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15/22

第15話 あき、みのりのあきがきた

ハヤトの暮らしに、三つの命が増えた。

それなのに、日々は意外なほど穏やかに過ぎて行った。


一週間が過ぎた。

また一週間が過ぎた。


ハヤトの日課は、いつの間にか、ひとつの流れとして定着していた。


夜明けに、ユキの冷たい鼻で起こされる。

戸を開けて、ユキを外へ出す。

キャロルの乳を搾り、カインとユキに飲ませる。

自分の朝食は、備蓄の麦で炊いた麦がゆに、干し肉と木の実を添えて済ませる。

それから、カインを抱き紐に入れ、ユキの革紐を手に取って、朝の散歩へ出る。


池の霧と、漂う光を眺める。

獣道で、獣の気配を感じる。

薬草の匂いを嗅いで、帰ってくる。

帰れば、キャロルが柵の中で、変わらず草を食んでいる。


散歩のあとは、カインをゆりかごに寝かせて、畑仕事。

ユキは、その横で番をした。

午後は、薬草を摘み、乾かし、煎じる。

二日に一度は、狩りに出た。


ユキは、森に入るたびに、少しずつ大胆になった。

匂いを追う距離が、伸びた。

茂みに飛びこむことも、怖がらなくなった。

ただし、「ユキ」と呼べば、必ず戻ってくる。

それだけは、崩れなかった。


カインは、日ごとに変わっていった。


首が、据わってきた。

抱き紐のなかで、自分の力で頭を持ち上げている時間が、長くなった。

頭を支える古い布は、もう、ほとんど要らない。

散歩の途中で、ハヤトが何かを指さすと、その方向へ首を回すようになった。

指の先にあるものを、正確に捉えているかは、怪しい。

けれど、ハヤトの動きに応えて、自分の体を動かそうとしている。


声も、増えた。

「あー」「うー」に、「だぁ」が加わった。

特に、ユキに向かって、「だぁ!」と叫ぶことが多い。

ユキが耳をぴくりと立てて振り返ると、カインは満足そうに笑う。

呼んだら、来た。

それが、嬉しいらしい。


ユキのほうも、「だぁ」を、自分の名前のひとつだと思いはじめている節があった。

ハヤトが「ユキ」と呼んでも、カインが「だぁ」と叫んでも、同じように振り返る。

二つの名前を持つ犬、というわけだ。


キャロルだけが、相変わらずだった。


朝に乳を搾られ、昼に草を食み、夕方にまた乳を搾られる。

ユキが柵に近づけば、蹄を鳴らす。

カインが泣いても、耳ひとつ動かさない。

この山羊にとって、家族が一匹増えようが二匹増えようが、草の味は変わらないのだ。


けれど、キャロルの乳が、この家族を繋いでいた。

カインの体を作り、ユキの体を育て、ハヤトが凝って作るチーズにもなる。

何も気にしていない顔で、いちばん多くの命を支えている。


――十月に入ると、山の空気が変わった。


朝の散歩で吐く息が、白くなりはじめた。

木々の葉が、黄色や赤に染まっていく。

池の水面に映る景色が、毎日、少しずつ色を変えた。

カインは、それを見るたびに、目を見開いた。

昨日と違う。

同じ場所なのに、違う色をしている。


「あっ、あっ」


黄色い葉が、風に舞って落ちてきたとき、カインが手を伸ばした。

指先が、葉に触れた。

乾いていて、かさかさしている。

白い花とも、赤い端切れとも違う。

握ると、ぱりっと割れた。


またひとつ、指が世界を覚えた。


ユキは、落ち葉の山に飛びこむのが日課になった。

がさがさと音を立てて潜りこみ、まだら模様の背中に葉っぱをくっつけたまま、飛び出してくる。

カインは、それを見るたびに笑った。

声を上げて、体を揺らして。


穏やかだった。


山奥の山小屋に、ハヤトとカインとユキと、キャロル。

エルフの長い時間のなかでは、一瞬にも満たない日々が、確かに積み重なっていく。


冬が近づいている。

ハヤトは、それを肌で感じていた。

薪を多めに割らなければならない。

干し肉を増やし、薬草の備えを確かめなければならない。


カインにとって、初めての冬。

