第三話 だっこひも
おかしなものだ、と思った。
夕暮れの色が、窓から斜めに差しこんでいた。
寝台の上では、カインが毛布のあいだに埋もれるようにして横たわっている。
熱の名残はもうなく、頬はほんのりと赤いだけで、薬草の青い匂いが小屋の隅にまだ薄く残っていた。
その小さな手が、ハヤトの人差し指を握ったまま、時おり思い出したように、歯のない口でむにむにと指先を甘く噛んだ。
涎が関節の皺をつたい、手の甲まで濡らしていく。
ぬぐえばいいものを、ハヤトはそのまま、動かずにいた。
驚くことに昨日の朝から数えて、まだ一日しか経っていない。
一晩じゅう抱いていた腕は、いまも肘から先が痺れている。
ミルクの温度ひとつ測るにも手が迷い、熱を出されたときには、薬草の籠をひっくり返しかけた。
薪の束を担いで山道を上り下りしても息ひとつ乱れない体が、この小さな重みを支えるときにだけ、妙にぎこちなくなる。
動いた量でいえば、斧を振るう日のほうが、よほど多いはずだった。
それなのに、今日はいつもと違う疲れ方をしている。
「…気の張り方が違うのだ。」と思った。
山のご隠居、という言葉が頭をよぎる。
朝は好きな時刻に起き、夜は好きなときに眠り、誰にも干渉されず、精霊と木々だけを隣人にして暮らす。
その暮らしを、悪くない、と思っていた。
いや、少しばかり格好がいい、とさえ思っていた。
涎まみれの指を見下ろして、ハヤトは小さく鼻から息を抜いた。
格好のいいご隠居は、今日一日、一度も座って茶を飲んでいない。
「あー……」
カインが指をくわえたまま、満足そうに息を吐いた。
黒い瞳が、とろりと細くなる。
夕方の光が二人の上に等しく降りて、毛布の縁を金色に縁取った。
ハヤトは、ふと口をひらいた。
「お前は、どんな大人になりたいんだろうな」
声に出してから、妙な口ぶりだったと気づいた。
人の行く末を問える立場の者が、さも落ち着きはらって言うような、そんな言い方だった。
長く生きてきたからといって、大人になれているとは限らない。
それでも、この子の前では、大人の顔をしていなければならない気がした。
少しばかり、背伸びをした声だった。
「……ぁ、う」
カインの目がゆるやかに開き、ハヤトの口もとのあたりをぼんやりと追った。
声が聞こえた、ということだけは伝わったのだろう。
小さな口がもごもごと動く。
何かを返そうとしているのか、口を動かす感触を楽しんでいるだけなのか、判別はつかなかった。
「ぶ、ぶー……」
答えの代わりに、握った指がぐいと口もとへ引き寄せられ、はむりと噛まれる。
歯茎のやわらかな力が、指の腹にぐにぐにと伝わってきた。
「大人」という言葉も、「なりたい」という願いも、この子の中にはまだない。
あるのは、腹が満たされていることと、体が楽になったことと、指があたたかいこと。
それだけで、この子の世界は閉じている。
どういう大人になるのかは、これから先、ハヤトが何を見せ、何を教え、何を与えるかにかかっている。
今はまだ、この手が握れるものは指一本きり。
この耳に届くのは、一人のエルフの声だけだ。
カインはふにゃりと笑って、また瞼を落としていった。
答えは、これから何年もかけて、この子自身が見せてくれるのだろう。
そう思ってから、ハヤトは自分が「何年も」という数え方をしたことに、少しだけ驚いた。
事件は、夕方の微睡みから覚めたカインにミルクを飲ませ、寝支度を済ませた頃のことだった。
空になった哺乳瓶を、台所の棚へ戻しに行った。
ほんの数歩、数える間もないほどの距離だ。
背を向けて、瓶を棚に置き、手を離した。
その瞬間だった。
「――ふぇ、ぁ、うあああん!!」
火がついたような泣き声が、小屋の梁を震わせた。
昨夜の夜泣きとも、昼間の熱でぐずった声とも違う。
