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第11話 りょうしフランツ

次の目的地は、集落のはずれに住む猟師、フランツの家だ。


集落の中心を抜けると、家々の間隔が広がり、畑が増えた。

賑わいが薄れ、代わりに、土と草の匂いが濃くなる。

道端で、老人が薪を割っている。

犬が二匹、日向で丸くなっていた。


カインは、村に入ったときよりも、明らかに落ち着いていた。


ハヤトの胸元にしがみつく力が、緩んでいる。

首を自由に動かし、周囲を見回す余裕がある。

赤い端切れを片手に握ったまま、もう片方の手で、ハヤトの服の縁を掴んでいる。

完全に手を離しはしない。

けれど、怯えてしがみつくのではなく、ただ繋がっていたいだけの掴み方だった。


道端の犬が、ハヤトの足もとに寄ってきた。


灰色の雑種犬。

老犬らしく動きは緩慢だが、鼻だけは忙しなく動いている。

ハヤトの足の匂いを嗅ぎ、それから、カインの匂いを嗅ごうと、鼻を上に向けた。


カインが、気づいた。

目が、丸くなった。


山羊とは違う。

もっと近い。もっと動く。

しっぽが揺れている。鼻がひくひくしている。

ふんふんと、息がかかる。


「あっ……!」


興奮で声が跳ねた。

手が伸びた。犬のほうへ。

赤い端切れを握ったままの手が、犬の鼻先に向かって突き出される。

犬が、ぺろりと、カインの手を舐めた。


カインが、固まった。


舐められた。

濡れている。

温かい。

ぬるぬるする。


一拍の沈黙。


「あはっ」


笑った。

声を上げて、笑った。

くしゃっと顔を歪めて、全身で笑った。

犬がもう一度舐めると、さらに笑った。

足をばたつかせて、もっともっとと、体を前に倒す。


老犬は、迷惑そうに耳を伏せたが、尻尾だけは、緩く振っていた。


この日、カインは、多くの「初めて」を経験していた。

初めての村。

初めての人間たち。

初めての色とりどりの布。

初めての犬。

全部が怖くて、全部が面白い。


そして、そのすべての「初めて」の中心に、ハヤトの心音があった。


怖いときは、しがみつく。

面白いときは、手を伸ばす。

でも、どちらのときも、ハヤトの胸の中にいる。

それが、カインの世界の大前提だった。


――集落のはずれが、見えてきた。


他の家々から少し離れた場所に、一軒の小屋がある。

周囲を丸太の柵で囲み、柵の中から、犬の吠え声が聞こえてくる。

一匹ではない。

何匹もの声が、重なっている。


フランツの家だ。


カインが、犬の声を聞いて、ぴくりと耳を動かした。

さっきの老犬とは違う、力強い声。

たくさんの声。

カインの目が、再び、好奇心で輝きはじめた。


「あー!」


赤い端切れを振り回しながら、声を上げた。

もっと近くで聞きたい。もっと近くで見たい。

怖いけど、見たい。


ハヤトの服を掴む手に、少しだけ、力が入った。

ハヤトが柵の前に立ったとき、中の犬たちが、一斉に反応した。


吠え声が重なる。

低く太い声、鋭く短い声、若い犬の甲高い声。

少なくとも、五、六匹はいる。

柵の向こうで影が動き、鎖の音がじゃらじゃらと鳴った。

猟犬だ。

山の獣を追い詰め、仕留める力を持った犬たち。


カインが、びくりと体を強張らせた。


さっきの老犬とは違う。

この声は、怖い。

大きくて、たくさんで、怒っている。

カインの手が、ハヤトの胸元の布を、ぎゅっと握りしめた。

赤い端切れが皺くちゃになるほどの力で。


「う……うぅ……」


泣きはしなかった。

けれど、ぎりぎりだった。

唇が震えている。

黒い瞳が、不安に揺れている。

ハヤトの心音を確かめるように、顔を胸に押しつけた。


――ハヤトは、扉を叩いた。

三回。間を置いて、もう二回。


しばらく、何の反応もなかった。

犬の吠え声だけが続いている。

それから、重い足音が近づいてきた。


扉が開いた。


フランツは、一目で猟師と分かる男だった。

六十を過ぎているだろう。

背は高くないが、肩幅が広い。

日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、白髪交じりの髪を、無造作に後ろへ撫でつけている。

灰色の目は鋭く、こちらを値踏みするような視線だった。

腕は太く、節くれ立った手には、古い傷跡がいくつもある。

獣と渡り合ってきた手だ。


「……何の用だ」


愛想のない声。

ゴルドが「気難しい爺さん」と評した通りだった。

フランツの灰色の目が、ハヤトを上から下まで見た。

エルフだと認めたが、表情は変わらなかった。

それから、カインに気づいて、わずかに眉が動いた。


「エルフが人間の赤ん坊を抱いてるってのは、お前のことか」


もう、伝わっている。

この村の噂は、どこまで足が速いのか。


ハヤトは、用件を伝えた。

番犬になる仔犬を譲ってほしいこと。

山奥で、キャロルと赤子を守るために必要なこと。

代金は、硬貨で払えること。


フランツは、腕を組んで、黙って聞いていた。


「……番犬か」


短い沈黙。

フランツの目が、再びカインを見た。

今度は、じっくりと。

カインは、ハヤトの胸に顔を埋めたまま、恐る恐る、片目だけで老猟師を見ていた。


「山奥ってのは、あの森の奥か。人が入らなくなって久しい山だろう」


ハヤトが頷いた。


「冬になりゃ、灰色狼が群れで動く。柵だけじゃ持たんぞ」


フランツは、もう一度、ハヤトを見た。

上から下まで。

それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「若いのに、物好きなことだ。山奥で、赤ん坊連れとはな」


