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第十話 したてやのマルタ

店を出るとき、ハヤトはゴルドへ礼を言った。

必要なものが増えたことも確かだが、

カインに人間を知ってもらう必要もある。


「これからは、今までよりマメに降りてくる。」と合わせて伝えた。

ゴルドは、「そりゃ、うちも助かる」と、鼻を鳴らして笑った。


ゴルドの店を出ると、村の空気が、少しだけ馴染んで感じられた。


カインの拳は、まだハヤトの胸元を掴んでいたが、さっきほどの強さではなかった。

ゴルドとの触れ合いが、ほんの少しだけ、

「ハヤト以外の人間」への壁を下げたのかもしれない。

黒い瞳は、相変わらず忙しなく動いて、

すれ違う村人や、軒先に吊るされた干物や、地面を歩く鶏を追いかけている。


そのあとゴルドに教えられたとおり、ハヤトは仕立て屋へ向かった。


集落の中心へ近づくにつれて、少しずつ人が増えていった。

畑帰りの男たちが道具を担いで通り、女たちが井戸端で話しこみ、子どもたちが走り回っている。

店らしい店は、ほとんどない。

靴やパンは、中央集落まで買いに行くのだと、いつかゴルドが話していた。


子どもの声。


カインが、ぴくりと反応した。


三歳ほどの女の子が、母親の手を振り払って、道を駆けていく。

きゃあきゃあと、甲高い笑い声。

カインは、その声に首を伸ばし、じっと見つめた。


同じ種類の声だった。

ハヤトの低い声でも、キャロルの鳴き声でもない。

自分と同じくらいの高さの、甲高い声。

カインは、それを初めて聞いた。


「あ……」


声が漏れた。

走っていく女の子の背中を、目で追いつづける。

追いかけたいのではない。

ただ、不思議だったのだ。

自分と同じような生き物が、ハヤトでもないのに、あんなに速く動いている。


ハヤトは、その視線に気づいて、少しだけ歩みを緩めた。

カインが見ているものを、見終わるまで待ってやった。


仕立て屋は、通りを少し行った先にあった。


看板はない。

代わりに、軒先に、色とりどりの布の端切れが、風に揺れている。

それが目印だった。

木の扉を押すと、布と糸と染料の匂いが、押し寄せてきた。


「はいはい、いらっしゃ――」


奥から出てきた女が、足を止めた。


マルタ。

四十を少し越えたくらいの、がっしりとした体格の女だった。

日に焼けた顔に、笑い皺が刻まれ、太い腕には、針仕事のたこがある。

五人の子を産み育て、この集落の産婆代わりもこなす、という女にふさわしい、揺るぎない存在感があった。


「あら……エルフさんかい。うちに来るのは、初めてだね」


マルタの目が、すぐに、カインを捉えた。


目の色が変わる。

商人の目ではない。

母親の目だった。

肉付き、顔色、目の動き。

一瞬で赤子の様子を読みとる、経験に裏打ちされた眼差し。


「その子……あんたの噂は、もう洗い場まで来てるよ。山で拾った人間の赤ん坊を、育ててるって」


ハヤトが、ゴルドの店を出てから、まだ半刻も経っていない。

集落の噂は、山の獣よりも足が速い。


ハヤトは、懐から、ゴルドの発注書を取り出した。

マルタは、それを受け取って、目を通す。


「ああ、ゴルドの字だ。……なるほどね。初めての客だから、一筆添えたってわけか。あの男が紹介するなら、間違いない」


マルタは、紙片を作業台の脇に置いて、ハヤトの前に立った。

背はハヤトより頭ひとつ低いが、圧がある。


「見せな」


有無を言わさぬ口調だった。


ハヤトが、カインを少し前に出すと、マルタの太い指が、カインの頬に触れた。

ゴルドとは違う、明らかに手慣れた触り方だった。

頬、額、首筋。

体温を確かめている。

次に、手足の動きを見て、目の焦点を確かめ、肌の色を確かめた。


カインは、されるがままだった。


ゴルドのときは、怯えた。

けれど、この手には、別の何かがあった。

怖くない。

なぜか、怖くない。

ハヤトとは違う、柔らかくて、慣れた手。

誰の手に似ているのか、カイン自身にも分からない。


「あ……う」


カインが、小さく声を出した。

マルタの顔を見上げている。

怯えではなく、戸惑いに近い表情だった。


ハヤトは、その様子を、黙って見ていた。


マルタの手に、肩の力を抜いていくカイン。

この子は、きっと、母親に愛されていたのだろう。

そんな考えが、ふと浮かんだ。


――そう思いたいだけかもしれない。


確かめようのないことを、手前勝手に決めてしまうところだった。

ハヤトは、浮かんだ考えを、そっと脇へ置いた。


マルタは、数秒のあいだ、カインを見つめていた。

それから、ふっと息を吐いた。


「……よく育ててるよ。この月でこれだけ目が合うし、声も出る。肉付きもいい。エルフさん、あんた、相当頑張ったね」


ハヤトは、返す言葉が見つからなかった。

ただ、胸の奥が、じわりと温かくなった。


マルタは、踵を返して、奥の棚から布を何枚か引っ張り出した。


「赤ん坊用の布だね。これと、これ。綿の柔らかいやつ。肌着にも、おくるみにもなる。それから、こっちは蝋引きの布。下に敷くと楽だよ。夜中の粗相で、いちいち藁を替えなくて済む」


