第13話 やまのいちにち
翌朝、ハヤトの一日は、少しだけ早く始まった。
夜明けとともに、ユキが起き出した。
ゆりかごの脇の寝床から、とことこと歩いて、ハヤトの寝台のそばまで来る。
鼻を、ハヤトの手に押しつけた。
冷たい。湿っている。
外に出たい、と全身で訴えている。
「……分かった。出してやるから、待て」
戸を開けると、ユキは、一目散に草の上へ駆けていった。
カインは、まだ眠っていた。
赤い端切れを握りしめたまま、穏やかな寝息を立てている。
けれど、ハヤトが戸を閉めて支度を始めると、物音で目を覚ました。
ぐずるか、と身構えた。
そこへ、用を足して戻ってきたユキが、ゆりかごに前足をかけて、カインの顔を舐めた。
「ふぁ……あっ」
朝一番に見た顔が、ユキだった。
昨日の記憶は、あるのだろうか。
…あった。覚えていた。
ふわふわの、ぺろぺろの、きゅんきゅんの。
カインの手が、ユキの耳を掴んだ。
ユキは、嫌がらなかった。
ハヤトは、カインを抱き紐に収めて、外へ出た。
キャロルの乳を搾るあいだ、ユキは、柵のそばまでついてきた。
好奇心のままに、鼻先を柵のすきまに突っこむ。
キャロルが、ちらりとユキを見て、低く蹄を鳴らした。
ユキは、ぴょんと跳ねて、ハヤトの足の後ろに隠れた。
山羊は怖くないが、面倒くさい。
仔犬なりに、そう学んだらしい。
搾りたての乳を、二つの器に注いだ。
カインの分と、ユキの分。
ユキの皿には、湯でふやかした干し肉を、少しだけ混ぜた。
朝と夕の二回。残したら下げる。
フランツの言葉を、頭のなかで数えながら。
カインは、抱き紐のなかで、ごくごくと飲んだ。
ユキは、足もとで、ぴちゃぴちゃと舐めた。
同じ乳を、同じ朝に、同じ場所で。
ハヤトは、干し肉と木の実で自分の朝食を済ませた。
そのあいだ、カインは、ゆりかごのなかで、赤い端切れを振り回していた。
ユキが、それに飛びつこうとして、ゆりかごの縁に前足をかける。
カインが布を引っ張る。ユキが引っ張り返す。
二人の遊びは、昨日から、何も変わっていない。
単純で、飽きることがない。
朝食を終えると、ハヤトは、抱き紐にカインを入れ、ユキの革紐を手に取った。
こうして、朝の散歩が、日課に加わった。
山小屋の裏手から、山道を歩く。
九月の終わりの朝は、澄んでいた。
木々の葉が、わずかに色づきはじめている。
朝露が、蜘蛛の巣に光っている。
ハヤトの足音と、ユキの小さな足音が、交互に響いた。
隠居が、朝の散歩を日課にする。
いかにも、ご隠居らしい。
そう思って、ハヤトは、胸の内で少しだけ満足した。
フランツなら、これを「巡回」と呼ぶのだろう。
「いい天気だな」
ハヤトが、カインに語りかけた。
カインは、黒い瞳を空に向けた。
昨日の村の空とは違う。
ここの空は、広い。
木の枝のあいだから、どこまでも青い。
「あー」
返事とも、感嘆ともつかない声。
でも、ハヤトの声に応えて、声を出す。
それが嬉しくて、ハヤトは、また話す。
山小屋から少し下ったところに、小さな池がある。
人の来なくなった山の、さらに奥まったくぼ地だった。
水は、底まで澄んでいる。
朝は、水面にうっすらと霧が立つ。
この池には、いつも、光が多い。
ハヤトの目には、霧のなかを漂う、小さな光の粒が見えていた。
精霊だ。
エルフの目にだけ映る、意志を持った光。
水辺には、とりわけ多く集まる。
囁きも、いつものように聞こえていたが、雨音と同じで、聞き流していた。
騒ぐほどのことではない。
ただ、この池の前では、足音を落としているほうが、居心地がよかった。
いつのまにか、それが癖になっている。
朝日が、霧のあいだから差して、水面を照らしていた。
「池が光っているぞ」
カインの目が、見開かれた。
光だ。
いつも、光のなかで揺れていて、掴めないもの。
でも、これは、桁が違う。
水面いっぱいが、きらきらと輝いている。
無数の光。どこまでも続く光。
掴もうとしても掴めない光が、こんなにたくさんある。
「あっ! あっ! あー!」
カインが、興奮して声を上げた。
両手を伸ばす。
赤い端切れが、朝日に透けた。
水面の光に向かって、必死に手を伸ばしている。
やっぱり、届かない。
