第12話 しろいいぬのユキ
ハヤトは山道を急ぐ。
日は、とうに落ちていた。
山道の入口で見た夕方の光は、登りはじめて間もなく消えた。
木々のあいだは、墨を流したような闇に沈んでいる。
けれど、エルフの目には、道の輪郭が見えた。
足もとの石も、張り出した木の根も、葉のすきまから漏れる星明かりに、ぼんやりと浮かんでいる。
荷が増えた分だけ、足取りは慎重だった。
背には、布と物資。
胸には、眠るカイン。
足もとには、まだらの仔犬。
村で一晩を過ごす、という考えは、最初からなかった。
今日中に、家へ戻る。
それだけを頭に置いて、一歩ずつ登った。
「……歳を取るとな、寝床が変わっただけで、眠れなくなるのでな」
ちらりと、胸元を見る。
カインは、よく眠っていた。
聞いている者は、足もとの仔犬だけだ。
仔犬は、きゅんと鳴いて、尻尾を振った。
ハヤトは、咳払いをひとつして、前を向いた。
仔犬は、意外なほどよく歩いた。
生後二か月の短い脚で、ハヤトの歩幅に必死でついてくる。
ときおり立ち止まって匂いを嗅いだり、落ち葉に飛びかかったりしたが、革紐が軽く引かれると、すぐに足もとへ戻ってきた。
フランツの犬舎で育った血筋は確かなようで、人のそばを歩くことを、本能で分かっているらしい。
それでも、仔犬は仔犬だ。
急な斜面では足を滑らせ、きゅんと情けない声を上げた。
ハヤトが立ち止まるたびに、見上げて、尻尾を振る。
待ってくれた、と言わんばかりに。
山道の半ばを過ぎたころ、茂みの奥で、何かが動いた。
仔犬が、ぴたりと止まった。
耳が立つ。鼻がひくひくと動く。
低い、喉の奥からの唸り声。
生後二か月の仔犬が出す音とは思えないほど、はっきりとした警戒の唸りだった。
鹿だった。
茂みの向こうで、若い牝鹿が、草を食んでいただけだ。
闇のなかで、二つの目が、星明かりを小さく跳ね返している。
危険はない。
けれど仔犬は、自分よりはるかに大きな生き物の気配を、正確に察して、ハヤトの足のあいだに体を寄せ、唸りつづけた。
守ろうとしている。
まだ何も教えていない。
まだ、仔犬には名前もない。
それでも、この仔犬は、本能のままに、群れを守ろうとしている。
鹿が去ると、仔犬の尻尾が、また揺れはじめた。
何事もなかったように、ハヤトの足もとで、ぴょこぴょこと歩き出す。
カインは、眠ったままだった。
赤い端切れを握りしめた拳が、ときおり、ぎゅっと力を込める。
夢を見ているのかもしれない。
仔犬の夢。舐められた手の感触。ふわふわの毛。きゅんきゅんという声。
山小屋の影が見えたとき、空には、星が増えていた。
鳴子の蔓は、揺れていなかった。
留守のあいだ、何も近づかなかったらしい。
それを確かめて、ようやく、肩の力が抜けた。
柵のなかから、キャロルが鳴いた。
帰りを待っていたのだ。
仔犬が、その声に耳を立てたが、吠えはしなかった。
匂いを嗅いで、首を傾げている。
――山小屋の扉を開けると、見慣れた木の匂いが迎えた。
がらんとした暗がりは、冷えていた。
まず、眠っているカインを、ゆりかごへ寝かせた。
赤い端切れは、握ったまま離さない。
無理に取ろうとすると、眉を寄せたので、そのまま持たせておいた。
荷は、土間に降ろしただけだ。
片づけは、明日でいい。
暖炉に、火を入れる。
この山小屋で、百年、冬を越してきた。
薪の組み方も、火種の起こし方も、手が覚えている。
ぱち、と小さな火が立ち、橙色の光が、壁をゆっくりと染めていった。
それから、外へ出て、キャロルの乳を搾った。
乳房は、はち切れそうに張っていた。
朝、搾り切って出てきたのだから、無理もない。
キャロルは、不満げに鼻を鳴らしたが、蹴りはしなかった。
ひと月近くのあいだに、手つきも、すっかり慣れた。
搾りたての乳は、まだ、温かかった。
戻ると、仔犬は、初めての場所に興奮していた。
床の匂いを嗅ぎ、壁の匂いを嗅ぎ、椅子の脚の匂いを嗅ぐ。
ゆりかごのそばまで来ると、前足をかけて、カインを覗きこんだ。
眠っている。遊べない。