そこで、店の奥から、ずるずると何かを引きずる音がした。


一歳ほどの男の子が、床の布の上を、這っていた。

布の山を目指して、ひたすら、まっすぐに。


「トーマ、そっちは違うよ」


マルタが声をかけたが、子どもは聞いていない。

その後ろから、六つほどの男の子が、慌てて駆けてきた。


「かあさん、ごめん、目を離したら……」


男の子は、這っていく子の手を、そっと取った。

引き戻すのではなく、並んで座りこんで、一緒に布を眺める。

這っていた子は、不満げに「うー」と鳴いたが、すぐに、兄の膝によじ登って、おとなしくなった。


「ミロシュ、そのまま見てておくれ。……上の二人は、もう家を出ちまったからね。下の子らの面倒は、この子が一番うまい」


マルタは、そう言って、少しだけ得意そうに笑った。


店の隅では、十歳ほどの少女が、黙々と端切れを畳んでいた。

指先が早い。

布の角を揃える手つきが、子どもとは思えないほど、確かだった。


「あれは、ヴェラ。針が好きでね。手が空けば、ああして、布をいじってるよ」


少女は、顔を上げずに、小さく会釈した。

けれど、ハヤトの胸元のカインを、ちらりと見たのを、ハヤトは見逃さなかった。


マルタは、布を広げながら、矢継ぎ早に話しはじめた。


「で、今は、ミルクだけかい? 山羊の乳? それなら、問題ない。人間の赤ん坊にも、合う」


ハヤトの肩から、力が抜けた。

本で読んだ覚えがあるだけで、確かなことは分からなかった。

最初は少量から、夜に何度も様子を見た、あの晩のことを思い出す。


「ただし、あと二、三か月したら、少しずつ固いものを試しな。最初は、芋や蕪を柔らかく煮て、潰したやつ。歯が生える前でも、歯茎で食える程度にね」


「熱が出たら、まず、額と首を冷やすこと。それでも下がらなけりゃ、迷わず、降りてきな。夜中でも、戸を叩きゃいい」


マルタの言葉は、途切れることなく続いた。

離乳食の進め方。

熱が出たときの手当て。

夜泣きの理由と、あやし方。

歯が生えはじめる時期の気をつけどころ。

季節ごとの衣の調え方。

一歳を過ぎてからの、気をつけること。


五人を育てた女の経験が、惜しみなく注がれた。


ハヤトは、聞き漏らすまいと、一言ずつを頭に刻んだ。

店の外の日の高さが、気にならないわけではなかった。

それでも、この言葉のひとつひとつが、山の上では誰も教えてくれないものだった。






話しているあいだも、マルタの目は、ときおり、カインに向けられた。


カインは、いつのまにか、マルタの声に慣れたらしく、ぐずりもせずに、黒い瞳をきょろきょろと動かしていた。

店の中に吊るされた布の端切れが、揺れているのを見つめている。

色とりどりの布。

赤、青、黄、緑。

山小屋の中にはない色だった。


「あー……」


手が伸びた。

赤い端切れに向かって。

届かない。

いつも、光のなかで揺れて、掴めないものと同じだ。

欲しいものには、手が届かない。


マルタが、それを見て、赤い端切れをひとつ切り取った。

カインの手に、握らせる。


カインが、目を丸くした。


掴めた。


いつも掴めない、光のなかのものとは違う。

ここにある。

手の中にある。

柔らかくて、赤くて、くしゃくしゃにできる。