でも、今日は、悔しそうな顔をしなかった。
綺麗だから。
ただ、綺麗だったから。
そのとき、霧のなかの光の粒のひとつが、ふわりと水面を離れた。
ゆっくりと、こちらへ漂ってくる。
ハヤトは、足を止めた。
カインは、水面の光から目を離して、その粒を見ていた。
見ていた、と思う。
粒が右へ流れると、黒い瞳も、右へ動いた。
粒が高く上がると、顎が上がった。
小さな手が、その粒のほうへ伸びる。
水面のきらめきに伸ばしたときとは、手の伸ばし方が違った。
こちらは、掴もうとしている。
粒は、カインの指先の少し手前で、ほどけるように消えた。
「…………」
ハヤトは、息を詰めた。
朝日に光る水面に、気を取られているだけかもしれない。
たまたま、視線が同じ方向へ動いただけかもしれない。
あの朝、小窓の光の筋のなかで、塵のあいだの一粒を追っていたときも、そう考えた。
――気づいている、のか。
答えは、出なかった。
カインは、粒が消えたあとの空を、まだ見つめている。
「……あ」
小さな声が、漏れた。
確かめる方法は、ない。
見えているのかと訊いたところで、答えは返ってこない。
ハヤトは、ゆっくりと息を吐いて、歩き出した。
ユキは、池に興味を示さなかった。
水際の匂いを嗅いで、ふんと鼻を鳴らし、別のものに気を取られている。
茂みの奥で、何かが動いた。
ユキの耳が、ぴんと立った。
体が、低くなる。
尻尾が、水平に伸びる。
猟犬の本能だ。
茂みから、茶色い影が飛び出した。
兎だ。
「兎だ。見ろ」
ハヤトが指さした。
カインの目が、池から兎へ移った。
茶色くて、小さくて、跳ねる。
ぴょん、ぴょん、と草の上を跳ねていく。
絵本の兎だな、とハヤトは思った。
山の向こうに何があるか見てみたい、と言った、あの兎だ。
カインは、生まれて初めて、本物の兎を見た。
キャロルとは違う。犬とは違う。人間とも違う。
跳ねる。
こんなに跳ねる生き物がいる。
「あ……あ……」
声が、小さくなった。
息を詰めて見ている。
兎が草むらに消えるまで、まばたきもせずに。
ユキが、追いかけようとした。
革紐が、ぴんと張る。
きゅん、と不満そうに鳴いたが、ハヤトが「ユキ」と呼ぶと、振り返った。
名前を呼ばれたら、振り返る。
まだ完全には覚えていないが、昨日よりは反応が早い。
兎が消えた草むらを、カインは、まだ見つめていた。
いなくなった。あの跳ねるもの。どこへ行ったのだろう。
カインが、ハヤトの顔を見上げた。
「う?」
問いかけるような声。
どこへ行ったの、と聞いているような目。
言葉にはならない。
けれど、ハヤトには、伝わった。
それからの朝は、毎日同じようで、毎日違った。
同じ道を歩く。同じ池を見る。同じ山の景色。
でも、光の角度が変わる。風の匂いが変わる。
昨日いた兎がいなかったり、代わりにリスがいたりする。
ユキが、日に日に歩くのが上手くなる。
カインが、日に日に首を動かす範囲が広くなる。
ハヤトは、歩きながら話しつづけた。
「あの木はブナだ」
「この花は食べられるぞ」
「あの鳥の声が聞こえるか」
「風が冷たくなってきたな。もうすぐ、秋が深くなる」
言葉が返ってくるわけではない。
「あー」と「うー」と、ときどき「あっ」が返ってくるだけだ。
でも、カインは、ハヤトの声を聞いている。
ハヤトが何かを指さすたびに、その方向を見る。
声の抑揚で、楽しい話なのか、大事な話なのかを、感じ取っている。
言葉の意味は、まだ分からない。
でも、言葉の温度は、分かる。
ユキも、ハヤトの声を聞いている。
名前を呼ばれたら、振り返る。
「来い」と言われたら、近づく。
「待て」と言われたら――まだ待てない。仔犬だから。
でも、いつか待てるようになる。
三つの影が、朝の山道を歩いていく。
一番大きい影と、一番小さい影と、四本足の影。
毎朝、毎朝、同じ道を。
――散歩から戻ると、ハヤトは、昨夜土間に降ろしたままだった荷を、片づけた。
柔らかい布は、棚の一番取りやすいところへ。
蝋引きの布は、ゆりかごの下に敷く分だけ、先に出した。
塩と油の壺は、台所の隅へ。
種の袋は、畑へ持っていく。
畑に出ると、秋の陽射しが心地よかった。
ゆりかごを、畑の端に置く。
