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第二話 こどもがいるということ

その日の夜のことだった。


日中は、驟雨のように泣き、ミルクを飲み、ハヤトの指を握ったまま眠り、また泣いた。

山小屋に来て初めての一日が、慌ただしく暮れていった。


窓の外はすっかり暗くなり、山の夜が小屋を包んでいる。

虫の声と、遠くで枝の擦れ合う音だけが聞こえる、いつも通りの静かな夜――のはずだった。


「ふぇ……ふぇぇ……うあああん!」


毛布を重ねて作った寝床の中で、カインが突然、火がついたように泣き出した。


寝台で浅い眠りについていたハヤトは、その声に目を開け、身を起こした。

声を立てぬよう息を殺して、寝床の傍らへ屈みこむ。

ミルクは寝る前に、たっぷりと飲ませた。おしめも替えた。額に触れても、熱はない。

それでも、泣く。


小さな体を仰け反らせ、拳を握りしめ、真っ赤な顔で、天井に向かって叫んでいる。

夜の空気が肌に慣れないのか。この家の匂いが、まだ知らないもののままなのか。

あるいは――昼間なら気づかずにいられた「ここではないどこか」の記憶が、暗闇の中で顔を出しているのか。


「あああん……ぁあ……うああ!」


息を吸いこむ間だけ途切れ、また泣く。

涙が耳のほうへ流れて、髪を濡らしていく。

手足をばたつかせるたびに、掛けてあった毛布がずれて、床へ滑り落ちた。


ふと、泣き声の合間に、黒い瞳が薄く開いた。

暗い部屋の中で、何かを探すように、視線があちこちへ泳ぐ。


昼のあいだ、ずっとそばにあった温もり。

あの腕。あの心音。

それが今、手の届くところにない。

ほんの一歩の距離に誰かがいても、この子にはまだ、それを知る術がなかった。


「……ぅあ、あぁ……ああぁーん……!」


声がさらに大きくなる。

寝床の縁へ小さな手が伸び、何も掴めずに空を掻いた。


ハヤトは、その手を見つめた。

長い年月のなかで、こんな声を聞く夜は、たぶん初めてだ。

カインは待っている。誰かが来るのか、来ないのか。それを、この子はまだ知らない。


「……大丈夫だ。ここにいる」


低く落とした声とともに、ハヤトは寝床から小さな体を抱き上げた。


その瞬間、カインの泣き声が、ひゅっと途切れた。

空を掻いていた小さな手が、確かなものに触れる。

服の布地。その下の体温。そして――耳を押し当てた胸の奥で、規則正しく打つ音。


「……ぅあ、ぁ……ふぇ、ふぇぇ……」


叫びは、しゃくり上げに変わった。

まだ息は乱れ、肩が小刻みに震えている。

けれど、仰け反っていた背中がゆるみ、ハヤトの胸へ、自分から体を預けてくる。


耳元に落とされた低い声。

言葉の意味など、生まれて数か月の赤子に分かるはずもない。

それでも、昼間に何度も聞いた、あの声だ。

この声のあとには、いつも温かいものが来た。ミルクが来た。抱かれた。


「……ひっく、……ぅ、う……」


涙で濡れた頬をハヤトの服へぐいと押しつけ、鼻を鳴らす。

小さな手が探るように動いて、襟元を見つけ、きゅうと握った。

もう離さない、と言うように、指が白くなるほど力を込めている。


長い時間をかけて、しゃくり上げは間遠になっていった。

暗い部屋の中、黒い瞳が薄く開いて、すぐ上にあるハヤトの顔をぼんやりと見上げる。

闇の中でも、その輪郭だけは、はっきりと分かるらしい。


「……あ、う……」


小さく声を漏らして、瞼が重たく落ちていく。

握った襟元は、緩まない。


来た。

