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16/23

第16話 ふゆがくるまえに

冬が来る前に、もう一度、村へ降りておこう。

前回よりは、歩きやすくなっているといいが。


カインもユキも大きくなった。

そのぶん、支度も相応に増えてしまった。


前回のとき、カインは、まだ首が据わりきらず、頭を支える古い布が要った。

ユキは、フランツの犬舎から連れ出したばかりの仔犬で、帰りの夜道を、短い脚で必死についてきた。


ひと月ほどで、事情は変わっている。


カインは、首が据わった。

抱き紐のなかで、自分から頭を持ち上げ、周囲を見回す。

体重も増えた。

抱き紐の重さが、はっきりと分かる。

片腕で足りた重さではもうない。


ユキは、もう、仔犬とは呼びにくくなりつつあった。

体高は膝に届き、脚が伸び、走る速さが、格段に上がっている。

あの頃は、ハヤトの歩幅についてくるのが精一杯だった。

今は、先を走って、戻ってくる余裕がある。

そのぶん、好奇心も増した。

道端の虫を追い、茂みに突っこみ、呼ばれて戻る。

その繰り返しだ。


…つまり、荷物が増えた。


ハヤトは、戸口の前に荷を並べた。


売るもの。

秋の狩りで溜まった、兎と鹿の皮を、丁寧に鞣したもの。

乾かした薬草の束。

山で拾った、胡桃の袋。


カインの荷。

替えの布、着替え、山羊乳を入れた革袋、飲ませるための器。

前回より、量が増えている。

体が大きくなったぶん、布の消費も早く、乳の量も増えた。


ユキの荷。

干し肉の切れ端を包んだ布と、水を飲ませる小さな器。

前回は何も持たなかったが、今のユキは、道中で腹が減る。


ハヤトの背負い籠に、売るものと備えを詰め、前に、抱き紐でカインを抱える。

両手は、空けておきたい。

山道では、何があるか分からない。


ユキは、前回、帰り道で鹿の気配を察して、カインを守ろうとした。

あの本能は、今も健在だろう。

むしろ、強くなっている。

狩りを覚え、匂いを追うことを覚えた犬は、山道での護衛としても、心強い。


ただし、問題がひとつ。


ユキは、村の通りを歩いたことがない。


山のなかでは、自由に走り回れる。

だが、村には、人間が大勢いる。

荷車が通り、家畜がいて、犬も猫もいる。

見知らぬ匂いと音に溢れた場所で、ユキがどう反応するかは、未知数だった。



――出発の朝、空は高く澄んでいた。


十月も終わりに近い山道は、九月とは、景色が一変していた。

木々は、赤と黄金に染まり、足もとには、落ち葉が厚く積もっている。

朝露に濡れた落ち葉は滑りやすく、前回より歩きやすいとは、言い難い。

それでも、前回と違い、ハヤトには、今年は一度通った道の記憶がある。

危険な箇所。

休むのに適した場所。

水場の位置。

一度目と二度目では、同じ道でも、意味が変わる。


ユキが、先を行った。


鼻を地面に押しつけ、匂いを読みながら進む。

ときおり立ち止まって、振り返り、ハヤトとカインがついてきていることを確かめる。

それから、また進む。

狩りのときと、同じ動きだった。

先に行って安全を確かめ、群れを待ち、また進む。

教えたわけではない。

森での経験が、自然と、この行動を作った。


カインは、抱き紐のなかで、目を開けていた。


前回、この道を通ったとき、カインは、はしゃぎ、ぐずり、村を見て固まった。

初めての道は、何もかもが新しかった。

今日は、少し違う。


首を持ち上げ、左右を見回している。


赤い葉。黄色い葉。風に舞う葉。

木漏れ日。鳥の声。


全部、知っている。

毎日の散歩で、見てきたものだ。

けれど、いつもの散歩より、長い。

いつもと違う方向に、歩いている。

見たことのない木がある。聞いたことのない鳥が鳴いている。


「あ……」


小さな声が漏れた。

不安ではない。目が輝いている。

知らないものがある。知らない場所へ向かっている。

カインのなかの、まだ名前のない感情――好奇心が、首をもたげていた。


昼過ぎ、谷沿いの道に出た。


ここから先は、下り坂が続く。

前回、ハヤトが慎重に足場を選びながら降りた、急な斜面。

落ち葉が積もって、さらに滑りやすくなっている。


ユキが、斜面の手前で立ち止まった。

鼻を上げ、下の匂いを嗅いでいる。

獣の匂いか、人間の匂いか。耳が、ぴんと立っている。


数秒の沈黙のあと、ユキは、振り返って、ハヤトを見た。

尻尾は下がっていない。耳も伏せていない。

危険はない、と体が言っている。


ハヤトが一歩踏み出すと、ユキは、先に斜面を降りはじめた。

途中で、何度も振り返る。

ハヤトの足もとを、確かめるように。


カインは、抱き紐のなかで揺れていた。

いつもの散歩より、大きな揺れ。

体が傾く。

けれど、ハヤトの腕が、しっかりと支えている。

怖くない。

ハヤトの胸の鼓動が聞こえる。いつもと同じ音。


谷を越え、沢を渡り、道が緩やかになったころ、遠くに煙が見えた。

村の煙だった。