ユキにとっても、初めての冬。

二つの小さな命を、山の寒さから守らなければならない。


けれど、今は、まだ秋だった。

穏やかな、黄金色の秋だった。



――秋が深まるにつれ、山は、色づくだけでなく、実りを膨らませていった。


その朝、ハヤトは、散歩の帰り道を、少しだけ変えた。

背には、空の籠を負っている。


山小屋から少し離れた、緩やかな斜面の雑木林。

ここには、ハヤトが長い年月をかけて見つけ、手入れしてきた木々が、点在している。


まず、栗だった。


大きな栗の木が、三本、斜面に並んでいる。

足もとには、イガが弾けて転がっていた。

茶色く艶やかな実が、落ち葉のあいだから、顔を覗かせている。


ハヤトは、しゃがんで一つ拾い、カインの前に差し出した。


カインの黒い瞳が、丸くなった。

丸い。茶色い。光っている。

池のきらきらとは違う、落ち着いた光。

手を伸ばした。


指が触れた。

つるりとしている。

赤い端切れの柔らかさとも、落ち葉のかさかさとも違う。

硬くて、滑らかで、冷たい。


「あ」


握った。

握れた。

潰れない。壊れない。


白い花とは違う。ぎゅっとしても、そのままだ。

カインは、それが気に入ったらしく、赤い端切れと栗を、両手に一つずつ握って、交互に見比べた。

柔らかいものと、硬いもの。赤いものと、茶色いもの。


ユキは、イガの匂いを嗅いで、棘に鼻先を刺された。

きゃん、と小さく鳴いて飛び退き、それきり、イガには近づかなくなった。

学習が早い。


籠いっぱいの栗を集めると、ハヤトは、別の斜面へ移った。


リンゴの木。


野生のものではない。

ハヤトがずっと昔に苗を植え、手入れを続けてきた木だ。

幹は太く、枝は広く張って、赤い実がたわわに実っていた。

山の冷えた空気が、甘みを凝縮させている。


ハヤトは、一つもいで、抱き紐越しに、カインの鼻先へ近づけた。


甘い匂い。


カインの鼻が、ひくひくと動いた。

山羊の乳とは違う。

肉の匂いとも違う。

もっと軽くて、もっと明るい匂い。


「あー!」


両手を伸ばした。

栗を落とした。赤い端切れも落とした。

この匂いのほうが、大事だった。


リンゴに、両手で触れた。

大きい。カインの両手でも、抱えきれない。

赤くて、冷たくて、硬い。けれど、栗とは違う硬さで、押すと、わずかにへこむ。


カインが、リンゴに顔を押しつけた。

口を開けた。

歯がないから、噛めない。


ハヤトは、小刀で皮に浅く傷をつけ、にじんだ果汁を、指先にほんの一滴、取った。

マルタは、芋や蕪からだと言っていた。

本格的に始めるのは、まだ先だ。

一滴だけだ。


その指先を、カインの唇に触れさせた。


目が、見開かれた。


甘い。


生まれて初めての「甘い」だった。

山羊の乳にも、ほのかな甘みはある。

けれど、リンゴの甘さは、別物だった。

鮮烈で、鋭くて、口の中に、ぱっと広がる。


「あっ! あーっ!」


興奮した声を上げた。

もっと。もっと、この味。

口を、リンゴに押しつけようとする。


「また今度な」


ハヤトは、リンゴをそっと遠ざけた。

カインは、不満そうに唸ってから、ハヤトの指を、じっと見つめた。

さっきの甘いものは、この指から来た。

そう、覚えたようだった。


ユキが、足もとで尻尾を振っている。

カインの興奮が伝染したのか、リンゴの木のまわりを、ぐるぐると走り回った。


午後、ハヤトは、さらに山の奥へ足を延ばした。


胡桃。どんぐり。山葡萄。


胡桃の木の下で、硬い殻を石で割る音が、響いた。

カインは、その音にびくりとして、それから、「あ?」と不思議そうな顔をした。

硬いものを割る。

栗よりもっと硬いものを、石で叩いて、開ける。

中から、白いものが出てくる。


山葡萄は、谷沿いの崖に、蔓を伸ばしていた。

小さな紫色の粒が、房になって垂れている。

ハヤトは、一粒を指でつぶし、にじんだ汁を、ほんの一滴、カインの唇に触れさせた。