日差しが直接当たらないよう、大きなブナの木の影に。
カインは、朝の散歩で体力を使ったのか、ゆりかごのなかで、うとうとしはじめていた。
赤い端切れを胸の上に乗せたまま、黒い瞳が半分閉じている。
ユキはというと――
ゆりかごの横に座った。
ぺたん、と。
畑で鍬を握るハヤトの姿を一度見て、それから、カインに視線を戻した。
鼻をひくひくさせて、カインの匂いを確かめる。
いる。ここにいる。
それだけ確かめると、前足の上に、顎を乗せた。
見張っているわけではない。
教えられたわけでもない。
ただ、ここが自分の居場所だと、決めただけだ。
カインのそば。
それが、ユキの定位置になりつつあった。
ハヤトは、畝を整えて、種の袋を開けた。
大根と、蕪。
指で溝を切り、ひと粒ずつ、間を空けて落としていく。
麦は、少しだけ。
手もとにあるものを、できるかぎり、土に預けた。
先に植えた野蒜や山牛蒡の列にも、水をやる。
芽が出るまでは、まだ先だ。
けれど、ようやく、広げた畑が畑らしくなった。
ハヤトが畑の土に向き合っていると、ときおり、ゆりかごのほうから、小さな音が聞こえた。
カインが、寝言のように「うー」と声を出す。
ユキの耳が、ぴくりと動く。
カインが、静かになる。
ユキの耳が、伏せる。
それだけ。
カインがぐずりはじめたときだけ、ユキは、反応を変えた。
「うぅ……うぇ……」
眠りが浅くなったのか、カインの声が、湿り気を帯びた。
泣く手前の、不安な声。
ハヤトがいない。いつもの心音が、聞こえない。
ユキが、立ち上がった。
ゆりかごに前足をかけて、カインの顔を覗きこむ。
ぺろり、と額をひと舐め。
カインが、目を開けた。
ユキの顔があった。
白い毛並みに、薄い灰色の斑。湿った鼻。揺れる尻尾。
「……あ」
泣かなかった。
ユキがいたから。
もう一度ぺろりと舐められて、カインは、目を閉じた。
今度は、穏やかに。
ユキが、また、顎を前足の上に戻した。
それだけのことだった。
ハヤトが畑から目をやるたびに、同じ光景が、そこにあった。
ゆりかごのなかのカイン。その横に伏せるユキ。
番をしているのか、一緒に昼寝をしているのか、もはや区別がつかない。
少し離れた柵のなかでは、キャロルが、何事もないように草を食んでいた。
仔犬が来ようが、赤子が泣こうが、キャロルには関係ない。
朝に乳を搾られ、昼に草を食み、夕方にまた乳を搾られる。
それが、キャロルの一日だ。
ときおり、ユキのほうをちらりと見て、鼻を鳴らすだけ。
犬は犬、山羊は山羊。
干渉しない距離感が、すでにできあがりつつあった。
午後の陽射しが、傾いてきた。
ハヤトが畑仕事を終えて戻ると、ゆりかごのなかで、カインが目を覚ましていた。
泣いてはいない。
赤い端切れを、ユキの鼻先に押しつけて、遊んでいた。
ユキがくんくんと嗅いで、カインが「あっ」と笑う。
どれくらいのあいだ、二人でそうしていたのだろう。
ハヤトが近づくと、カインが、ぱっと顔を上げた。
「あー!」
両手を伸ばした。
帰ってきた。いつもの人。いつもの匂い。いつもの心音。
ユキも、尻尾を振って駆け寄った。
ハヤトの足もとで、くるくる回る。
キャロルだけが、変わらず草を食んでいた。
午後の日差しが西に傾きはじめたころ、ハヤトはカインを抱き紐に入れ、ユキの革紐を手に取った。
「薬草を摘みに行くぞ」
カインが、顔を上げた。
ハヤトの声に反応しただけだ。
「薬草」の意味は、分からない。「摘みに行く」も分からない。
でも、ハヤトの声が自分に向けられていること、これから何かが始まること、それだけは分かる。
「あー」
返事のつもりなのかもしれない。
ハヤトが話しかけると、声を出す。
それが、最近のカインの習慣になりつつあった。
ユキは、革紐を見ただけで、尻尾を振りはじめた。
革紐は、外に出られるという合図だと、一日で学んだ。
朝の散歩の記憶が、残っている。
とことこと足踏みしながら、早く早くと鼻を鳴らしている。
朝の散歩とは別の斜面に、ハヤトが長年手入れしてきた、薬草の群生地がある。
山道を少し外れた斜面に、数種類の薬草が、自然に近い形で育っていた。
ハヤトが種を蒔いたもの。自生していたものを、管理しているもの。
