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第一話 はじめまして。

八月も終わりに近い朝のことである。


夜のあいだに山が抱えこんだ冷気は、まだ木々の根元に淡く居残っていた。

梢の高みでは朝日が金色の糸のように揺れているが、地面まで届くのはほんの数筋で、苔むした岩も、露を結んだ羊歯の葉も、しんと青い影の中にある。


その影の底にしゃがみこんで、ハヤトは薬草を摘んでいた。

湿った土を指先でほぐし、根を傷めぬよう一株ずつ抜いては、腰の籠へ収めていく。


立ち上がる拍子に、膝が小さく鳴った。

痛むわけではない。

体はまだ、いくらでも動く。

ただ、立つときに息をつく癖だけが、一人の暮らしのなかで染みついていた。


顔立ちは若いままで、身のこなしにも無駄はない。

それなのに、立ち居の所作だけが、いつからか年寄りじみている。

この山に隠れ住んで、百年ほどになる。


かつて、人の世を渡り歩いた日々があった。

笑い合った友も、杯を交わした者たちも、気がつけば皆、時の流れの向こうへ去っていた。

そのことを悲しいと口にしたことはない。

ただ、人のいない山は静かで、静かであることは、ひどく楽だった。


麓へ下れば、歩いて半日ほどのところにミューレンという村がある。

いちばん近い人里だが、この山に足を踏み入れる者など、もう久しくいなかった。


――籠が半分ほど満ちたころである。


風の音の底に、何かが紛れこんだ。


「……ゃあ……」


ハヤトは手を止めた。鳥の雛か、母とはぐれた子鹿か。

耳を澄ますと、か細い声はいったん途絶え、次の瞬間、森の静けさを裂くように響き渡った。


「おぎゃあ、おぎゃあ!」


籠を置き、立ち上がる。

獣の声ではない。

それだけは、すぐに分かった。


声のするほうへ、斜面を下った。

木々がまばらになり、朝の光が足もとまで降りてくる境のあたり、ひときわ太い古木の根方に、籐編みのバスケットがひとつ、ぽつんと置かれている。


歩みを緩め、ハヤトは静かに意識を広げた。

風の流れ、草のそよぎ、鳥の声の途切れ方。

森そのものに問いかけるように探ってみても、そこに人の気配は欠片もない。

足跡も、残り香も、去りぎわの名残すらなかった。


バスケットの中で、小さな命が泣いている。


黒い髪がわずかに頭を覆い、生まれて数か月ほどの体は、驚くほど頼りなかった。

小さな拳を振り回し、真っ赤にした顔をくしゃくしゃにして、固く閉じた目の端から涙をこぼしている。

敷かれた布は湿り、替えの衣も、食べ物も、書き付けの一枚すら見当たらない。


ハヤトは、その場に立ち尽くした。


泣き声に驚いたのか、頭上の枝から小鳥が一羽、ばさりと飛び立っていく。

その羽音が遠ざかっても、彼はしばらくのあいだ、動くことができなかった。


ハヤトは、バスケットの縁に手を伸ばしかけて、


・・・止めた。


土のついた指先を見つめ、腰に下げた布で一度ぬぐい、それからもう一度、ゆっくりと手を差し入れた。

赤子の背に触れると、掌に思いのほか熱いものが伝わってくる。

湿った布越しに感じる鼓動は、小鳥のそれのように速く、細かった。


放っておけば、この命は日が高くなる前に尽きるだろう。

山の獣が嗅ぎつけるまでもない。

ただ、それだけのことだった。


――助けなければ。


胸の内でそう呟いたとき、そこに理由はなかった。

拾うと決めたというより、拾わぬという選択肢が、初めから見当たらなかったのだ。

小さな体が、バスケットから持ち上げられた。


驟雨のように激しかった泣き声が、ぷつりと途切れる。

地面から離れた感覚に驚いたのか、カインは手足をびくりと強張らせた。

けれど、温かな腕が背を受けとめ、体が胸元へ引き寄せられると、


・・・泣き声は別のものへ変わっていった。


「うぁあ……ぁあ、あー……」


世界に向かって叫ぶような声ではない。

誰かがそばにいることを確かめるような、甘えと空腹の混じった、弱い声だった。

小さな頭がハヤトの胸に押し当てられ、頬が服の布地にすり寄せられる。

無意識に開いた口が、何かを探すように襟のあたりを、ちゅう、ちゅうと吸った。


ハヤトは慣れない手つきで、首の後ろを支え直した。

抱いてみると、赤子の体は信じがたいほど軽い。

何百年も生きてきて、これほど頼りない重みを腕に載せたことは、一度もなかった。


「名がいるな」

誰にともなく零した言葉が、森の静けさに落ちた。少し考えるふうでもなく、彼はその名を口にしていた


「……カイン」


