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14/21

第14話 ユキのおしごと

朝の散歩から戻るとハヤトは、カインにもう一度乳を飲ませ、ユキにも与えた。


いつもなら、ここでカインをゆりかごに寝かせて、畑へ出る。

けれど、今日は違った。

ハヤトは、弓と矢筒を手に取った。


冬が来る前に、干し肉を増やしておきたい。

種を蒔いた畑は、まだ何も返してくれない。

山の恵みだけでは、カインとキャロルとユキを抱えた冬は、越せない。

それに、ユキに森を覚えさせる必要もあった。

猟犬の血は、教えなければ、眠ったままだ。


カインを置いていく、という考えは、最初からなかった。

視界から消えただけで泣く子を、半日、一人にはできない。


ユキの耳が、ぴんと立った。


革紐ではない。朝の散歩でもない。

ハヤトの動きが、いつもと違う。

足音が静かで、呼吸が浅い。

仔犬の本能が、それを嗅ぎ取った。

尻尾が、低く揺れている。

興奮ではなく、緊張に近い何か。


ハヤトは、カインを抱き紐に入れた。

いつもより深く、しっかりと。

カインの頭が、ハヤトの胸に収まる。

心音が聞こえる。いつもより、少しだけ速い。


「あ?」


カインが、見上げた。

ハヤトの顔がいつもと少し違うことを、まだ言葉にできない感覚で、察している。


――森に入った。


朝の散歩とは別の道だった。

木々が密で、日差しが届きにくい。

地面は落ち葉に覆われ、足を置くたびに、湿った音がする。


ユキは、革紐をつけなかった。


フランツの言葉が、頭にある。

猟犬は、紐で繋いでは育たない。森では自由にさせろ。

ただし、戻れと言ったら戻る犬にしろ。それが最初の躾だ。


ユキは、ハヤトの足もとを離れなかった。

紐がなくても、自分からそばにいる。

ときおり、数歩先に出て、匂いを嗅ぎ、すぐに戻ってくる。

まだ、森の深さが怖いのだ。

木の影が揺れるたびに、びくりとして、ハヤトの足に体を寄せた。


それでいい。

今日は、追い立てる必要はない。

森を歩くこと。

匂いを覚えること。

ハヤトの動きを見ること。

それだけで、十分だった。


小一時間ほど歩いたところで、ハヤトは、足を止めた。


地面に、小さな糞が落ちている。

丸くて、乾いていない。新しい。

兎だ。近くにいる。


ハヤトが、腰を低くした。

カインの体が、自然と下がる。


カインは、黙った。


理由は、分からない。

けれど、ハヤトの体が変わったことは、感じた。

心音が、さっきより遅い。静かだ。呼吸が深くなった。

静かにしなければいけない時間だと、心音が教えてくれた。

赤い端切れを握ったまま、じっとしている。


ユキも、止まった。

鼻がひくひくと動いている。

前足が、一歩、また一歩と前に出る。

体が低い。尻尾が水平。

あの朝、池で兎を見たときと、同じ姿勢だ。


茂みの向こうに、灰色の耳が見えた。


野兎だった。

体の大きな雄が、草を食んでいる。

まだ、こちらには気づいていない。


ハヤトが、弓を引いた。


抱き紐のなかのカインが、邪魔になる。

いつもなら両腕を自由に使えるが、今は、片方でカインを支えている。

引き絞る角度が浅い。狙いが定まりにくい。


ユキが、一歩前に出た。

落ち葉を踏んだ。


かさり。


兎の耳が、ぴんと立った。


一瞬だった。

灰色の影が跳ねた。茂みの奥へ消えようとする。


ハヤトが、放った矢は、兎の後ろ脚をかすめた。

当たっていない。

兎は、跳ねて、跳ねて、茂みの奥に消えた。


静寂が戻った。


カインの小さな体が、びくりと震えていた。

風を切る音。初めて聞いた音だった。

怖かったのか、驚いたのか、自分でも分からない。

でも、泣かなかった。ハヤトの心音を聞いていたから。


あの棒のようなものから、何かが飛んだ。

それが、兎に向かって飛んでいった。


なぜ?