ハヤトは、否定も肯定もしなかった。


フランツは、そう言って、踵を返した。


「来い」


それだけ言って、家の裏手へ歩いていく。

ついて来い、という意味だ。


裏手に回ると、柵で囲われた広い犬舎があった。

成犬が四匹、鎖に繋がれている。

ハヤトの姿を見て吠え立てたが、フランツが低く一声唸ると、ぴたりと止んだ。

統率が取れている。


犬舎の奥、一段低くなった場所に、藁が敷き詰められた囲いがあった。

その中に、小さな影が数匹、転がっている。


仔犬だ。


生後二か月ほどだろうか。

母犬のそばで、四匹の仔犬が、じゃれ合ったり眠ったりしていた。

茶色が二匹、黒が一匹、灰色と白のまだらが一匹。

母犬は、大きな茶色の猟犬で、仔犬たちを舐めながら、ハヤトを警戒していた。


「この夏に産まれた。

四匹のうち二匹は、もう貰い手がついてる。

残りは、黒と、そっちのまだら」


フランツが、顎で示した。


黒の仔犬は、囲いの隅で丸くなっていた。

おとなしい気質のようだ。

一方、灰色と白のまだらの仔犬は、兄弟犬の耳を噛んで遊んでいた。

活発で、体格も、四匹の中で一番大きい。


「番犬にするなら、まだらのほうがいい。

雌だが、気が強くて体が大きい。

親は灰色狼と渡り合った犬だ。血筋は確かだ」


フランツがそう言ったとき、まだらの仔犬が、こちらに気づいた。


耳をぴんと立てて、囲いの縁に前足をかけた。

鼻をひくひくさせて、ハヤトの匂いを嗅ぐ。

それから、カインの匂いを嗅いだ。


カインも、気づいた。


恐る恐る、ハヤトの胸から顔を出す。

仔犬がいた。

成犬とは違う。小さい。自分と同じくらい小さい。

声も違う。きゅんきゅんと、高い声。


カインの目が、丸くなった。


怖くない。

この子は、怖くない。


「あ……」


手が伸びた。

赤い端切れを握ったままの手が、まだらの仔犬に向かって。

仔犬は首を傾げて、その手の匂いを嗅いだ。

そして、ぺろりと舐めた。


カインが、息を吸いこんだ。


「あはっ」


笑った。

さっき、道端の老犬に舐められたときと、同じ反応だ。

でも、今度は、もっと嬉しそうだった。

仔犬が小さいから。自分に近いから。怖くないから。


まだらの仔犬は、尻尾を千切れんばかりに振って、カインの手を、もう一度舐めた。

赤い端切れにも、鼻を押しつけ、くんくんと嗅いだ。

カインが、きゃっきゃと声を上げた。


フランツが、その様子を、黙って見ていた。


灰色の目が、ほんの少しだけ、和らいだ。

ほんの少しだけ。


「……犬は正直だ。赤ん坊と一緒に育てりゃ、命に代えても、そいつを守る。そういう生き物だ」


低い声だった。


「まだらを持っていけ。ただし、条件がある」


老猟師が、ハヤトを見た。

鋭い灰色の目。


「犬を飼うってのは、餌をやって鎖に繋いどくことじゃない。

信頼を作るってことだ。毎日声をかけろ。触れ。一緒に歩け。

そうすりゃ、犬のほうから守るようになる」


ハヤトは、胸の中の重みを、ふと思った。

声をかけ、触れ、並んで歩く。

このひと月近く、自分がカインにしてきたことと、何も変わらない。

黙って、頷いた。


フランツは、仔犬を片手で掴み上げた。

まだらの仔犬は、きゅんと鳴いて、老猟師の手の中で尻尾を振った。


