第四話 きみのせかいがひろがる
ハヤトは抱き紐の結び目を、昨日より少しだけ上手に結び直した。
そしてカインを胸に収めてから、山小屋の戸を押し開けた。
朝の山の空気が、戸口から流れこんでくる。
冷たく、湿っていて、土と苔と木の葉の匂いがした。
八月も終わりに近い山は、まだ夏の名残を留めている。
けれど朝のうちだけは、もう肌寒い。
ハヤトは念のため、カインの体を覆うように、薄手の布をもう一枚かけてやった。
小屋の前から続く細い道は、百年のあいだ、一人で歩いてきた道だ。
足もとの根の位置も、頭上の枝の高さも、体が覚えている。
ただ、今朝はいつもと歩幅が違った。
胸の重みに合わせて、自然と歩調が小さく、ゆっくりになっている。
「――ぁ」
カインが目を開けた。
小屋の中しか知らない黒い瞳に、初めて、外の世界が映りこんだ。
梢の隙間から、朝の光が細い筋になって落ちてくる。
葉が風にざわめき、鳥の声が、天井のない空に反響して、あちこちから降ってくる。
「ぁ……あ、あー!」
小さな手がばたばたと動いた。
抱き紐の縁から指が突き出て、木漏れ日を掴もうとする。
光は指のあいだをすり抜けていく。
そのたびに、きょとんとした顔をして、もう一度手を伸ばす。
何度やっても掴めない。
それでも飽きずに、何度も、何度も。
ハヤトが歩くたびに、景色が変わった。
濡れて黒ずんだ木の幹、苔むした岩、青く茂る羊歯の群れ。
カインの首がぎこちなく左右に動いて、目に入るものを、片端から追いかけようとする。
見るものが多すぎるのか、ときおりぽかんと口を開けたまま固まって、それからまた「あー!」と声を上げた。
頭上を、小鳥が横切った。
「きゃ!」
甲高い声だった。
驚いたのか、喜んだのか、本人にも区別がついていない様子だ。
ハヤトの胸元の布をぎゅっと掴んで、飛び去った鳥の方角へ目を凝らす。
追いきれず、見失って、ハヤトの顔を見上げた。
「あー? ぅあ?」
今のは何だ、と聞いているような顔だった。
風が吹いた。
黒髪がふわりと揺れて、小さな鼻がひくひくと動く。
土の匂い。草の匂い。朝露の匂い。
小屋の中にはなかった匂いが、ひとつ残らず新しい。
斜面へさしかかったとき、羊歯の茂みの陰に、見覚えのある籠が転がっているのが目に入った。
ハヤトは足を止めた。
薬草の籠だった。
半分ほど満ちたところで置いたきり、二日分の夜露と陽に晒されて、中の葉はくたりと萎れ、縁が茶色く縮れている。
あとで拾えばいい、と思った朝から、二日が経っていた。
「……二日越しの『あとで』か」
片手を伸ばして、籠を拾い上げた。
湿った土が底にこびりついている。
萎れた分は、干して茶にでもすればいい。
腕に籠をひっかけると、胸元でカインが首を伸ばして、見慣れぬものを覗きこんだ。
「あぶ」
小さな指が籠の縁へ伸びて、編み目の隙間に、ちょんと触れる。
ハヤトは何も言わずに、その指が離れるのを待ってから、歩きだした。
ほんの十分ほどの散歩だった。
小屋の前まで戻ってくるころには、カインは見聞きしたものの多さに疲れたのか、抱き紐の中で、うとうとと瞼を重くしていた。
それでも片手だけは、ハヤトの胸元の布を握ったままだった。
眠りに落ちる最後の瞬間まで、小さな口もとには、笑みの名残があった。
初めての外の世界。
見るもの、聞くもの、匂うもののすべてが、ハヤトの胸の上から見た景色だった。
この子にとって、世界とは、ハヤトの腕の中から覗くものなのだ。
まだ、しばらくは。
散歩から戻ると、ハヤトは抱き紐を外さないまま、台所に立った。
片手で棚から干し肉を取り出し、自分の遅い朝食を済ませる。
久しぶりに山の空気を深く吸って、体の隅々まで風が通ったような心地がした。
一人のときには当たり前だった日課が、たった二日途切れただけで、こんなにも新しく感じられる。
卓の端には、拾ってきた薬草の籠を置いた。
萎れた葉は、まだ仕分けていない。
胸元で、規則正しい寝息が聞こえる。
小さな手は、眠っていても、ハヤトの服をうっすらと握っていた。
外に出たときのカインの様子を、思い返す。
木漏れ日に手を伸ばしていた。
鳥を目で追っていた。
風の匂いに、鼻をひくつかせていた。
あの黒い瞳が、見るものすべてを吸いこむように輝いていた。
怖がらなかった。泣かなかった。
知らないものを前にして、怖れより先に、興味を向ける子なのだ。
小屋の中だけでは、あの好奇心は、きっと満たしきれないだろう。
これからも、毎日少しずつ、外へ連れ出してやろう、とハヤトは思った。