酸っぱい。


カインの顔が、くしゃりと歪んだ。

リンゴの甘さとは、正反対の味。

眉が寄り、口が尖り、首を振る。


「うぅー……」


嫌だ、という顔だった。

人生で初めての、「嫌な味」だった。


けれど、ハヤトが一粒食べて見せると、カインは、またじっと見つめた。

ハヤトは、嫌な顔をしていない。

同じものを食べているのに。

不思議だ。


山葡萄は、たっぷり採れた。

籠に入りきらず、ユキの背中に小さな袋を括りつけてみたが、ユキは、三歩歩いて、袋を振り落とした。

荷運びは、まだ早い。


夕方、山小屋に戻った。


軒先には、栗が広げられ、リンゴが並び、胡桃が積まれ、山葡萄の房が吊るされた。

秋の実りが、小さな家を彩った。


ハヤトは、山葡萄を一房手に取り、木の器の中で、潰しはじめた。

紫色の果汁が、溢れ出す。

種を除き、果汁を濾す。

これを甕に入れて寝かせれば、冬のころには、ワインになる。


酵母は、果皮についている、天然のものだけ。

材料は、山葡萄だけ。

村の店に並ぶ酒とは、比べものにならないほど素朴だが、ハヤトは、長い年月、同じことを繰り返してきた。

それでもまだ、年ごとに、味が揺れる。

職人なら、許さないだろう。

けれど、それがいい。


酒も、チーズも、炭焼きも。

隠居とは、こういうことに凝るものだ。

そんな偏見から始めたことだった。

職人の腕には、遠く及ばない。

けれど、こだわりだけは、素人なりに、年季が入っている。


隠居が、自家製の酒を仕込む。

いかにも、ご隠居らしい。


カインは、ゆりかごの中から、ハヤトが葡萄を潰す手を見ていた。

紫色の汁が、手を染めていく。

さっき、唇で味わった、あの酸っぱいもの。

ハヤトが、それを潰している。


ユキは、リンゴの皮を一切れもらって、がりがりと齧っていた。


キャロルは、柵の中で、落ちた栗のイガを器用に避けながら、草を食んでいた。


秋の夕暮れが、山を赤く染めている。

軒先の実りが、夕日に照らされて、山小屋のまわりだけが、小さな宝物庫のようだった。


――別の日の事。

朝の散歩から戻ると、ハヤトは、キャロルの小屋を眺めた。


九月に急ごしらえで建てた柵と、小屋。

秋のあいだは、十分だった。

けれど、山の冬は厳しい。

雪が積もれば、屋根が潰れかねないし、隙間風だけで、山羊は体調を崩す。

乳が出なくなれば、カインの命に直結する。


ハヤトは、斧を手に取った。


まず、木材だった。

山小屋の裏手に倒してあった、乾燥済みの丸太を割り、板にしていく。

斧が木に食いこむ音が、山に響いた。


カインは、ゆりかごの中から、その音を聞いていた。


ごん。ごん。ごん。


規則的で、力強い音。

朝の散歩で聞く鳥の声とも、ユキの鳴き声とも違う。

ハヤトが、何かをしているときの音。

カインは、その音が、嫌いではなかった。

怖くもなかった。

弓の音に驚いたあの日から、ハヤトが出す大きな音には意味があることを、体のどこかで、理解しはじめていた。


ユキは、カインの横で伏せていた。

けれど、斧の音が響くたびに、耳がぴくぴくと動く。

ときおり起き上がって、ハヤトの作業を見に行く。

足もとに落ちた木屑の匂いを嗅いで、くしゃみをして、またカインのところへ戻ってくる。

忙しい犬だった。


キャロルは、柵の中で、自分の家が改築されようとしていることなど露知らず、草を食んでいた。


三日がかりの仕事だった。


壁を、二重にした。

外壁と内壁のあいだに、乾いた落ち葉と藁を詰めて、断熱とする。

屋根は、傾斜を少し急にして、雪が滑り落ちるようにし、丸太を渡して強度を上げた。

床には、厚い板を敷き、その上に、乾いた藁を重ねる。

入口には、革の幕を垂らして、風を遮りながら、キャロルが出入りできるようにした。


ハヤトが壁板を打ちつけているあいだ、カインは、ゆりかごから、ずっとその作業を見ていた。


木を切る。削る。組む。打つ。

ハヤトの手が、何かを作っている。