ハヤトが視界から消えた、ただその一点にだけ向けられた泣き方。
振り返ると、寝台の上で小さな体が必死にもがいていた。
首はまだ据わりきっていないのに、ハヤトの去った方角へ顔をねじ向けようとして、赤い頬が毛布に擦れる。
手が寝台の縁をつかみ、頭を持ち上げようとして、力が足りず、ぱたりと崩れ落ちた。
「うあぁぁん! あぁ……あああん!」
涙が目尻からあふれて、耳のほうへ流れていく。
口をいっぱいに開き、全身で叫んでいる。
さっきまで指を噛みながら眠りかけていた子と、同じ子とは思えなかった。
ハヤトは、棚から手を離したまま、一瞬だけ動けなかった。
まだ這うことすらできない子が、自分にできる精一杯のやり方で、追いかけようとしている。
たった一日。
それだけの時間で、この子の中には、いなくなることへの怖さが刻まれていた。
昨夜、暗がりのなかで泣いて、抱き上げてもらった記憶。
昼間、熱の苦しさのなかで、ずっとそばにあった温もり。
それが今、裏返しになってあふれ出している。
ご隠居らしい落ち着いた足取りも忘れて、ハヤトは寝台へ駆け寄った。
「大丈夫だ。俺はいなくならない」
床板を踏む足音が近づいた途端、泣き声は一段高くなった。
怒っているのではない。
来てくれた、という安堵が、堰を切ったように声を押し出していた。
両手で抱き上げると、小さな体が震えているのが分かった。
言葉の意味は、まだ届かない。
けれど。
「ひっ……ぅ、ぁ……」
抱き上げられた途端、カインの両手がハヤトの胸元の服を、ぎゅう、と掴んだ。
生後数か月の握力とは思えないほど強く、指の節が白くなるほど、布地を握りしめている。
もう二度と離さない、とでも言うように。
胸に伝わる体温と、耳の下で鳴る心音。
昨夜も昼間もそばにあったものが、今、確かにここにある。
「ぅ……ぅぅ、あ……」
泣き声が少しずつ細くなる。
しゃくり上げながら、カインはハヤトの胸に顔をうずめた。
涙と鼻水と涎が、服を容赦なく濡らしていく。
それでも、服を握る手だけは、少しも緩まなかった。
しばらくして、泣き声がか細い息づかいに変わったころ、
「……あ」
胸元から、濡れた黒い瞳がそろそろと覗いた。
ハヤトの顔を見上げて、唇をまだ震わせながら、確かめるようにじっと見つめる。
いる。ここにいる。
その確認が済むと、カインは泣き顔のまま、口もとだけをふにゃりと緩めた。
笑いたいのに、しゃくり上げがまだ止まらず、泣き顔と笑顔が混ざった、不思議な表情になる。
「ぁ、う……ひっく……あぅ」
それでも手は離さない。
この時、カインの中に、ひとつの記憶が刻まれた。
言葉ではなく、体の奥に。
泣けば来てくれる。いなくなっても、戻ってくる。
この腕は、自分を離さない。
大きくなったこの子が、この夜のことを言葉で思い出すことは、きっとないのだろう。
けれど、人の胸に顔をうずめたときの安堵だけは、体のどこかに残り続ける。
――同時に、いなくなるかもしれないという怖さも。
一方でハヤトは、その小さな背を、掌でゆっくりと撫でた。
腕のなかのカインを抱いたまま、ハヤトは立ち尽くしていた。
片手を剥がそうとすれば、唇が震えて、すぐに泣きかける。
これでは、湯を沸かすことも、薬草を刻むことも、水を汲みにいくことさえできない。
夜は、まだ長い。
明日も、明後日も、この子は同じように泣くのだろう。
こういうとき、人はどうしていたのだったか。
遠い記憶の底を探る。
人の世を渡り歩いていた頃、街道沿いの集落や、山あいの小さな里で、赤子を連れた女たちを何度も見かけた。
彼女たちは、赤子を胸や背に布でくくりつけたまま、畑に出て、水を運び、薪を割っていた。
両手は自由で、赤子はいつも親の体温と鼓動のそばにある。