昼過ぎ、カインが目を覚ました。
「ぁう!」
寝起きの声は機嫌がいい。
ミルクを飲ませ、濡らした布で顔と手を拭いてやると、カインはぱたぱたと手足を動かして、何かを訴えはじめた。
抱き紐の縁から顔を出し、戸口のほうを、じっと見つめている。
「あー、あー!」
まさか、と思った。
たった一度の散歩で、もう外を覚えたのか。
あの戸の向こうに、光と風と音があったことを、この小さな頭は、ちゃんと記憶しているのか。
黒い瞳が、戸口とハヤトの顔を、交互に見る。
言葉にはできないから、目で訴えるしかない。
あっち。あっちへ行きたい。
そう言っているような顔だった。
けれど、今日はもう十分だろう。
熱が引いたばかりの体に、長い外気はまだ早い。
ハヤトが動かないと悟ると、カインはしばらく、ぶすっとした顔をしていた。
やがて、諦めたように、ふにゃ、と口もとを緩めて、ハヤトの胸に頭を預ける。
ここにいるなら、まあいいか。
そんな顔だった。
明日もまた、少しだけ外に出よう。
この子の世界を、少しずつ広げていこう。
ハヤトの胸の上から見える範囲で、ゆっくりと。
ただ、問題がないわけではなかった。
…手が足りなかった。
困るのは、両手がふさがっていることのほうだった。
腕が重いわけではない。
薪の束を担いで山道を行き来する体が、赤子ひとりの重みに音を上げるはずもなかった。
抱き紐のおかげで、片手は使える。
けれど、仕分けを待つ薬草も、洗わねばならない瓶も、繕いかけの屋根板も、片手だけでは、どれもろくに進まない。
同じ姿勢で肩と腰にたまった強張りが、じわりと残る。
試しに、カインを寝台へ下ろしてみる。
「ふぇ……っ」
唇が震えはじめる。
もう、息を吸う間に分かるようになってしまった。
籠でもあれば、とハヤトは思った。
揺らしておけば眠る、と聞いたことがある。
寝かせて、揺らして、そばを離れても、安心していられるような場所。
もちろん、一人暮らしの家に、そんな気の利いたものはない。
だが、材料ならある。
百年も山に暮らしていれば、小屋の屋根も、壁板も、戸の蝶番も、自分の手で直してきた。
木を削るのも、蔓を編むのも、暮らしのうちだ。
軒下には、修繕用に乾かしてある木材が、何本か立てかけてある。
鉈も、鑿も、小刀も、道具箱に揃っている。
蔓なら、谷の沢沿いに、いくらでも生えていた。
問題は、カインを下ろせないということだけだった。
「でも、やるしかない…」
ハヤトは、抱き紐を締め直した。
カインを胸に括りつけたまま、作業にとりかかった。
まず、沢まで下りて、蔓を探した。
片手で太い蔓を引き、もう片方の手で鉈を握る。
刃の向きを、胸から遠ざける。
振りかぶらず、手首だけで、すとんと落とす。
蔓が断たれる、小気味よい音が、沢の水音にまじった。
「あー?」
胸元で、カインが、びくっと肩をすくめてから、きょとんとした。
鉈の音。蔓の切り口から立つ、青い匂い。
いつもと違う手の動きを、不思議そうに見つめている。
太い蔓だけを選んで束ね、小屋へ戻る。
蔓は桶の水に浸して、しなやかになるまで置く。
そのあいだに、軒下の木材を、鑿と小刀で削っていく。
カインの頭に木屑が落ちないよう、布の端を、ふわりと頭にかけてやった。
本来なら、両手でやる仕事だった。
片手で木材を押さえ、もう片方の手で鑿を使い、ときおり手を止めて、カインの背を支え直す。
不器用な手順だった。
骨組みを、弧を描く二本の脚の上に載せる。
押せば、ゆらゆらと揺れる形にしたかった。
何度も、やり直した。
最初は、蔓の編みが甘くて、底が抜けそうになった。
次は、脚の弧が深すぎて、少し押しただけで、大きく傾いた。
その次は、骨組みの高さが合わず、どう見ても危なっかしかった。
蔓を、交互にくぐらせていく。
上、下、上、下。
途中で、手が、ふと止まった。
卓の脇に、古い籐のバスケットが、置いたままになっている。
ハヤトは、その編み目を、ちらりと見た。
気づけば、手は、あの籠の編み目を、なぞっていた。
意識したわけではない。
けれど、同じように、細かく、きっちりと。
あの籠は、この子を、あの朝まで守っていた。
縁起は、悪くないだろう。
そう思ってから、ハヤトは、続きを編んだ。
バスケットの編み目の上に、ほんの少しだけ、自分のやり方を足しながら。
午後いっぱいをかけて、ようやく、それらしいものが形になった。
楕円形の籠状の本体に、蔓で編んだ底。
弧を描く脚をつけて、押せば、ゆらゆらと揺れる。