この子は今、それを覚えた。

夜の闇の中で泣けば、あの腕が来る。あの声が来る。世界でいちばん確かなものが、ここにある。


やがて、ハヤトの胸の上で、小さな寝息が規則正しく立ちはじめた。

山の夜は静かで、虫の声だけが遠く続いている。


腕のなかの重みは、ほんの数キロしかない。

それなのに、ハヤトは、その腕を動かすことができなかった。

寝床へ戻せば、またあの声が上がるかもしれない。

そう思った自分を、否定する気にはなれなかった。


彼は椅子へ腰を下ろし、そのまま、夜通しカインを抱いていた。




夜が明けた。


窓の外で最初の鳥が鳴き、山の稜線から、薄い光が染み出してくる。

山小屋の中に、昨日と同じ朝の光が、斜めに差しこんだ。

ただ、椅子に座ったまま一晩を過ごしたハヤトの腕のなかには、昨日の朝にはなかった重みがある。


夜中、カインは何度も身じろぎした。

そのたびに小さな手が服を探り、確かにそこにあることを確かめて、また眠った。

ふぇ、と声を漏らしかけて、胸の心音を聞いて静まった。

一度も、本格的に泣くことはなかった。


「……ぅ、あ……」


光が瞼に届いたのか、黒い瞳がゆっくりと開く。

まだ眠たげにとろりとしたまま、真上にあるハヤトの顔を、じっと見上げた。


そして――ふにゃりと、顔が崩れる。


「あー……きゃ、う」


泣くのではない。笑うのだ。

目を覚ました最初の瞬間に、昨夜と同じ腕が、同じ顔が、そこにあった。

それだけで、この子にとっては十分だった。

歯のない口を開けて、寝癖でぺしゃりと潰れた黒髪のまま、朝の光に向かって、ご機嫌な声を上げる。


小さな手が、ハヤトの顎へ伸びてくる。

夜のあいだ握り続けていた襟元は、くしゃくしゃに皺になり、涎で湿って冷たくなっていた。

それを、まるで自分の手柄のように、カインはぱたぱたと叩く。


「ぶ、ぶー……あぶ」


ミルクが欲しいのか、まだそこまでは考えていないのか。

とにかく今は、目の前の顔が面白いらしい。

指がハヤトの頬に届いて、むにゅ、と押した。


山の朝は、昨日と同じ静けさで始まった。

けれど、ハヤトの腕はきっと痺れているし、背中は固まっているし、目の下には眠らなかった夜の跡があるだろう。

その全部を、腕のなかの小さな笑い声が、少しずつ塗り替えていく。


暗闇で泣いて、来てもらえた。目を開けて、そこにいた。

二日目のカインの世界は、それだけでできていた。


ミルクを飲ませ終えるころには、ハヤトのほうが限界だった。

ぷく、と満足そうに息を吐くカインを抱いて、立ち上がると膝がぎしりと鳴り、腕がふらついた。


体は動くはずなのに、一晩の寝不足が足もとに出た。


寝台の脇の寝床へ、小さな体をそっと下ろし――そのまま、寝台へ崩れ落ちる。

ほとんど倒れこむような音がして、すぐに、深く規則正しい寝息が、部屋に響きはじめた。


カインは、その音に、ぱちりと瞬いた。


「……ぁ、う?」


寝床の中から、黒い瞳が寝台のほうを追う。

すぐ隣、手を伸ばせば届くかどうかの距離。

寝台の縁からだらんと垂れたハヤトの腕と、乱れた髪の先が見える。


昨夜あれだけ泣いた暗闇と違って、今は朝で、腹はいっぱいで、部屋は明るい。

それでも、腕のなかではないという事実に、カインは一瞬、眉をぎゅっと寄せた。


「ふ、ぇ……」


泣くか。

小さな唇が震え、息を吸いこむ――が、そのとき、寝台の上でごろりと寝返りの音がして、垂れていた腕がずるりと下がり、ちょうどカインの寝床の縁、手の届く場所へ落ちてきた。