きゅんと一声鳴いて、ゆりかごの横に、ぺたんと座った。
待っている。
遊び相手が起きるのを。
ハヤトは、仔犬を見下ろして、顔をしかめた。
土埃と、犬舎の藁くずで、毛並みはすっかり汚れている。
このまま、家のなかを歩かせるわけにはいかない。
鍋に水を汲み、暖炉の火にかけた。
ぬるま湯になるのを待って、古い布を浸し、固く絞る。
「来い。拭いてやる」
仔犬は、首を傾げた。
抱き上げて膝に乗せると、きゅんと鳴いて、足をばたつかせたが、
布が背に触れると、じっと動かなくなった。
温かいのが、気に入ったらしい。
背を拭う。
腹を拭う。
足を拭う。
拭うたびに、布が灰色に染まっていった。
そして、その下から、別の色が現れた。
「…………」
ハヤトの手が、止まった。
「お前、こんなに白かったんだな」
灰色に見えていたのは、土埃だった。
本来の毛は、地の色が真っ白で、背に、薄い灰色の斑が、ところどころ散っているだけだ。
暖炉の火の色を映して、毛先が、ほんのりと光っている。
雪みたいだ、と思った。
そう思ってから、ハヤトは、少しだけ顔をしかめた。
山の雪は、好きではない。
道が閉ざされ、世界が白く塗りつぶされて、孤独が深くなる。
長い、長いエルフの生のなかで、何度も一人でやり過ごしてきた季節だ。
けれど。
「……ユキ」
口に出してみると、思いのほか、しっくりきた。
「お前の名は、ユキだ」
仔犬の耳が、ぴくりと動いた。
「雪の季節が来ても、お前がいれば、少しは好きになれるかもしれん」
自分でも、柄にもないことを言っている、と思った。
ハヤトは、もう一度、咳払いをして、仔犬の頭を軽く撫でた。
ユキは、まだ、自分のことだとは分かっていない。
けれど、その音が、ハヤトの口から自分に向かって発せられていることだけは分かっているらしかった。
「ユキ」と呼ぶたびに、少しだけ、首を傾げる。
拭き終えたユキを床に下ろし、搾りたての乳を、浅い皿に注いでやった。
「ほら。乳を飲め、ユキ」
ユキは、ぱっと顔を上げた。
鼻がひくひくと動く。
匂いを嗅ぎ当てるまでに、一瞬。
皿に駆け寄るまでに、二歩。
ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして、飲みはじめた。
短い尻尾が、忙しなく左右に振れている。
ゆりかごの中で、カインが、身じろぎした。
「ん……ぅ……」
ユキの舌の音で、目が覚めたのだろう。
半開きの黒い瞳が、ぼんやりと、天井を見つめた。
それから、ゆっくりと横を向いて――ユキを見つけた。
ここにいる。
さっきの、ふわふわの。
「あ」
声が漏れた。
小さな手が、ゆりかごの縁を越えて、ユキのほうへ伸びる。
ユキは、皿を離れ、とことことゆりかごに近づいた。
前足をかけて、覗きこむ。
乳で濡れた鼻先が、カインの手に触れた。
冷たくて、湿っていて、乳の匂いがした。
「あっ……あはっ」
カインが、笑った。
くしゃっと顔を歪めて、目を細くして。
それから、赤い端切れを、ユキの鼻先に押しつけた。
ユキが、くんくんと嗅いで、ぺろりと舐める。
カインが、また笑った。
橙色の光が、山小屋の壁を、温かく染めている。
ハヤトは、カインを抱き上げた。
「お前も、腹が減っただろう」
キャロルの乳を、少し温めて、器に注ぐ。
カインは、半分眠ったような顔のまま、勢いよく吸いついた。
長い一日だった。
空腹だけが、ようやく、思い出されたらしい。
赤い端切れを握った拳が、とろんと緩んでいく。
飲み終えると、ハヤトは、カインを、そっとゆりかごへ戻した。
ユキは、ゆりかごのそばに、ぺたんと座っていた。
さっきと同じ位置だ。
カインの顔が見える場所に。
ハヤトは、少し考えて、隅から藁を持ってきた。
古い布を重ねて、ゆりかごのすぐ脇に、小さな寝床を作る。
フランツは、寝場所は決めろ、と言った。
決めるのなら、ここだ。
「寝場所は、ここだ」
ユキは、鼻を鳴らして、寝床の匂いを嗅いだ。
一周して、ごろりと丸くなる。
ゆりかごの脚に、背をぴったりと寄せて。