毛布を敷きつめれば、小さな体を受け止めるには、十分な大きさだった。
見た目は、正直、不格好だった。
左右の高さが微妙に違い、蔓の編み目も、均一ではない。
けれど、頑丈さだけは、体重をかけて確かめてある。
ハヤトは、胸元のカインを見下ろした。
「……ご隠居の手仕事にしては、悪くない」
少しばかり、澄ました声で言ってみる。
カインは、ふあ、と大きなあくびをした。
そのまま、とろんと瞼を落とす。
ハヤトは咳払いをひとつして、何もなかった顔で、寝台へ向かった。
自分が使っている毛布を、一枚、剥がした。
ゆりかごの底に敷き、角を整える。
手のひらで、何度かならす。
この毛布には、ハヤトの匂いが、染みついている。
抱き紐の結び目を解いた。
眠りかけたカインを、そっと、毛布の上へ移す。
「…………」
小さな手が、ハヤトの服から、離れる。
一瞬、顔がくしゃりと歪みかけた。
けれど、毛布の柔らかさと、ゆりかごの穏やかな揺れが、体を包んで、泣き声に変わる前に、
「……ぁ、ぅ」
ゆらり、ゆらり。
ハヤトが手で軽く揺らすたびに、カインの瞼が、ゆっくりと落ちていく。
抱かれているときとは違う、けれど、確かに包まれている感覚。
毛布には、ハヤトの匂いがある。
それが、ここにいる、という証になった。
小さな手が、毛布の端を握った。
服の代わりに。
ハヤトの肩が、ふいに軽くなった。
半日ものあいだ胸にあった重みが、今は、そこにない。
体の一部を、置き忘れたような心許なさもあったが、
それでも、両の腕は、ようやく、自分のものに戻った。
ハヤトは、ゆりかごのそばに腰を下ろし、ゆっくりと揺らしつづけた。
カインは、毛布の端を握ったまま、とろとろと微睡んでいる。
完全には眠っていない。
薄く開いた黒い瞳が、ときおり、ハヤトの姿を確かめるように動く。
…いる。まだいる。
それを確かめると、また瞼が落ちる。
片手でゆりかごを揺らしながら、もう片方の手で、カインの頭をそっと撫でた。
黒髪は柔らかく、指のあいだを、するりと抜けていく。
カインが、「ぅ……」と小さく声を漏らした。
嫌がっている声ではない。
心地よさに溶けていく声だった。
揺れること。
撫でられること。
この場所にいること。
その全部が、良いことなのだと、言葉ではなく、体に教えていく。
何度も、何度も。
夕方、夕食の支度のために台所に向かう。
カインを迎え入れてから初めて、両手が自由に使える状態で台所に立った。
ちらりと、ゆりかごを振り返る。
カインは、起きていた。
天井の木目を見つめて、手足を、ぱたぱたと動かしている。
泣いていない。
鍋に火をかけ、干し肉を刻む音が立つと、カインの首が、そちらへ向いた。
「あ?」
音が聞こえる。姿は、見えにくい。
けれど、匂いがする。ハヤトの匂いがする。
ゆりかごからも、同じ匂いがする。
だから、ここにいる。遠くない。
カインは、少しだけ口をもごもごさせて、それから、ゆりかごの揺れに身を任せた。
毛布をきゅっと握って、足をぱたぱたさせて、天井の木目を、またじっと見つめる。
泣かなかった。
ハヤトが食事を終えて戻ると、カインは、ゆりかごの中で、目をぱちぱちさせていた。
ハヤトの顔を見つけた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「あー! きゃ!」
両手を突き上げて、ばたばたと振り回す。
抱っこしてくれ、ではない。
嬉しい、という、全身の言葉だった。
帰ってきた。
やっぱり、いた。
ゆりかごの中から見上げるハヤトの顔は、抱かれているときとは角度が違う。
けれど、同じ顔だった。
ハヤトが顔を近づけると、小さな手が、ぺちぺちと頬を叩いた。
力加減など知らない。
だから、遠慮もない。
ただ、触りたいから触る。
そこにあるから、叩く。
「ぁう、ぶー!」
涎まみれの手が、ハヤトの鼻を掴んだ。
得意げな顔だった。
何が得意なのかは、本人にも分からないだろうが、とにかく機嫌がいい。
窓の外では、日が山の端へ傾き、小屋の中へ、橙色の光が差しこんでいた。
その光のなかで、不格好な木と蔓の籠が、ゆらり、と小さく揺れている。
ゆりかごは、少しずつ、「良い場所」になりつつあった。
ハヤトの匂いがする毛布と、穏やかな揺れと、離れても必ず戻ってくるハヤトの存在。
その三つが、この不格好な籠を、カインにとって二番目に安全な場所に、変えていく。
一番目は、やはり、抱き紐の中、ハヤトの胸の上だったが。