その疑問は、まだ、言葉にならない。

「あ」にも「う」にもならない。

ただ、黒い瞳の奥に、小さな引っかかりとして残った。


ユキが、茂みに突っこもうとした。

ハヤトが、低く呼んだ。

「ユキ」


ユキは、振り返った。

前足が浮いている。

行きたい。

追いかけたい。


体の中の何かが、そう叫んでいる。

でも、ハヤトの声が聞こえた。

きゅん、と鳴いて、戻ってきた。


尻尾が下がっている。

悔しいのか、叱られたと思ったのか。

ハヤトの足もとに、ぺたんと座って、上目遣いで見上げた。


「叱ってはいない。それでいい」


ハヤトは、低く、短く言って、ユキの頭に手を置いた。

声の調子が、伝わったのだろう。

ユキの尻尾が、少しだけ持ち上がった。


場所を変えた。


二度目は、もう少し開けた場所だった。

倒木の陰に身を潜め、獣道を見張る。

ユキは、ハヤトの足もとで伏せている。

さっきの失敗を覚えているのか、今度は動かない。

命じたわけではない。

ハヤトが動かないから、動かない。

長くは持たないだろうが、今日は、持っていた。

鼻だけが、ひくひくと動いている。


待つこと、しばらく。


カインが、先に眠った。

ハヤトの心音と、森の静けさと、抱き紐の揺れが重なって、瞼が落ちた。

赤い端切れを握ったまま、こてんと頭を傾ける。


ユキの耳が、動いた。

獣道の奥から、かさかさと音がする。

ユキの体に、力が入った。


でも、動かない。

前足が震えている。

行きたい。

…でも、ハヤトが動かない。

だから、動かない。


兎が、姿を現した。

さっきより小さい。若い雌だ。


今度は、カインが眠っている分、ハヤトの両腕が少しだけ自由だった。

片手でカインの頭を支え、もう片方で弓を引く。

引き絞る。狙う。


ユキが、息を止めた。


ハヤトは矢を放った。


乾いた音がした。

矢が、兎の首もとに刺さった。

兎は、一度だけ跳ねて、倒れた。

動かなくなった。


ユキが、立ち上がった。

ハヤトの顔を見る。

行っていいのか。

尻尾が震えている。


ハヤトは、うなずいた。


ユキは、駆け出した。

倒れた兎のもとへ。

匂いを嗅ぐ。

鼻先でつつく。

動かない。

さっきまで跳ねていたものが、動かない。


ユキは、兎を咥えて、戻ってきた。


小さな口には、大きすぎる獲物だった。

首を精一杯持ち上げて、兎の体を引きずりながら、よたよたとハヤトの足もとまで運んだ。

前足がもつれて、一度転んだ。

それでも、離さなかった。

ハヤトの前に兎を置いて、尻尾を振った。


やった。持ってきた。褒めて。


その振動で、カインが目を覚ました。


目を開けると、ユキの口もとが赤かった。

地面に、灰色のものが横たわっている。

あの朝、池で見た、跳ねるもの。

でも、跳ねていない。動かない。

目が開いたまま、動かない。


カインは、それをじっと見つめた。


泣かなかった。怖がりもしなかった。

ただ、見た。

動かなくなった兎を。

ユキの口もとの赤を。

ハヤトの手が、兎を持ち上げるのを。


それが何を意味するのか、まだ分からない。

でも、目は逸らさなかった。


ハヤトは、ユキの頭を撫でた。


ユキの尻尾が、千切れそうなほど振れた。

体全体がくねくねと揺れて、ハヤトの手に、ぐいぐいと頭を押しつける。

褒められた。分かる。

声の調子と、手の温度と、触れ方で分かる。

嬉しくて、前足がばたばたと地面を叩いた。

口もとには、まだ兎の血が残っている。


「よくやったな」


それから、ハヤトは、兎の前にしゃがんだ。


動かなくなった灰色の体。まだ、温かい。

ハヤトの手が、そっと兎の上に置かれた。

目を閉じた。唇が動いた。


エルフに古くから伝わる、祈りの言葉だった。


人間の言葉とは違う響き。

母音が長く伸び、子音が、森の空気に溶けていくような、古い言葉。

精霊への祈りは、いつのまにか手放した。

けれど、獲物に感謝を伝えるこの言葉だけは、百年、一人で唱えつづけてきた。