小さな手が、その指を掴んだ。


「……ぅ、あー」


泣き声は出なかった。

カインはハヤトの指を両手で抱えこみ、口元へ引き寄せ、ちゅ、と吸ってみる。

ミルクは出ない。それでも、離さない。


寝床と寝台の隙間、一本の指で繋がったまま、カインはしばらく、眠るハヤトの寝顔を見ていた。

笑う顔でも、声をかける顔でもない。ただ、疲れ切って眠る顔。

それでも――そこにある。それだけで、この子には足りるらしい。


やがて、カインの瞼も重くなる。

腹が満ちて、指がある。

窓の外で山鳩が鳴き、木漏れ日が床を横切っていく。


親も子も、まるで示し合わせたように、朝の光の中で、同時に眠りに落ちていった。

ハヤトの指は、小さな手の中から、一度も抜け出せずにいた。



…二人とも、深く眠っていた。

どれくらいの時間が経っただろうか。

窓から差しこむ光が、朝の斜めから真上へと移り、部屋の中が明るく温まった、昼頃のこと。


先に目を覚ましたのは、ハヤトではなかった。


「……ぅ、……ん」


カインが小さく身じろぎする。

握っているハヤトの指は、まだそこにある。けれど、何かが違う。

小さな顔がくしゃりと歪み、額にうっすらと汗が浮いている。


「ふぇ……ぅぅ……」


ぐずるような声は、いつもの空腹の泣き方と違った。

甲高くなく、力がない。声を出すこと自体が辛いように、か細く、途切れ途切れに漏れている。


小さな体が、不自然に熱い。

頬が赤く染まり、普段ならぱたぱたと動く手足も、だらりと力なく横たわっている。

唯一、ハヤトの指だけは、離さない。むしろ、しがみつくように、握る力がわずかに強くなった。


「あ……ぁ、う……ぅえぇ……」


目が薄く開いた。

潤んだ黒い瞳が寝台のほうへ向くが、いつもの好奇心の光はない。

ただ、ぼんやりと、助けを求めるように。


昨日まで、どこかの場所で、何らかの暮らしをしていた赤子が、突然、見知らぬ山の小屋へ移された。

気温も、匂いも、空気も違う。

小さな体が、そのことに耐えきれなかったのかもしれない。


カインは、泣き叫ぶ力もなく、熱に茹だりながら、繋がった指の先にいる存在が起きてくれるのを、待っている。


ハヤトの意識が浮上したのは、指先に伝わる、異常な熱のせいだった。


眠りに落ちる前、この手は、もう少し冷たかった。

赤子の体温は大人より高いとはいえ、今、小さな指から伝わるものは、明らかに度を越えている。


目を開けた瞬間、視界に飛びこんできたのは、ぐったりとしたカインの姿だった。

頬は朝とは違う赤さで染まり、黒い髪が額に汗で張りついている。

呼吸が浅く、速い。小さな胸が、不規則に上下している。


「……ぅ、あ……」


ハヤトが身を起こした気配を感じたのか、カインの瞳が薄く開いた。

涙と熱で潤んだ黒い目が、ぼんやりとハヤトを捉える。


笑うか、声を上げるか、手を伸ばすか、何かしらの反応を見せるのに


――今は、ただじっと見つめるだけだ。

それすらも辛そうに、すぐに瞼が落ちかける。


握られた指に、弱い力がきゅ、とかかった。

離さないで、と言うように。


「……熱いな」


額へ掌を当てる。熱い。だが、息を呑むほどではない。

微熱、だろう。そう見立てながらも、手は止まらなかった。

首筋、脈、唇。唇が乾いている。


水分が足りていない?