「それと、もうひとつ。半年後に、この犬を連れて来い。

俺が見る。ちゃんと育ってなかったら、返してもらう」


厳しい条件だった。

けれど、犬を物のように渡すのではなく、その後まで見届けようとする姿勢だった。


「……分かった。半年後に、連れてくる」


ハヤトは、硬貨を差し出した。

フランツは、それを数えて、無言で受け取った。


まだらの仔犬が、カインのほうへ、鼻を伸ばした。

カインが赤い端切れを差し出すと、仔犬がくわえた。

引っ張り合いが始まる。


「あっ! あーっ!」


カインが声を上げた。

取られまいと、布を握る小さな拳。

仔犬の尻尾が、狂ったように振れている。


フランツが、鼻を鳴らした。

笑ったのかもしれなかった。

フランツは、寡黙な男だった、けれど、犬の話になると、言葉が変わった。


無駄がなくなるのではない。

むしろ、増えた。

餌の量、種類、頻度。

仔犬の時期に必要な、骨付き肉の与え方。

水の替え方。寝床の作り方。

散歩ではなく、「巡回」と呼ぶべき日課の重要性。

犬舎の隅にしゃがみこみ、実際に藁の敷き方を見せながら、老猟師は淡々と語った。


「仔犬のうちは、寒さに弱い。冬を越すまでは、屋内に入れろ。

ただし、甘やかすな。寝場所は決めて、そこ以外では寝かせるな」


「餌は朝と夕の二回。残したら下げろ。いつでも食えると思わせるな。

食うことと守ることは、繋がってる。

飼い主から食をもらうと分かれば、飼い主を群れの長と認める」


「叩くな。怒鳴るな。犬は、恐怖では動かん。

信頼で動く。悪いことをしたら、目を見て、低い声で短く叱れ。それで十分だ」


ひとつひとつが、経験に裏打ちされた言葉だった。

ハヤトが頷くたびに、フランツは、次の項目へ進んだ。

まるで、長年溜めこんでいた知識を、ようやく渡せる相手が来たとでも言うように。


その間、まだらの仔犬とカインの攻防は、続いていた。


赤い端切れの引っ張り合いは、仔犬の勝利に終わり、カインは布を奪われて、一瞬、唇を震わせた。

泣くか、と思われた。

けれど、仔犬がすぐに布を落として、カインの指を舐めはじめた。

カインは、泣くのを忘れた。


「きゃ……あはっ」


指を舐められるたびに、笑う。

仔犬が鼻を押しつけるたびに、声を上げる。

仔犬のほうも、この小さな生き物が気に入ったらしい。

尻尾を振りながら、カインの顔に鼻先を近づけ、ふんふんと匂いを確かめている。


同じくらい小さくて、同じくらい無力で、同じくらい世界を知らない二つの命が、囲いの縁で触れ合っていた。


フランツが、説明を終えて、立ち上がった。

膝の土を払い、ハヤトを見る。


「……あとは、首紐だ。これを使え」


犬舎の壁から、なめした革紐を一本外して、寄越した。

使いこまれているが、丈夫そうだ。


「俺の先代の犬が使ってた紐だ。まだらの首に合うように、調整してある。

新しいのは噛み切る。古い革のほうが、馴染む」


それは、対価に含まれない、フランツ個人からの贈り物だった。

老猟師は、それについて、何も言わなかった。

ただ、革紐を渡しただけだ。


まだらの仔犬を囲いから出すと、仔犬は、一瞬、母犬のほうを振り返った。

母犬が、低く一声鳴いた。

