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第五話 せいれい

拾ってから、五日が過ぎていた。

カインとの暮らしにも、少しずつ拍子のようなものが生まれはじめていた。


朝の散歩。ミルク。ゆりかご。抱っこ。ミルク。散歩。ミルク。眠り。


同じことの繰り返しのなかで、カインはゆりかごで過ごす時間が少しずつ長くなり、ハヤトも両手を使える時間が増えた。


その朝も、いつもの散歩を終えて山小屋へ戻り、カインをゆりかごに寝かせたところだった。

ハヤトは台所で、ミルクのための湯を沸かしはじめる。

鍋の底に小さな泡が立ちはじめたころ、ふと、手が止まった。


――静かすぎる。


普段なら、ゆりかごに寝かせれば、

「あー」「うー」と声を出すか、

手足をばたつかせるか、何かしらの音がある。


それが今は、ひとつも聞こえない。


振り返ると、カインはゆりかごの中で仰向けのまま、じっと上を見つめていた。

いや、天井ではない。

壁の高い位置にある小窓から、朝の光が一筋、斜めに差しこんでいる。

その光の中を、細かな塵が舞っていた。


カインは身じろぎもせず、それを見つめていた。

黒い瞳が、光の粒を追っている。


ゆっくりと、ゆっくりと。


ひとつの粒が落ちていくのを追い、

別の粒が浮かび上がるのを追い、

また別の粒が光の筋を横切るのを追う。


呼吸さえ静かだった。

小さな胸がかすかに上下するだけで、手も足も動かさない。

世界の仕組みを確かめようとするかのような、異様なほどの集中だった。


それが、どれほど続いただろう。

不意に、カインの右手が、ゆっくりと持ち上がった。


光の粒に向かって、指を開いて、閉じる。

掴めない。

もう一度、開いて、閉じる。

掴めない。


散歩のとき、木漏れ日を掴もうとしたのと同じ仕草だ。

けれど、あのときは、衝動のままにばたばたと手を振っていた。

今は違う。

ひとつの粒に狙いを定めて、確かめるように、手を動かしている。

掴めないことを、理解しかけている。

それでもまだ、試している。


やがて、手が止まった。


掴めなかった手を、じっと見つめる。

自分の手のひらを。

開いて、閉じて、また開いて。

それから光の粒を見て、また手のひらを見る。


「……ぁ」


小さな声が漏れた。

困惑でも、悲しみでもない。

そこにあるのに手では取れない、という、生まれて初めての「不思議」に出会った声だった。


カインは、ゆりかごの中から首をぎこちなく回して、ハヤトを見た。


「あー……?」


あの目だ。

散歩のとき、鳥が飛び去ったあとにハヤトを見上げた、あの「これは何だ」と問う目。

小さな手が、光の筋のほうへ向けられている。

まだ指差しはできないけれど、その方角だけは、はっきりしていた。


何かを伝えたがっている。

言葉を持たない体で、必死に。


ハヤトは鍋を火から下ろし、ゆりかごのそばへ歩み寄った。

光の筋に、目を凝らす。


小窓から差す朝の光。

その中を舞う塵。

一見すれば、それだけだ。


だが、エルフの目には、塵のあいだに、塵ではないものが混じっているのが見えた。

風のない室内で、ゆるゆると小さく渦を巻いている粒がある。

落ちるでもなく、浮かぶでもなく、ためらうように、そこに留まっている。


精霊の光だった。


この山には、精霊が棲んでいる。

エルフの目にだけ映る、小さな光の粒。

この数日、カインの周りには、ずっとこの光があった。


けれど、カインが目で追っているのは、塵ではない。

塵のあいだの、その一粒だった。


ハヤトは息を詰めた。


人間には、精霊は見えない。

それは、エルフにとっては、疑う余地のない常識だった。

人の世を渡り歩いていたころ、人間たちが精霊について語るのを、何度か聞いたことがある。