その背中に、カインの指が、ゆりかごの縁から垂れて、触れていた。
ふわふわの毛。温かい体温。
「う……ぅ……」
カインの瞼が、また重くなった。
長い一日の疲れが、まだ残っている。
でも、今度は、ユキの温もりがすぐそばにある。
指先に触れる毛並みが、もうひとつの安心になっている。
ハヤトの心音と、ユキの体温。
カインの世界に、二つ目の温もりが加わった日だった。
ユキが、小さく欠伸をした。
顎を、カインの手の上に乗せて、目を閉じる。
二つの小さな寝息が、暖炉の爆ぜる音に混じった。
暖炉の火が、低く燃えている。
ハヤトは、ゆりかごのそばに腰を下ろし、二つの小さな命を見下ろしていた。
カインの指が、ユキの背の毛に埋もれている。
ユキの顎が、カインの手の甲に乗っている。
どちらが先に、その姿勢を選んだのかは、分からない。
眠りのなかで、自然と寄り添ったのだ。
人間の世界の言い伝えに、男の子が生まれたら、犬を飼え、というものがある。
ハヤトが、いつ、どこで聞いたのか――おそらく、人里での長い取引のなかか、人間の書物のなかで、拾った知識だろう。
犬は、兄弟になる。
遊び相手になる。
やがて、言葉にできないことを聞いてくれる、相談相手になる。
もっとも、いまのハヤトは、そんなつもりで犬をもらったわけではなかった。
番犬が欲しかった。
ただ、それだけだった。
けれど、こうして眠る二つの姿を見ていると、言い伝えのほうが、先回りして正しかったような気がしてくる。
カインが、寝返りを打った。
小さな体がゆりかごのなかで転がり、ユキの背から、指が離れた。
ユキが、すぐに目を開けた。
きゅん、と小さく鳴いて、鼻先を、カインの手に寄せる。
冷たい鼻が、指先に触れた。
カインは、目を覚まさなかった。
けれど、離れた指が、眠ったまま、再びユキの毛を探り当てた。
掴んだ。ぎゅっと。
ユキの尻尾が、一度だけ揺れて、また顎を、カインの手の上に戻した。
それだけのことだった。
でも、それは、最初の約束の繰り返しだった。
離れても、戻る。
見失っても、探す。
眠っていても、触れていたい。
カインにとって、ハヤトは、世界のすべてだった。
心音。温かい腕。乳をくれる手。泣けば来てくれる存在。
でも、今日から、もうひとつの温もりが加わった。
ハヤトよりずっと小さくて、ハヤトとは違う匂いがして、ぺろぺろと舐めてくる、ふわふわの存在。
ユキにとっても、同じだった。
母犬と兄弟から離れた今日、この仔犬が、最初に選んだ寝場所は、カインのそばだった。
兄弟。
血の繋がりはない。種族すら違う。
人間の赤子と、猟犬の仔犬。
同じ時期に同じ家に来て、
同じ乳を飲み、
同じ暖炉の火に照らされて、
同じ夜を過ごしている。
これから先、カインが歩きはじめるとき、ユキも走りはじめるだろう。
カインが言葉を覚えるとき、ユキは吠え方を覚えるだろう。
カインが転んで泣くとき、ユキは顔を舐めに来るだろう。
カインがハヤトに言えないことを抱えたとき、ユキの毛に顔を埋めて、黙って座るだろう。
そうやって、兄弟になっていく。
暖炉の薪が崩れて、火の粉が舞った。
ユキの耳が、ぴくりと動いたが、今度は目を開けなかった。
カインの指を信頼して、眠りつづけた。
窓の外では、秋の虫が鳴いている。
あと数か月もすれば、山は雪に閉ざされる。
けれど、今年の冬には、ユキがいる。
名前のとおりの白い季節が来ても、この小さな命が、カインのそばにいる。
ハヤトのそばに、いる。
小窓から、星が見えた。
村で過ごした一日が、終わろうとしている。
ゴルドの笑顔、マルタの太い手、フランツの鋭い目。
カインの世界は、今日、一気に広がった。
けれど、カインが眠る場所は、変わらず、ここだった。
ハヤトの作ったゆりかごのなか。
ユキが寄り添う、そのそばで。
赤い端切れを握りしめて。
森の入り口で、一つだった命が、ひと月足らずで、四つになった。
ハヤトと、カインと、キャロルと、ユキ。
山奥の小さな家族が、今日また、少しだけ大きくなった。