仔犬の耳が、ぺたんと伏せた。

それから、くるりと、ハヤトのほうを向いた。

尻尾が、揺れた。


革紐を首にかけると、仔犬は、くんくんと鼻を鳴らしながら、ハヤトの足もとに座った。


カインが、身を乗り出した。

仔犬が、近くに来た。

もっと近い。手が届く。


「あー!」


カインの手が、仔犬の頭に触れた。

ふわふわしている。温かい。動いている。耳がぴくぴくしている。


仔犬が、カインの手を舐めた。

カインが、笑った。

仔犬の尻尾が、振れた。

カインが、また笑った。


繰り返し。

単純な繰り返し。

でも、それが、二つの命の、最初の約束だった。


フランツの家を後にするとき、老猟師は、門の柵に寄りかかったまま、見送った。


「半年後だ。忘れるな」


それだけ言って、扉を閉めた。


――午後の日差しが、傾きはじめていた。


集落のはずれから、中心を抜けて戻る道を、ハヤトは歩いた。

胸にカイン。足もとに、まだらの仔犬。

背には、マルタの布と、ゴルドから受け取った荷。


来たときより、ずいぶん、荷物が増えた。


仔犬は、初めての散歩に興奮しているのか、あちこちの匂いを嗅ぎながらも、

革紐の範囲で、ハヤトのそばを離れなかった。

ときおり、カインを見上げて尻尾を振り、

カインは、そのたびに手を伸ばして、「あー」と声を出した。


集落の中心を通り抜けるころには、何人かの村人が、この奇妙な一行を振り返って見ていた。

エルフの男が、人間の赤子を抱き、仔犬を連れて歩いている。

奇異な光景だったが、誰も声はかけなかった。

ゴルドの口添えが効いているのか、あるいは、単に関わりたくないだけか。


カインは、村人たちの視線を気にしていなかった。

仔犬に夢中だった。

赤い端切れを振ると、仔犬が跳ねる。

跳ねると、カインが笑う。

笑うと、仔犬が、もっと跳ねる。


集落のはずれ、山道の入口が見えてきた。

ここから山を登れば、山小屋に帰れる。


今日中に、家へ戻る。

ハヤトの頭にあるのは、それだけだった。

山の夜は暗いが、エルフの目なら、歩ける。

キャロルが、乳を張らせて待っている。


カインの目が、少し重くなっていた。

長い一日だった。

初めての村。初めての人間たち。初めての犬。初めての色。初めての匂い。

小さな体に詰めこまれた経験が、眠気となって押し寄せている。


赤い端切れを握りしめた拳が、ゆっくりと緩んだ。


「ぅ……あ……」


瞼が落ちかける。

でも、まだ仔犬を見ていたい。

仔犬が、きゅんと鳴く。

カインの瞼が、また上がる。

また、落ちる。


仔犬が、足もとで、くるりと一回転した。


カインの瞼が、ついに、閉じた。


赤い端切れを握ったまま、ハヤトの胸の中で、眠りに落ちた。

心音を聞きながら。

足もとの仔犬の足音を聞きながら。

今日出会ったすべての「初めて」を、抱えたまま。


仔犬が、不思議そうに見上げた。

遊び相手が、動かなくなった。

くんくんと鼻を鳴らして、ハヤトの足に、体を寄せた。


山道の入口。

夕方の光が、木々のあいだから差しこんでいた。

長い影が三つ、山へ向かって伸びていた。


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