彼らにとって精霊は、古いおとぎ話の中の存在か、エルフから伝え聞いた話の中の存在だった。

「いるらしい」と言う顔で語り、自分の目で見たという者には、一度も会わなかった。


偶然だろうか。

たまたま、塵の動きを追った視線の先に、その光があっただけではないのか。


それとも。


あの朝も、そうだった。

拾った日、宙に残った光の残滓を、カインの黒い瞳は、ぼんやりと追っていた。

小さな指が、空へ伸びていた。

あのときは、赤子が光に目を引かれただけだと、そう思った。


胸の奥が、わずかに騒いだ。

その騒ぎが何なのか、ハヤトにはまだ、名前がつけられなかった。


「これは何だろうな」


声が降ってくると、カインは光の筋とハヤトの顔を、交互に見た。


「ぁう」


答えにならない答え。

けれど、ハヤトが同じ場所を見てくれたことには、満足したようだった。

自分が見つけたものを、この人も見ている。

それだけで、小さな体が、ほっと力を抜く。


光の粒は、まだゆるゆると漂っている。


カインは、もう掴もうとはしなかった。

代わりに、じっと見つめている。

黒い瞳の中に、光の粒が映りこんで、きらきらと揺れていた。


不意に、粒のひとつが、ふわり、と軌道を変えた。


カインの視線に引き寄せられるように、ゆりかごのほうへ漂ってくる。

鼻先、指一本ほどの距離まで近づいて、ふるふると震えて、それから、陽の中へほどけるように、すっと消えた。


「――ぁ!」


カインの目が見開かれた。

口がぽかんと開いて、消えた場所を、じっと見つめる。

それから、またハヤトを見上げた。

今度の目は、「これは何だ」ではなかった。

もっと単純な。


「あー!」


驚きと、喜びだった。

何が起きたのかは分からない。

けれど、何かが起きた。

それが楽しくて、仕方がない。


カインはしばらく、小窓の光を見つめつづけていたが、もう粒は現れなかった。

やがて、諦めたように視線をハヤトへ戻し、両手を伸ばす。


「あー、うー」


抱っこの要求だった。

不思議なものを見たあとは、やっぱり、この腕の中がいい。

そういう顔だった。



ハヤトがカインを抱き上げると、小さな体は、すとんと胸に収まった。

もう何度も繰り返した動作だ。

たった五日で、二人の体は、この形を覚えてしまっている。


ゆらり、ゆらり。

腕のなかでカインを揺らしながら、ハヤトの思考は、さっきの光景へ戻っていく。


光の粒が、カインの鼻先まで近づいて、消えた。


偶然だと言えば、偶然で済む。

風の流れ、塵の軌道、窓から差す光の角度。

いくらでも、説明はつけられる。


けれど、あの目だ。


光の粒が近づいたとき、カインは怯えなかった。

手を伸ばしもしなかった。

ただ、受け入れるように、じっと見つめていた。

そして消えたとき、悲しむのではなく、笑った。

挨拶を交わしたあとのような、満足した顔で。


おとぎ話めいている、とハヤトは思う。


精霊を見る人間。

そんな話は、エルフの古い語りの中にも、滅多に出てこない。

少なくとも、ハヤトは、そういう人間に会ったことがない。

ましてや、生後数か月の乳児に。


――でも。


精霊のことなら、ハヤトは、よく知っているつもりだった。

彼らは、おしゃべりだ。

ただし、一方的に。

こちらの言葉に答えることはなく、思いついた単語を、いつまでも口にしつづけている。

働いてもらうには、エルフに伝わる術式を通さなければならない。

頼みを聞いてくれる相手ではなく、手順を踏んで、初めて動いてくれる相手だ。


その精霊が、人間の赤子のそばへ、自分から寄っていった。


熱を出したときも、「窓」と教えてくれたのは、この山の精霊だった。

気まぐれで、好奇心だけで動く彼らにとって、突然この山に現れた小さな命は、「面白いもの」だったのかもしれない。