ミルクを飲ませたのは朝で、もう数時間が経っている。


人間の赤子は、脆い。

エルフの子とは、比べものにならないほど。

薬草の扱いには慣れていても、こんなに小さな体に使えるものは、限られている。


麓の村まで、歩いて半日。

熱を出した赤子を抱いて、あの山道を半日下る。

そこで、人間の赤子を診たことのある者に会えるかどうかも、分からない。


ハヤトは、短く息を吐いた。

今は、動かさない。この山の上で、できることをする。


山奥の小屋には、医者もいない。

人間の赤子を診たことのある者も、いない。

この子の命は、今この瞬間、ハヤトの手のなかだけにある。

昨夜、暗闇のなかで泣くカインを抱いたときとは違う緊張が、部屋の空気を張り詰めさせていた。


「待ってろ。すぐだ」


立ち上がると、握られていた指が引かれ、小さな手がようやく離れた。

その瞬間、カインの眉がぎゅっと寄る。

けれど、泣き叫ぶ力は残っていないらしく、

「ぅ……」

と、喉の奥で詰まったような音を出しただけだった。


ミルクを用意する手は、今朝よりもずっと急いていた。

湯の温度を確かめ、手首の内側に数滴を落とし、哺乳瓶を口元へ運ぶ。


カインの乾いた唇に、吸い口が触れた。


「……ん、く……」


最初の一口は、ほとんど反射だった。

いつもの勢いはない。飲みこむ力が弱く、口の端からミルクが白い筋になって頬を伝った。

それでも、喉が動く。一口、また一口。

干上がった体が水分を求めるように、ゆっくりと、しかし確実に飲んでいく。


「んく……ん、く……」


五口、六口と飲んだところで、カインの瞳がわずかに開いた。

さっきまで焦点の合わなかった黒い目が、哺乳瓶を持つハヤトの顔を、ぼんやりと捉える。

飲むペースが、少しだけ上がった。


哺乳瓶を支えるハヤトの指に、小さな手がよろよろと伸びてくる。

握る力はまだ弱い。それでも、指先がハヤトの手の甲に触れ、そこに留まった。


半分ほど飲んだところで、カインが自分から口を離した。

ぷはっ、と小さな息が漏れる。飲み疲れたのだ。

唇の周りはミルクで白く汚れ、頬を伝った分が首元まで流れている。


けれど、額に触れた掌が感じる熱は、ほんの少しだけ和らいでいるように思えた。

劇的な回復ではない。ただ、悪化はしていない。


「……ぁ、う」


カインは、ミルクの残りには興味を示さず、代わりに、ハヤトの手の甲へ頬を寄せた。

熱い頬が、掌に押し当てられる。

冷たくて気持ちがいいのか、ただ触れていたいだけなのか。

小さな鼻がすんすんと鳴り、呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いていく。


耳の奥が、さっきからうるさかった。


窓の外から、部屋の隅から、精霊たちの囁きが降ってくる。

いつものことだ。山にいれば、彼らは一日中、思いついた言葉を口にしている。

朝。風。虫。光。

意味のある言葉にはならない、単語の切れ端ばかり。普段のハヤトは、それを雨音のように聞き流して暮らしていた。


けれど今日は、囁きの数が多かった。

光の粒が、いつのまにか寝床の上に集まっている。

緑がかった淡い光が、カインの額の上で揺らぎ、胸の上をくるりと巡り、小さな握り拳のそばで、ふわりと止まった。


熱。熱。熱。

窓。

熱。窓。


うるさい、分かっている、と言いかけて、ハヤトは口をつぐんだ。

聞き流していた囁きのなかで、その一語だけが、ようやく引っかかった。


窓。


部屋の中に、熱がこもっていた。

昨夜から閉めきったままの窓。昼の陽に温められた空気が、小さな体に重くのしかかっているのかもしれない。


ハヤトは、窓を少しだけ開けた。

そよりと、山の空気が流れこむ。

籠もっていた熱気が隙間から抜けて、代わりに、澄んだ冷たさが入ってきた。

カインの黒い髪が微かに揺れ、小さな鼻がひくりと動く。


「……あ、ぅ……」


風が心地よかったのか、カインの強張っていた体が、ふっと緩んだ。

握っていた拳が開き、小さな指がそよ風を受けて、ゆらゆらと揺れる。

精霊の光は、風に乗ってカインの周りを巡り、いつまでも離れようとしなかった。