朝の薬草摘みとは違う動き。狩りのときとも違う。

大きなものを、少しずつ、形にしていく。


二日目の昼、カインが、ハヤトに向かって、声を上げた。


「だぁ!」


ハヤトが、板を持ち上げた瞬間だった。

腕の筋肉が動き、大きな板が、軽々と持ち上がる。

カインの目が、それを追った。

大きいものを、持ち上げる。

すごい。

何がすごいのかは分からないが、すごい。


ユキも、尻尾を振った。

カインが声を上げると、ユキも反応する。

もう、条件反射のようなものだった。


キャロルの小屋が完成すると、次は、薪だった。


ハヤトは、山の中から、乾いた立ち枯れの木を選んで伐り出し、山小屋の脇に、薪棚を増設した。

丸太を割り、積み、また割り、積む。


冬のあいだ、暖炉の火を絶やすわけにはいかない。

カインがいる。ユキがいる。

去年までの一人分とは、消費量が違う。


さらに、炭焼きも始めた。


山小屋から少し離れた場所に、ハヤトが昔作った、炭焼き窯がある。

硬い樫の木を窯に詰め、火を入れ、土で覆って、蒸し焼きにする。

火を入れてから、三日三晩。窯の煙は、ずっと見ていなければならない。

素人の窯だ。

職人の窯には及ばないが、窯の癖だけは、手が覚えている。


昼のあいだ、カインとユキは、窯の近くに敷いた毛布の上で過ごした。

煙が当たらないよう、風上に。


窯からは、白い煙が上がっている。

独特の匂い。木が焼ける匂い。

カインは、鼻をひくひくさせて、その匂いを嗅いでいた。

暖炉の匂いとは、少し違う。もっと濃くて、重い。


ユキは、煙が嫌いらしく、風下に回りこんで伏せていた。

ときおり、くしゃみをして、不満そうな目でハヤトを見る。

けれど、カインのそばは、離れない。


三日のうち、本当に目を離せないのは、二日目の夜だけだった。


ほかの夜は、窯の口と煙の出口を土で塞ぎ、山小屋へ戻って眠る。

販売するならまだしも、自分たちで使う炭なら問題ない。

なにより夜の山に、カインを長く置くわけにはいかない。


二日目の夜だけ、ハヤトは、カインを毛布にくるんで抱き、窯の番をした。

ユキは、足もとに丸くなっている。

窯のそばは、思いのほか、暖かかった。


炭焼きの赤い光が、カインの黒い瞳に映った。

揺れる光。

暖炉の火とは違う、地面から漏れ出す、赤い光。


カインは、それを、静かに見つめていた。

声を出さず、手も伸ばさず。

ただ、見ていた。


火には、手を伸ばさないこと。

まだ言葉では教えられていないが、暖炉のそばで、ハヤトがいつもカインの手をそっと押さえていたこと。

その繰り返しが、体に入りはじめていた。


十月も半ばを過ぎた頃。


山小屋の脇には、薪が壁のように積み上がり、炭俵がいくつも並んだ。

キャロルの小屋は、見違えるほど頑丈になり、試しにキャロルを入れてみると、風が吹いても、中は静かだった。

キャロルは、新しい藁の上に立って、いつもと同じ顔で、草を噛んでいた。

快適かどうかは、分からない。

けれど、少なくとも、不満そうではなかった。


リンゴは、地下の貯蔵庫へ。

栗は、乾かして保存し、胡桃は、殻つきのまま袋に。

干し肉の量も、増やした。

山葡萄の甕は、軒先の涼しい場所に置かれ、静かに発酵を始めている。


ハヤトが、軒先に立って、冬支度の成果を見渡したとき、足もとに、ユキが来て座った。

カインは、抱き紐のなかで、積み上げられた薪の山を見上げていた。


「あー……」


大きい。

たくさんある。

いつもの景色と違う。

けれど、ハヤトが作ったものだ。

毎日、ごんごんと音を立てて、少しずつ積み上げていったもの。


カインの記憶のなかに、ハヤトの腕が板を持ち上げる姿が、残っていた。

斧を振る姿が、残っていた。

大きなものを動かす力。何かを作る手。

それが全部、自分たちのためだということは、まだ分からない。


けれど、いつか、分かる日が来る。


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