新しい住人の顔を、覗きに来ただけなのかもしれない。


「あ、ぅ……」


カインが、揺られながら、ハヤトの鎖骨のあたりに頭を預けた。

さっきまでの集中が嘘のように、目がとろんとしている。

光の粒のことは、もう忘れたのか。

それとも、体のどこかに仕舞いこんだのか。


小さな手が、ハヤトの襟元を、きゅっと握る。


「ぅふ……」


笑った。

何がおかしいのか分からない、理由のない笑みだった。

心音が聞こえて、揺れが心地よくて、さっき不思議なものを見て、それを同じ人が見てくれて。

そのすべてがごちゃ混ぜになった、赤子だけが浮かべられる幸福な顔だった。


腕のなかで、カインの呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。

眠りに落ちる寸前、小さな唇が、もごもごと動いた。


「あ……ぁ……」


何かを言おうとしたのか。

誰かに、返事をしたのか。

それは誰にも分からない。

ハヤトにも、カイン自身にも。


ハヤトは、窓の光の筋へ、目を向けた。


もし、本当に見えているのなら。

もし、あの光と、何かが通じ合っているのなら。

精霊は、何を言ったのだろう。

「ようこそ」だろうか。

「おまえは誰だ」だろうか。


「……どうか、この子を守ってくれ」


声は、口をついて出ていた。

低く、短く、飾り気のない言葉だった。


言ってから、ハヤトは小さく眉を寄せた。

精霊に頼み事をして、聞いてもらえた試しなどない。

それを一番よく知っているのは、自分のはずだった。

柄でもない、と思う。

祈りという習慣を、いつの間にか手放して、もう長い。


けれど、取り消す気にはならなかった。

誰かの無事を、こんなふうに願ったのは、ずいぶん久しぶりだった。


窓から差す光の筋は、まだそこにあった。

塵はもう、不自然な動きをしていない。

ただ静かに、朝の光の中を漂っている。


そのとき、ほんの一瞬、風もないのに、カインの黒髪が、ふわりと揺れた。


誰かが小さな頭を、そっと撫でたように。


「……ん、ぁ」


カインが、眠りの中で、微かに笑った。

夢を見ているのか、それとも、今の一瞬を感じ取ったのか。

握った襟元に、きゅう、と力がこもり、また緩んだ。


応えてくれたのだろうか。


精霊は、頷かない。

言葉も、返さない。

気まぐれに風を送り、木々を揺らし、ときおり、こうして触れるだけだ。

それが肯定なのか、ただの偶然なのか、エルフであるハヤトにも、判別はつかなかった。


けれど、悪い気配ではなかった。


山小屋の中に、朝の静けさが満ちていく。

カインの寝息と、遠くの鳥の声と、木々のざわめきだけが聞こえる。

光の筋がゆっくりと角度を変え、ゆりかごの縁を照らし、床を這い、やがてハヤトの足もとに届いた。


一人と、一人。

長い時間を一人で過ごしてきた者と、まだ何も持たない者。

この不思議な組み合わせを、山の精霊は、どう見ているのだろう。



見れば、カインはすっかり眠っていた。

頬はほんのり桃色で、熱の名残は、もうどこにもない。

小さな胸が規則正しく上下し、ときおり、ぴくりと指が動く。


守ってくれ、とハヤトは頼んだ。

けれど本当は、今この瞬間、この子を守っているのは、この腕だった。

精霊ではなく、木と蔓で作った不格好なゆりかごでもなく、この腕が。


精霊は、きっとそれを知っている。

だから、あの光の粒は、カインではなく、ハヤトのほうを見ていたのかもしれない。


――おまえがちゃんと守れよ、と。


そんなふうに言われた気がしたのは、さすがに夢想が過ぎるだろうか。

精霊が人の事情に気を配るなど、聞いたこともない。


ハヤトは、空いたほうの手を、目の前にかざした。


薪を割り、獲物をさばき、剣を振るってきた手だった。

指の付け根は硬く、掌には古い傷が白く走っている。

