないのに、二人のあいだには、確かにやり取りがあった。

声を出せば、返ってくる。

返ってくれば、また出したくなる。

その繰り返しが、カインの中に、「伝えたい」という芽を蒔いていく。


ハヤトは、気づいていただろうか。

この子に言葉を教えているつもりで、自分のほうこそ、長いあいだ忘れていた「誰かと話す喜び」を、取り戻しつつあることに。


山小屋は、もう静かではなかった。


ひとつ、声が増えた。

窓の外では、風が木々を揺らしている。

その囁きの中に、精霊のものが混じっていたかどうかは、ハヤトにも、分からなかった。


ある朝、ハヤトは、ミルクのための粉を計ろうとして、手を止めた。


袋の底が、見えている。


穀物を挽いて作った粉を、湯で溶いて、ミルクの代わりにする。

一人暮らしの備蓄の中から、工夫をして、ここまで賄ってきた。

けれど、袋の口をすぼめて覗きこんでも、そこにあるのは、薄く積もった粉の層だけだった。


ハヤトは、棚の前に立った。


保存食の壺。干し肉の束。山菜を干した籠。

一人で食べる分なら、冬を越せるだけの数がある。

ただ、そこにもう一人分が加わることまでは、数えていなかった。


拾ってから、三週間近くが経つ。

その間、一度も山を降りていない。

世話に追われ、日々は目まぐるしく過ぎた。

ミルクの用意、ゆりかご、抱き紐、看病。

人里のことなど、考える余裕がなかった。


けれど、こうして冷静に数え直せば、状況は、少し危うい。


布も、足りなかった。

カインの体を拭く布。くるむ布。汚れたものの替え。

一人暮らしでは考えもしなかった消耗だ。

洗って干して、また使う。

その繰り返しの合間に、布は少しずつ、薄くなっていく。


人里までは、山を降りて、半日ほど歩いた先だ。

往復で、丸一日。

その間、カインを一人にするわけにはいかない。

かといって、乳飲み子を連れて山道を往復するのも、軽くはない。


そもそも、ハヤトは、人里にほとんど顔を出していなかった。


塩や、布や、金物。

山では手に入らないものを、年に数回、買いに行く程度だ。

村人との関係は、薄い。

エルフが山奥に住んでいることは知られているだろうが、親しい付き合いはない。

名前を覚えている人間が、いるかどうかも怪しかった。


そこへ、突然、人間の赤子を連れて現れたら。


どう思われるだろう。


エルフが、人間の子を攫った。

そう騒がれる可能性も、ゼロではない。

捨て子だったのだと説明したところで、証拠はない。

この子の親が誰なのかも、分からない。

もし、村の誰かの子だったら。

もし、村の外から来た旅人の子だったら。

もし――誰かが、捨てたことを悔いて、探していたら。


腕の中で、カインが「あうー」と声を出した。

ハヤトの表情が変わったのを、感じ取ったのかもしれない。

黒い瞳が、じっと見上げている。

不安そうな顔ではなかった。

いつもと違う空気を察したような、真剣な目だった。


エルフの里という道も、ないではない。

だが、人間の赤子を里に預けるなど、さらに現実味がなかった。

エルフは、人間より遥かに長く生きる。

文化も、価値観も違う。

人間の子を育てた前例があるのかすら、分からない。

そもそも、ハヤトは100年以上帰っていない。

里とも疎遠だった。


結局のところ、今この瞬間、カインの世界にいる他者は、ハヤトだけだ。


頼れる繋がりは、どこにもない。

この子の出自を辿る手がかりも、ない。

山の森に置かれていた。

それだけが、唯一の事実だった。


物資のことは、いずれ、向き合わなければならない。

カインが育てば、必要なものも増える。

服。靴。道具。食べ物。

山の中だけで、すべてを賄い続けるのは、難しい。


だが、今日ではない。


今はまだ、この三週間の延長でやれる。

備蓄はある。

ミルクも、工夫をすれば作れる。

カインは元気だ。熱も引いた。


「あー!」


カインが、両手を伸ばして、ハヤトの顔に触れた。

頬を、ぺたぺたと叩く。

深刻な顔をしているハヤトが、気に入らないらしい。