理にかなっている、と思った。
問題は、そんな便利なものが、この小屋にあるはずがないということだ。
カインを片腕で支えたまま、ハヤトは部屋を見回した。
手拭い――短い。毛布――厚すぎる。
視線が、棚の上段で止まった。
薬草を干すときや、獲物を包むときに使う、丈夫で長い麻の一枚布。
洗いざらしで、少し固くなっている。
食卓の脇には、昨日の古い籐のバスケットが置かれたままだったが、そこに敷かれた布には、手を触れなかった。
片手で、棚から布を引き下ろす。
卓の上に広げようとして、背を屈めると、いつもの癖で、つい息が漏れた。
腕の中の体がかすかに揺れ、カインが「んっ」と息を詰める。
「……大丈夫だ、すぐ済む」
寝台の端にカインをそっと下ろした。
「ふぇ……っ」
その途端、顔がくしゃりと歪む。
ハヤトは空いた手を小さな腹に添えたまま、もう片方の手で、布を折りはじめた。
「……俺はご隠居だからな。こういう細かい仕事は、本来、性に合わないんだ」
誰に聞かせるでもなく、少しばかり澄ました声で言ってみる。
ちらりと見ると、涙の跡をつけたままの黒い瞳は、ハヤトの顔ではなく、宙に垂れた布の端の揺れだけを追っていた。
返事の代わりに、ぷす、と唾の泡がはじける。
通じていない、ということだけは、よく分かった。
ハヤトは咳払いをひとつして、何もなかった顔で、布を折り直した。
布を対角に折り、肩から斜めにかけて、結び目の位置を探る。
旅の途中で見た女たちの手つきを、薄い記憶のなかから必死に引き寄せながら、見よう見まねで形を作っていった。
一度目は、結びが緩すぎて、布がずるりと肩から落ちた。
二度目は、布の幅が足りず、カインの体を収めるには、あまりにも心もとなかった。
長く生きていれば、布の一枚くらい難なく結べるものだと思っていた。
そのあいだにも、寝台の上の泣き声は、ふぇ、ふぇ、と細く続いている。
三度目に、布を折り直して肩の高い位置で結び、胸の前にくぼみを作ると、ようやく、小さな体がおさまるだけの形になった。
カインを抱き上げ、布の中へ、そっと滑り込ませる。
途端に、泣きかけていた顔が止まった。
「……ぁ」
胸に、小さな体が密着した。
布越しではない。
心音が、肋骨を通じて、直に相手の耳へ届いている。
体温が、隙間なく全身を包む。
抱き上げられていたときより、さらに近く、さらに深く。
カインの手が、服を掴むのをやめた。
掴まなくても、離れない。
この布が、この腕が、自分をここへ留めてくれている。
「あ……ぅ」
安堵の吐息が、胸元からこぼれた。
小さな頭が、ことり、と預けられ、黒髪が鎖骨のあたりをくすぐる。
しゃくり上げの名残が、まだ時おり体を揺らしたが、もう泣く気配はなかった。
試しに、台所のほうへ歩いてみる。
一歩、二歩。
カインは、揺れに合わせて、ゆらゆらと身を委ねるだけで、泣かなかった。
棚へ手を伸ばしても、水瓶の蓋を開けても、鍋を火にかけても、胸のなかの重みは、静かにそこにある。
「……ふ、ふ」
歩く揺れが心地よいのか、カインの口もとが、ふにゃりと緩んだ。
目がとろんと細くなり、小さな指が、ぱくぱくと宙を掴んで、やがて胸の前の布を、そっと握った。
今度は、必死な握り方ではなかった。
ただ、触れていたいだけの、柔らかな握り方だった。
不格好な抱き紐だった。
結び目は左右でちぐはぐで、布の端が、背中でだらしなく垂れている。
あの女たちが見たら、笑うかもしれない。
ハヤトは、抱き紐の上から、もう一度、小さな背を撫でた。
掌に、規則正しい、早い鼓動が伝わってくる。
窓の外では、日が山の端に落ちきろうとしていた。
青い影が、谷あいの斜面をゆっくりと上ってくる。
カインにとっては、この布のなかが、この世でいちばん安全な場所だった。