けれど、赤子の熱の前では、何の役にも立たなかった。

この手で守れるものには、限りがある。


その掌に、カインの頭が、すっぽりと収まる。

黒髪は産毛のように柔らかく、指のあいだを、するりと抜けていく。


この髪がいつか伸びて、

この体がいつか大きくなって、

この手が、いつかハヤトの手より大きくなるかもしれない。


人間の子は、そうやって育つのだと聞いたことがある。


そのとき、この子は、どんな顔をしているだろう。

どんな声で話して、どんな目で世界を見て、どんな手で何を掴むのだろう。


自分の足で立てるくらいに、強く育てばいい。

自分で自分を守れるくらいに。

そう思ってから、ハヤトは、ほんの少しだけ、息を止めた。


「……大好きだよ」


声が、静かな山小屋の中に落ちた。


口にした瞬間、自分の耳を疑った。

こんな言葉が、自分の中にあったのか。

思っていたよりも、ずっと大きな言葉だった。

舌の上に載せただけで、胸の内側が熱を持つ。

耳のあたりが、じわりと熱い。


誰が聞いているわけでもない。

聞いているのは、眠っている赤子と、窓の外の山の木々だけだ。

それなのに、ハヤトは思わず、小さく咳払いをした。


カインは眠っていた。

だから聞こえていない。

――はずだった。


けれど、その言葉が落ちた瞬間、小さな手が、襟元をきゅう、と握り直した。

眠りの中で、無意識に。

声の振動だけを、胸板越しに受け取ったように。


口もとが、ふにゃり、と緩む。


寝顔だ。ただの寝顔だ。

夢を見ているだけかもしれない。

ミルクの夢か、光の粒の夢か、揺られる心地よさの夢か。

それでも、そのタイミングで笑うのは、ずるいと思った。


「ぁ……ぅ、あ」


カインが、眠りの中で、また口をもごもごと動かした。

何を言っているのか分からない。

言葉にはほど遠い、ただの音の連なり。

けれどハヤトには、それが「大好き」の返事に聞こえた。


聞こえたことにしておこう。


窓の外で、山の木々がさわさわと揺れている。

光の筋は、もう角度を変えて、ゆりかごの横の床を照らしていた。

精霊の気配は、薄れている。


でも、この腕の中の温もりは、確かにある。

それだけで、今は十分だった。



その日から、ハヤトは、意識してカインに話しかけるようになった。


「今日も、空が青いな」

「ミルクは、ぬるめにしたぞ」

「風が気持ちいいな。……お前には、まだ分からないか」


一人で暮らしてきた年月が長かったせいか、最初のうちは、どうにもぎこちなかった。

独り言ならいくらでも出てくるのに、誰かに聞かせるための声となると、喉のあたりで引っかかる。

ぶっきらぼうな言葉が、短く落ちるだけだ。


それでもカインは、声のするほうへ顔を向け、口をもごもごさせた。

ハヤトが黙ると、続きを待つように、じっと見上げてくる。


だから、話すことにした。


棚の奥から、古い一冊を引っ張り出したのは、数日後のことだ。

エルフの子どもが最初に読むという、薄い本だった。

森の木々や、獣の名を、短い言葉で綴ってある。


この小屋にあるのは、エルフの本ばかりだった。

人の子が読むような本は、一冊もない。

百年も暮らしていれば、本だけは、それなりに溜まる。

そのどれもが、赤子に読んで聞かせるには、少しばかり似合わない。


それでも、ハヤトは頁をひらいて、ゆりかごのそばに腰を下ろした。

低い声で、ゆっくりと、一語ずつ読んでいく。


カインは、毛布の端を握ったまま、黒い瞳で、声の出どころを追っていた。


山小屋に、ひとつ、声が増えた。

窓の外では、風が木々を揺らしている。

その囁きの中に、精霊のものが混じっていたかどうかは、ハヤトにも、分からなかった。


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