もっと喋れ、いつもみたいに声を聞かせろ、と言いたげに。


「……俺はご隠居だからな」


頬を叩かれたまま、ハヤトは言った。


「人里の用事は、年に数回で足りるはずだった。……足りていた」


カインは答えなかった。

答えの代わりに、ぺたぺた、と二度、頬を叩いた。


ハヤトは、小さく息を吐いた。

考え事は、小さな掌に遮られた。


それでも、手を止めるわけにはいかない。

村へ降りるにしても、降りないにしても、この山の中で打てる手は、打っておくべきだった。


ハヤトは、消えていくものを、あらためて数え直した。

粉は、見込みより早く減っている。

布は、手持ちを洗って使い回すしかない。

樹皮や蔓から、粗い布は作れる。

けれど、赤子の肌に触れさせるには硬すぎる。

獣の毛皮を鞣して柔らかくする手もあるが、時間がかかる。


だが、ハヤトは、長年この山で暮らしてきた。

山の恵みなら、知っている。


まず、ミルクのことだ。


山を降りた先の草原に、野生の山羊が群れていたのを、思い出した。

狩りの獲物として見たことはあっても、捕らえて飼うことなど、考えたことがなかった。

一人暮らしに、家畜は要らない。

けれど、今は違う。


山羊を一頭、捕まえて、飼い慣らせば、乳が手に入る。

山羊の乳は、人間の赤子にも与えられると、いつか、どこかで読んだ気がする。

どの本だったかは、思い出せない。

それでも、粉を溶いただけのものよりは、遥かに滋養があるはずだった。


次に、食べ物。


山菜や木の実の採取には、慣れている。

狩りもできる。

ただ、これまでは、自分一人分を、気ままに集めていればよかった。

冬が来る前に、保存食を増やしておかなければならない。

栗、胡桃、山葡萄。もう少しすれば、茸も出る。

この山の冬は、長い。


ハヤトは、カインをゆりかごに寝かせた。


「ちょっと待ってろ。すぐそこにいる」


「あー……」


カインは不満そうな声を出したが、ゆりかごが揺れはじめると、少し落ち着いた。

ハヤトの姿が視界にある限り、泣かずにいられるようになっている。

半月以上前、離れただけで火がついたように泣いた頃から、ほんの少しだけ、成長していた。


ハヤトは、山小屋の脇へ出た。


使われていない空き地が、ある。

柵を巡らせれば、簡単な囲いになるだろう。

水場も近い。

裏手を少し下れば、小さな沢が流れている。


それから、山の斜面へ、目を向けた。

木の実が実る季節だ。

今のうちに、集めておきたい。


ハヤトは、指を折った。


一本目、山羊。

二本目、山の恵み。

三本目で、指が止まった。


布や衣類。

これだけは、山の中では、どうにもならないかもしれない。

いずれ、人里へ降りるしかない。


指を折ったまま、ハヤトは、少しのあいだ、動かなかった。


どれもカインを連れたまま、あるいは、カインの近くでできることから、始めるしかない。

長いあいだ、家を空けることは、まだできない。


「あうー!」


山小屋の中から、カインの声が聞こえた。

泣き声ではない。

呼んでいるのだ。

ハヤトが視界から消えて、不安になりはじめている。


ハヤトは、窓のところまで戻り、ガラス越しに顔を覗かせた。


「あっ!」


カインの表情が、ぱっと明るくなった。

両手をばたばたと振って、ゆりかごの中で体をよじる。

いた、いた、と全身で言っている。


この子を連れて、山羊を捕まえに行く。

考えただけで、気が遠くなる。

けれど、やるしかない。

抱き紐がある。

胸に括りつけて、両手を空ければ――なんとか、なるだろうか。


ハヤトは、山小屋に戻り、カインを抱き上げた。


「明日は、少し遠くまで歩くぞ。山羊を探しに行く」


「あうあう」


もちろん、意味は分かっていない。

ただ、ハヤトが喋っている。声が聞こえる。

それだけで、カインは満足そうに、ハヤトの胸へ頭を預けた。


明日からは、忙しくなる。


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