「あっ! あっ!」


声を上げて、赤い布を、ぎゅっと握った。

振り回した。

顔に当てた。

口に入れようとした。

マルタが笑って、止めた。


「元気のいい子だ。好奇心が強いね。それだけ周りを見てる子は、賢くなるよ」


マルタは、布を包んで、ハヤトに渡した。

ハヤトは、硬貨で代金を払った。


「……あとね」


マルタが、声を落とした。


「この子が大きくなったら、人間の中で過ごす時間も作ってやりな。エルフさんが大事に育ててるのは、分かる。でも、この子は人間だ。いつか、自分が何者か、知りたくなる。そのときに、人間を何も知らなかったら、つらいのはこの子だよ」


押しつけがましくない、静かな忠告だった。


ハヤトは、すぐには答えられなかった。

カインは、赤い端切れを握りしめたまま、マルタとハヤトを交互に見上げている。

二人が何を話しているのか、分からない。

ただ、マルタの声が優しいことだけは、分かった。


「あう」


カインが、赤い布を、マルタに向かって差し出した。

見せたかったのか、あげようとしたのか。

マルタが笑って、その小さな手を、ぽんと包んだ。


「また来な。いつでも、相談に乗るよ」


マルタは、店の入口まで、見送りに出てきた。


ハヤトが、改めて礼を言うと、マルタは手を振って笑った。


「大げさだねえ。布を売って、話をしただけだよ」


けれど、その目は柔らかかった。

エルフが人間の赤子を育てている。

普通なら、奇異に映る光景だ。

だが、マルタは五人の子を育てた女だった。

子を守ろうとする者の目を、見間違えない。

ハヤトの目は、まぎれもなく、それだった。


ハヤトが、これからは、今までよりマメに降りてくる、と伝えると、マルタは腕を組んで頷いた。


「そうだね。子どもの成長は早いよ。とくに、人間の子はね。三か月で服の大きさが変わる。半年経ったら、全部買い直しだ。来るたびに採寸してやるから、遠慮なくおいで」


それから、ふと、カインに目をやった。

カインは、赤い端切れを握りしめたまま、マルタを見上げている。


「……この子、あんたによく懐いてるね。ちゃんと、愛されてるのが分かってるんだろうさ」


マルタが、カインの黒い髪を、そっと撫でた。

カインは、びくりともしなかった。

つい少し前には、知らない人間の顔に怯えていた赤子が、今は、されるがままに頭を撫でられている。

マルタの手に、安心を覚えたのだ。


ハヤトは、胸の内で、ひとつ数えた。

山のご隠居としては、人里の用は、少ないほど、それらしい。

――そう思っていたはずだった。

けれど、この子のためなら、その「らしさ」は、あっさりと折れる。

折れてしまうことに、不思議と、悔いはなかった。


「あー」


カインが、赤い端切れを、ぶんぶんと振った。

マルタが笑った。

ハヤトは、深く頭を下げた。


店の後ろから、ミロシュが、トーマの手を持って、ひらひらと振っていた。

カインに向けて。

カインは、赤い端切れで、振り返した。


通りへ出ると、日は、もう高いところを過ぎていた。

次は、集落のはずれ。

猟師フランツの、仔犬。


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