「祈りの言葉だ」


ハヤトが、カインに向かって言った。


「兎に、感謝を伝えるのだ」


カインは、抱き紐のなかから、ハヤトの手と兎を見下ろしていた。


さっきまでとは違う、ハヤトの声。

散歩のときの軽さでもない。薬草のときの丁寧さでもない。

もっと深くて、もっと静かで、もっと重い声。


カインは、黙っていた。

声を出さなかった。

朝の散歩なら、「あー」と返す。薬草のときなら、「うー」と相槌を打つ。

でも、今は、何も言わなかった。


ハヤトの心音が、いつもと違ったから。


ゆっくりで、深くて、ひとつひとつの拍動に、重さがあった。

カインの耳に一番近い場所で鳴っているその音が、今この瞬間は、特別な時間なのだと伝えていた。



――水場に移った。


山小屋からほど近い沢だ。

澄んだ水が、岩のあいだを流れている。


ハヤトは、カインを木の根もとに降ろし、落ち葉を敷いた上に座らせた。

ユキが、すぐにカインの横に来て伏せた。


ハヤトが、腰のナイフを抜いた。


兎の後ろ脚を持ち上げ、首筋に刃を入れた。

赤い筋が、沢の水に流れた。

透明な水が、一瞬だけ赤く染まって、すぐに流れていった。


「こうすると、肉が旨くなるぞ」


手を動かしながら、ハヤトは、話しつづけた。

血を抜くこと。

内臓を傷つけないように、開くこと。

毛皮を無駄にしないように、剥ぐこと。

使える部分は、すべて使うこと。

骨からは、出汁が取れること。


カインは、見ていた。


赤い色が、水に流れていく。

ハヤトの手が赤い。ナイフが赤い。

さっきまで灰色だった兎の中から、赤いものが出てくる。


怖くはなかった。


なぜだろう。

ハヤトの声が穏やかだったからかもしれない。

ひとつひとつの動作が丁寧で、乱暴さがなかったからかもしれない。

さっき祈りの言葉を唱えたときの、あの心音が、続いていたからかもしれない。


カインの黒い瞳は、ハヤトの手もとを、じっと追っていた。

赤い端切れを握った指が、無意識に、ぎゅっと力を込めた。


ユキは、少し離れた場所で、鼻をひくひくさせていた。

血の匂い。肉の匂い。本能が騒いでいる。


…けれど、ハヤトが何も言わないから、動かない。

今日覚えたばかりのことを、もう実践している。

待つ。ハヤトが何か言うまで、待つ。


血抜きが終わると、ハヤトは、兎の体を沢の水で洗った。

赤い水が流れて、また透明に戻った。


兎は、小さくなっていた。

毛皮を剥がれ、内臓を抜かれ、さっきまで跳ねていた生き物の形は、もうない。

肉と骨だけになった。


ハヤトは、毛皮を丁寧に広げて、木の枝に掛けた。

乾かせば、使える。

必要な分だけ。使えるものは、すべて。


カインが、ハヤトを見上げた。


「う……」


小さな声だった。

何かを伝えたいような、でも何を伝えたいのか自分でも分からないような声。


ハヤトの手が赤い。

けれど、その手がカインを抱き上げるとき、いつもと同じように優しい。

命を奪った手と、命を育てる手が、同じ手だった。

この手は、昔から、奪うことも、育てることも、してきた。


カインは、まだ、それを理解できない。

でも、今日見たことは、白い花を潰した指の感触と同じように、小さな体のどこかに残った。


跳ねるもの。動かなくなったもの。祈りの言葉。赤い水。ハヤトの心音。

全部が、まだ、名前のない記憶として、沈んでいった。


ハヤトが、兎の内臓を選り分けていった。


心臓、肝臓、肺。

ハヤトが人の食事には回さない部位だが、犬にとっては、最上の御馳走だ。

沢の水で軽く洗い、ユキの前に置いた。


ユキの鼻が、ひくひくと震えた。


ずっと待っていた。

血の匂いが森に満ちてから、ずっと。

前足が震えていた。唾液が、口の端から垂れていた。

それでも、動かなかった。

ハヤトが何も言わなかったから。


ハヤトが、うなずいた。


ユキが、飛びついた。

小さな顎で内臓を噛み、引き裂き、夢中で食べた。

尻尾が振れている。目が爛々と輝いている。