古木の梢を風が渡り、葉がさわりと鳴った。呼ばれたことを知ってか知らずか、赤子はしゃくりあげるように息を継ぎ、ひとつ、ひときわ大きな声で泣いた。

悲鳴とは違う、どこか何かに応えるような声だった。


「分かった、分かった。連れて帰ってやる。ミルクでも飲もう」


空になったバスケットを肘にひっかけ、ハヤトは山道を登りはじめた。

斜面の途中に置いてきた薬草の籠は、


…あとで拾えばいい。

そう思った自分に、彼はほんの少し驚いた。


歩みの揺れが、腕のなかの小さな体へ伝わる。

一歩ごとに、抱かれた体がかすかに上下する。

木々のあいだを吹き抜けた風が、黒い髪をそっと撫でていった。

カインの泣き声は少しずつ細くなり、ときおり思い出したように「ふぇ、ふぇ……」としゃくり上げるだけになった。


谷あいの斜面に、山小屋が見えてくる。

苔の這う屋根も、風雨に灰色にさらされた壁も、百年の時を黙って受け止めてきたものだ。

戸を押し開けると、外気とは違う、木の匂いのする薄暗い空気が二人を包んだ。


室内に入って光の質が変わったのを感じたのか、カインが薄く目を開けた。

黒い瞳が、ぼんやりと天井の梁をとらえ、それから自分を抱えている顔のほうへ、ゆらりと動く。

焦点はまだ定まらない。

ただ、間近にある存在を、じっと見ていた。


「……あ、う」


涙に濡れた頬はまだ赤いが、泣きはやんでいた。

小さな手がハヤトの襟元を、きゅっと握りこむ。


ミルクの支度のためにその手を離そうとすると、カインは不満げに「んー」と喉を鳴らし、いっそう強く指に力をこめた。

腹はまだ減っているはずなのに、それより先に、たった今この腕に拾われた温もりが、この子の世界のすべてになりかけているようだった。


ハヤトは小さく息をついた。


「……大丈夫だ。怖くない。俺は、何もしないよ」


赤子を抱いたまま湯を沸かすというのは、思いのほかやりにくいことだった。

片腕でカインを抱え、もう片方の手で鍋を火にかける。

器を取ろうと身をかがめると、腕のなかの体が揺れた。

そのたびに赤子は「んっ」と小さく息を漏らしたが、不思議と泣きはしなかった。


「……大丈夫だ。」


耳元で低く落とされた声に、小さな体がぴくりと反応する。

言葉の意味は分からないのだろう。

けれど、声の柔らかさだけは、確かに肌の上に伝わっているらしい。


「……ぅ、あー……」


襟を握る指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。

彼の黒い瞳がゆっくりと声のほうへ向けられ、ぼやけた視界のなかでハヤトの輪郭を追いかける。


鍋の湯が小さく鳴り、器を取り出すかちゃりという音が、静かな小屋に響く。

胸元から伝わる体温と、耳のそばで刻まれる心音が、この子にとっての揺り籠になっていた。


やがて、ミルクの匂いが立ちはじめた。


「あ、あぁー! ぁうー!」


本能が目を覚ました。

小さな口が空回りするように開閉し、両手がばたばたと宙を打つ。

頬を何度も服へ擦りつけ、首をよじって、匂いの源を探している。

もう我慢の限界だと訴えるように、目にじわりと涙が浮かんだ。


「待て、待て。熱くないか見るから」


手首の内側に数滴を落として温度を確かめ、ハヤトは哺乳瓶を口元へ運んだ。


触れた瞬間、カインは吸いついた。

小さな喉が、こくり、こくりと鳴る。

両の手が瓶に添えられ、閉じた瞼の端に残った涙が、ゆっくりと頬を伝って落ちた。

ハヤトは動くこともできず、腕のなかの重みと、喉の鳴る音だけを聞いていた。


やがて、吸う力が弱まっていった。

瓶が空になるころ、カインの口元から、白い滴がとろりと零れた。

満たされた腹がぽっこりと丸く膨らみ、さっきまで宙を掻いていた両手は、ハヤトの服の上でくたりと力を失っている。


「……ふ、う」


小さな息が漏れた。

しゃくり上げはすっかり止み、黒い瞳は重たげに瞼の下へ沈みかけている。

それでも、抱く腕がわずかに動くたびに、はっと目を開けてハヤトの顔を確かめた。

ここにいる、まだいる、と確かめるように。


ハヤトは卓の脇に腰を下ろしたまま、卓の上に置いたバスケットへ、空いたほうの手を伸ばした。


ミルクを飲んでくれた。

少なくとも、これでこの子は、今日は生き延びる。

肩の力が抜けていることに、ハヤトは遅れて気づいた。

それにしても、誰が、この子をあそこに置いたのだろう。


古びた籐編みのバスケットだった。

底に敷かれているのは、色の褪せた麻の布が一枚きり。

何度も洗われて薄くなり、端がほつれている。

持ち手には擦れた跡があるが、それも、ごくありふれた使い込まれ方だった。