両方がある。
エルフの長い年月が育てた、小さな薬草の群生地だった。
ハヤトが、しゃがみこんで、一本の草を摘んだ。
細い茎に、白い小さな花がついている。
「あのとき、お前の体を拭いてやった草に、似ているが……違う草だ」
カインの目の前に、差し出した。
「これは、疲れた体を起こす草だ」
カインは、黒い瞳で、それをじっと見つめた。
白い花。小さい。揺れている。
手を伸ばした。
指先が、花びらに触れた。
柔らかい。
赤い端切れとは違う柔らかさ。ふにゃりとしている。
「あ……」
力を入れたら、潰れた。
花びらが、くしゃりと歪んで、カインの指に、白い汁がついた。
カインは、自分の指を見つめた。
潰れた。
赤い端切れは、握っても壊れないのに。
これは、壊れた。
不思議そうな顔をしている。
悲しんでいるわけではない。
ただ、世界には、ぎゅっと握っても大丈夫なものと、そうでないものがあることを、指先で知ったのだ。
ハヤトは、カインの指を、布で拭いてやった。
「口には入れるなよ。苦いだけで、害はない草だが」
次の薬草を摘みながら、また話しかけた。
どの草に、どんな効き目があるのか。
どの季節に採るのがいいのか。
根ごと抜くと、翌年生えなくなること。
必要な分だけ取ること。
カインは、聞いている。
意味は、分からない。
でも、ハヤトの声の調子が、朝の散歩のときと、少し違うことは、感じ取っている。
散歩のときは、軽くて明るい。
今は、落ち着いていて、丁寧だ。
大事なことを話しているときの声。
カインは、まだ「大事」という言葉を知らない。
でも、ハヤトの声の温度が変わったことは、分かる。
「うー」
相槌のような声を出した。
ハヤトの言葉の切れ目に、ちょうど合わせるように。
偶然だろう。
けれど、まるで会話のようだった。
ユキは、薬草には、まったく興味を示さなかった。
斜面の匂いを片っ端から嗅ぎ回り、土を掘り、虫を追いかけ、落ち葉に飛びかかっている。
ハヤトが薬草を摘むそばで、一人だけ全力で遊んでいた。
革紐の範囲で許されるかぎりの冒険を、満喫している。
ときおり、カインのほうを振り返る。
いる。まだいる。よし。
また、遊ぶ。
ハヤトが、籠いっぱいに薬草を摘み終えるころ、ユキは、鼻先を土だらけにして、満足そうに座っていた。
カインは、抱き紐のなかで、潰してしまった白い花の残りを、まだ握っていた。
「よし、帰るか」
「あー」
帰り道、ハヤトは、また話した。
摘んだ薬草の乾かし方。煎じ方。塗り薬の作り方。
村へ持っていけば、金になること。
ゴルドの店で、買ってもらっていること。
カインは、揺られながら、聞いている。
声の振動が、心地よい。
ハヤトの胸から伝わる声は、耳から聞こえる声とは、別の感触がある。
体の奥に響く。温かい。眠くなる。
ユキが、足もとを歩いている。
今朝より、少しだけ、歩くのが上手くなっている。
山小屋が見えてきた。
キャロルが、柵のなかで草を食んでいる。
朝と同じ場所で、同じように。
キャロルだけが、何ひとつ変わらない日常を送っている。
ハヤトが、薬草を軒先に吊るしはじめると、
カインは、ゆりかごのなかから、ぶら下がった薬草の束を、じっと見上げていた。
白い花。さっき潰してしまったのと、同じ花。
今度は、手が届かない場所にある。
カインの指には、まだ、白い汁の跡が、うっすらと残っていた。
ユキが、ゆりかごの横に来て、その指を舐めた。
苦い味がしたのか、べっと舌を出して、首を振った。
「あはっ」
カインが、笑った。
ユキの顔が、面白かったのだ。
ハヤトの言葉は、まだ、種のようなものだった。
土に蒔いても、すぐには芽が出ない。
でも、毎日蒔きつづければ、いつか根を張る。
「薬草」「疲れ」「効き目」――今は、意味のない音の連なりが、いつか、カインのなかで、意味を持つ日が来る。
その日が、いつになるかは、分からない。
でも、ハヤトは、蒔きつづける。
声に出して、行動で見せて、繰り返して。
エルフには、時間がある。
人間の子どもが言葉を覚えるまでの数年など、長い生のなかの、ほんの一瞬だ。
でも、カインにとっては、その一瞬が、すべてだった。