母犬の乳と、ここ数日の乳と干し肉しか知らなかった口が、初めて、獲物の味を知った。


猟犬の血が、目覚める瞬間だった。


食べ終わると、ユキは、口の周りを血だらけにしたまま、ハヤトの足もとに来て、腹を見せた。

満足。嬉しい。もっと褒めて。


それから、ハヤトは、肉の一部を小さく切り分けた。


沢の水を木の器に汲み、火を起こして、肉を茹でた。

水場の近くに組んだ、簡易のかまど。

こういう場所を、山のなかにいくつか持っているのは、長く一人で暮らしてきた者ならではだった。


茹で上がった肉を細かくほぐし、さらに指で潰す。

繊維を崩して、柔らかく、小さく。

ユキが食べやすいように。


「今日は助かった」


ハヤトが、ユキの前に、茹でた肉を置いた。


「よく頑張ったな」


ユキは、内臓のときほど、がっつかなかった。

満腹に近いのもあるだろう。

でも、それだけではない。

ハヤトの声が優しかった。手が頭を撫でていた。

さっき森のなかで、兎を咥えて持ってきたときと、同じ声。同じ手。


ユキは、ゆっくりと肉を食べた。

ひと口ずつ、味わうように。

食べながら、ときおりハヤトを見上げて、尻尾を揺らした。


カインは、木の根もとに座ったまま、その光景を見ていた。


ユキが食べている。

さっきまで跳ねていたもの。赤い水が流れたもの。

それが、今、ユキの口のなかにある。

ユキが嬉しそうに食べている。

ハヤトが、優しい声で話しかけている。


カインの鼻が、茹でた肉の匂いを捉えた。


初めて嗅ぐ匂いだった。

乳とは違う。薬草とも違う。

森の土とも、ユキの毛の匂いとも違う。

温かくて、どこか惹きつけられる匂い。


「あー……」


カインが、手を伸ばした。

ユキの食べているもののほうへ。


まだ歯もない。

肉を食べられるはずもない。

それでも、匂いに反応して、手が動いた。

本能だった。


ユキが、顔を上げた。

カインの伸ばした手を見て、肉を一切れ咥えたまま、カインのほうへ歩いてきた。

カインの手の前に、ぽとりと肉を落とした。


分けてあげた。


自分の獲物を。自分の取り分を。カインに。


ユキは、特別なことをしたつもりはないだろう。

ただ、カインが欲しそうだったから。

群れの仲間が欲しがったら、分ける。

犬の本能の、もうひとつの形だった。


カインは、落とされた肉を握った。

温かい。柔らかい。

白い花よりはしっかりしているが、赤い端切れよりは柔らかい。

握っても、壊れない。でも、形が変わる。


口に持っていこうとした。


ハヤトの手が、それを、そっと止めた。


「まだ早い。お前には、キャロルの乳だ」


肉は、ハヤトが取り上げた。

けれど、カインの指に残った肉の汁の匂いを、カインは何度も嗅いだ。


「あ、あ」


もっと。もっと嗅ぎたい。この匂いを、もっと知りたい。


ユキが、カインの手を舐めた。

肉の汁を舐め取った。

カインの指も、一緒に舐めた。


カインが、笑った。

くしゃりと顔を歪めて、声を上げて。


「あはっ」


ユキも、尻尾を振った。


沢の水が流れている。

火が低く燃えている。

残りの肉が、かまどの上で湯気を立てている。

毛皮が、枝に掛かっている。

骨は、スープになる。

内臓は、ユキの腹のなか。茹でた肉も、ユキの腹のなか。

何ひとつ、無駄にしていない。


跳ねていた命が、今、生きている者たちのなかに入った。


ハヤトの祈りの言葉。感謝。必要な分だけ。すべてを使い切ること。


カインの指には、まだ、肉の汁の匂いが残っていた。

ユキが舐めても、少しだけ。

赤い端切れを握り直した指から、かすかに。


今日の記憶は、また、名前のない場所に沈んでいく。

でも、指先の記憶は残る。

白い花を潰した感触。肉の温かさ。ユキの舌の湿り気。

全部、指が覚えている。


カインの世界は、一日ごとに、少しずつ広がっていた。


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