布をめくり、編み目のあいだを指でなぞり、底板の裏まで返してみる。

刺繍も、印も、名を記した札も、手紙の類も、何ひとつない。


捨てた者は、この子と結びつくあらゆる痕跡を、意図して消したのか。

それとも、そうする余裕すらなかったのか。

どちらとも、バスケットは語らなかった。


「……あ、ぅ……」


バスケットの物音に、カインが小さく声を上げた。

眠気に負けかけながらも、ハヤトの襟を弱々しく握り直す。

この子にとって、あの籠の中に何があったかなど関係ない。

今ここで自分を抱いている腕だけが、生まれてからの数か月で唯一、はっきりと覚えたものになりつつあった。


ハヤトは、麻の布を手に取った。

人の目に映らぬ者たちなら、何か知っているだろうか。

指先に意識を集め、森に棲む者たちへ、静かに呼びかける。


山小屋の中の空気が、わずかに震えた。

窓から差し込む光の中で、埃のような微細な光の粒がふわりと舞い上がり、ハヤトの指先のまわりをゆっくりと巡る。

木の精霊か、あるいは風のものか。

人の目には映らぬそれらが、麻の布の上に集まって、しばらく静かに揺れていた。


この子はどこから来たのか。誰が置いたのか。

問いに、答えはなかった。

精霊は、人の事情を語らない。

誰が、なぜ、という問いにはさして関心を持たず、ただ、そこにあるものを、あるがままに受けとめるだけだ。


光の粒が、麻の布を離れた。

ふわり、ふわりと漂って、腕のなかのカインのまわりへ集まっていく。

黒い髪の上を、頬のそばを、小さな握り拳の先を、やわらかな光がくるりと巡った。

探るでもなく、警戒するでもない。

親しい者に寄り添うような、ひどく自然な動きだった。


ハヤトは、息をひそめてその様子を見ていた。

長く生きてきて、精霊に好かれる人間は、何人も見てきた。

だが、生まれて数か月の赤子に、これほど無防備に寄り添う光は、見た覚えがなかった。


「……う、ぁ……」


光の気配に呼ばれたように、腕のなかでカインが眠りの淵から浮かび上がってきた。

黒い瞳がぼんやりと開き、宙に残る光の残滓を追いかける。

小さな指が空へ伸びた。


「あー……」


何かを掴もうとして、掴めず。

それでも不機嫌にはならず、指はそのままハヤトの胸元に戻って、くにゃりと布を握った。

まるで、そちらのほうが確かで、大切なものだと知っているかのように。


光はやがて、陽の中へほどけるように消えた。


出自は、何ひとつ分からないままだった。

ただ、この子が精霊に愛されているということだけは、疑いようがなかった。


誰が、どんな事情で、この子を手放したのかは分からない。

けれど、生まれて数か月のこの子を、ここまで生かしてきた手があったことは確かだ。


ならば、その誰かの代わりを、しばらく務めてみるのも悪くない。

長い時を生きる身にとって、人の子が大人になるまでの歳月など、ほんの束の間のことだ。


それは決意と呼ぶには、まだあまりに軽い思いつきだった。

声にもならなかった。

それでも、腕のなかの小さな体は、抱く力がわずかに変わったことを、敏感に感じ取った。


「……ぁ、う?」


重たかった瞼がふと持ち上がり、黒い瞳がハヤトの顔を見上げる。

焦点の定まらない視界の中で、それでも真っすぐ、自分を抱く者の顔を捉えようとしていた。


そして――くしゃり、と顔が崩れた。


「きゃ、あぅ……あー!」


笑ったのだ。

生まれて数か月の赤子が見せる、意味などまだ持たないはずの笑顔。

それでも、歯のない口を大きく開け、頬をまるく持ち上げて、腹の底から声を出している。

腹が満たされ、体が温まり、抱く腕が確かであれば、それだけで世界は上等らしかった。


小さな手がぱたぱたとハヤトの胸を叩く。

襟を掴んでいた指が離れ、今度は顎のほうへ伸びてくる。

届かない。それでも、伸ばす。


「あぶ、ぶー……」


口の端から涎が糸を引き、ハヤトの服にぽたりと落ちた。

カインはそれをまったく気に留めず、ただ嬉しそうに手足をばたつかせている。


窓から差す光が、床にまっすぐな線を引いていた。

外では鳥が鳴き、風が葉を鳴らし、山はいつもと変わらぬ静けさを保っている。


ただ、この小屋の中だけが変わった。


長い、長いエルフの時間の中で、ほんの一瞬の――けれど、この子にとっては生涯そのものになる時間が、今、始まった。

カインはそのことを知らない。

知らないまま、ハヤトの指を見つけて、きゅう、と握った。

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