黒い瞳がそれを追いかけようとして、すぐに、疲れたように瞼を閉じる。


人の事情には関心を持たぬはずの彼らが、この子の熱にだけは、これほど騒いでいる。

ハヤトは、ほんの少しだけ、それを不思議に思った。


大事には至らないだろう。

病ではない。環境の変化に疲れた熱だ。


そう見立てたのは、ハヤト自身だった。

けれど、この先も、こういうことは何度もある。

人間の赤子は、エルフが想像する以上に壊れやすく、そして同じくらい、しぶとい。


水分を少しずつ与える。

体を拭いて、熱を逃がす。

温度を保ち、そばにいる。

特別な術はいらない。


赤子には、効くほど強いものは、かえって毒になる。


ハヤトは、動いた。

じっとしていられなかった、と言うほうが正しいかもしれない。


まず小屋の裏手の薬草畑へ走り、カモミールによく似た白い小花を摘んだ。

鍋に湯を沸かし、花を放りこんで煎じる。

濃すぎてはいけない。

湯の色が薄い金色になったところで火から下ろし、ぬるくなるまで冷ます。


手順は、頭が考えるより先に、手が覚えていた。

麓の人間たちが見たなら、立派な薬師の手際だと目を見張っただろう。

エルフのハヤトにとっては、息をするのと変わらぬ、暮らしの心得にすぎない。


清潔な布を浸し、絞り、小さな体を拭いていく。

額から始めて、首筋、腕、胸、腹、脚。


カインは最初、布が触れるたびに

「ぅ…」「ん…」と小さく声を上げた。


だが、薬草の穏やかな香りと、ひんやりとした感触が心地よいのか、次第にぐずりが収まっていった。

何度も布を浸し直し、絞り、拭く。

その繰り返しを、ハヤトは丁寧に続けた。


窓は少しだけ開けてある。

山の空気が、薬草の湯気と混ざって、部屋を満たしていた。

籠もっていた熱気は消え、カインの頬の赤みも、夕方になるころには、ずいぶんと引いていた。


合間に、ミルクを少しずつ飲ませた。

一度に多くは飲めない。けれど、口を近づけるたびに、弱々しくも確かに吸いつく。

三回、四回と分けて与えるうちに、唇の乾きが消えていった。


そして――夕方の柔らかな光が、窓から差しこむころ。


「あー……」


その声には、朝までの力が戻りつつあった。

寝床の中でカインが手足をもぞもぞと動かし、それからハヤトの顔を見上げて、ふにゃりと口元を緩めた。


「ぁう、あー!」


小さな手が、ぱたぱたとハヤトのほうへ伸びる。

指を求めて、空を掴んで、もどかしそうにばたつく。

熱はまだ微かに残っているが、瞳には、あの好奇心の光が戻っていた。


ハヤトが指を差し出すと、きゅう、と両手で掴まれた。

そのまま口元へ引っ張られ、はむ、と歯茎で噛まれる。


ミルクは出ない。

それでも嬉しそうに、ちゅうちゅうと吸いながら、黒い瞳がハヤトを見上げて、きらきらと笑う。


一日中動き回ったハヤトの手には、薬草の匂いが染みついていた。

湯を沸かし、布を絞り、ミルクを作り、体を拭き、窓を開け、また布を絞った。

その全部が、この小さな笑顔のためだった。


カインは、それを知らない。

ただ、具合が悪くて辛かった時間のあいだずっと、あの手があったことだけを、体で覚えている。

苦しければ、拭いてくれる。

喉が渇けば、ミルクが来る。

この世界には、自分が困ったときに、必ず動いてくれるものがある。

その確信が、小さな体の奥に、もうひとつ積み重なった。


窓の外では、夕暮れの色が山肌を染めはじめていた。

ハヤトは、指を噛まれたまま、ぼんやりとそれを眺めた。


山の奥で、ひとり、自然とともに静かに暮らす。

それが性に合っていると、彼は思っていた。

いや、少しばかり、格好のいいものだとさえ思っていた。

独りは楽だった。誰も見送らずに済んだ。


それなのに。

この小さな熱が引くまでのあいだ、自分は息の仕方を忘れていた。


安心した、というのも、おかしな話だ。

けれど、指先に残った熱の名残を確かめながら、ハヤトは思っている。

この赤子に、生きていてほしい、と。


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