ユキの足が、止まった。

鼻が、ひくひくと動いている。


知らない匂い。

たくさんの、知らない匂い。

人間の匂い。

家畜の匂い。

煙の匂い。

食べ物の匂い。

全部混ざって、風に乗って流れてくる。


尻尾が下がった。

耳が横に倒れた。

ユキの体が、わずかに後ずさった。


初めての反応だった。

山のなかでは何にも怯まなかったユキが、村の匂いに戸惑っている。


ハヤトは、意識して、声をかけた。


「ユキ、大丈夫だ」


それから、胸のカインにも。


「カイン、ほら。あれが煙突の煙だ」


安心させるように、ゆっくりと。

二つの小さな命に、声が降り注ぐ。


ユキの耳が、声に反応して動いた。

横に倒れていた耳が、少しだけ起き上がる。

ハヤトの声。知っている声。

森で狩りをするときの声。朝の散歩で名前を呼ぶ声。

大丈夫だと、言っている。


尻尾は、まだ下がっている。

けれど、後ずさりは止まった。


村では、ユキに革紐をつけると決めていた。

フランツから譲り受けた、先代の犬の革紐を、取り出す。

ユキの首に、通した。


ユキは、革紐の匂いを嗅いで、力を抜いた。

朝の散歩で、毎日つけている紐だ。

知っている匂い。

家の匂い。

ハヤトの手の匂いが染みこんだ革。


それでも、村の入口に近づくにつれて、ユキの歩みは慎重になった。

いつもの森の足取りではない。

一歩ごとに立ち止まり、匂いを確かめ、ハヤトの横にぴたりと寄り添う。

革紐を引く必要はなかった。

ユキのほうから、ハヤトの脚に、体を押しつけていた。


カインは、抱き紐のなかで、煙突の煙を見ていた。


灰色の細い線が、空に向かって立ち昇っている。

炭焼き窯の煙とは、違う。

もっと、たくさん。あちこちから。

一本、二本、三本――数えられないけれど、たくさんの煙が、空へ伸びている。


「あ……あー……」


指が、煙を指した。

知らないものだ。森には、ないものだ。


ハヤトは、苦笑した。

つい、ひと月ほど前に来たばかりだ。

こんなに人里に降りていると、実にご隠居らしくない。


けれど、足は、止まらなかった。


――村に入った。


前回訪れたときとは、空気が違った。

秋の収穫を迎えた村は、活気に満ちている。

荷車が行き交い、通りには、干し草や穀物の袋が積まれ、女たちが、軒先で果物を仕分けしている。

子どもたちが走り回り、犬が吠え、鶏が道を横切る。


ユキが、低く唸った。


村の犬が、垣根の向こうから、ユキに向かって吠えた。

知らない犬。

知らない匂い。

敵か味方か、分からない。

ユキの毛が逆立ち、体が低くなった。


「ユキ」


ハヤトの声が、聞こえた。


ユキの体が、止まった。

唸りが消えた。

毛は、まだ逆立っていたが、歯は見せなかった。

ハヤトが、大丈夫だと言っている。

ハヤトの脚の横にいる。ここは、安全だ。


革紐越しに、ハヤトの手の温度が伝わってくる。

ユキは、その温度にしがみつくように、ハヤトの影から、一歩も出なかった。


カインは――村の音に、圧倒されていた。


山では、聞いたことのない音の洪水。

人の声。複数の人の声。


ハヤト以外の声が、あちこちから飛んでくる。

低い声。高い声。笑い声。怒鳴り声。

荷車の車輪が、土の道を軋ませる音。

金槌が、鉄を叩く音。


カインの目が、大きく見開かれていた。

頭が、せわしなく動く。

左を見て、右を見て、上を見て。

情報が多すぎる。追いつかない。


でも、泣かなかった。


ハヤトの胸の鼓動が、聞こえている。

いつもと同じリズム。

いつもと同じ温度。

周りがどんなに騒がしくても、ここだけは、変わらない。


通りを歩くハヤトに、村人たちの視線が集まった。


エルフ。先月も来た、耳の尖った青年。

前回は赤ん坊を一人抱えていたが、今度は、犬まで連れている。

しかも、赤ん坊が、ひと回り大きくなっている。


「おや、また来たのかい」


通りすがりの老婆が、声をかけた。

好奇心と警戒が、半々の目。

カインを覗きこみ、ユキを見て、ハヤトを見上げた。


「犬まで連れて……まるで家族だねえ」


ユキが、老婆の匂いを嗅いで、ハヤトの脚の後ろに隠れた。

尻尾が、脚のあいだに巻きこまれている。

森では、鹿の気配にも怯まなかった犬が、小さな老婆に怯えている。


カインは、老婆の顔を、じっと見つめた。


知らない顔。ハヤトではない顔。

皺がある。目が小さい。声が違う。匂いが違う。

でも――敵ではない。

ハヤトが、穏やかにしている。

だから、この人は、大丈夫だ。


カインは、老婆を見つめたまま、小さく首を傾げた。


「だぁ?」


老婆が、目を丸くして、それから笑った。


「まあ、可愛いこと」


ユキだけが、まだ、震えていた。


ハヤトは、まず、雑貨屋へ向かった。

ゴルドの店は、前回と変わらず、雑然としていた。

棚には、あらゆるものが詰めこまれ、天井から、鍋や籠がぶら下がり、床には、樽や袋が転がっている。


扉を開けると、カウンターの奥から、ゴルドが顔を上げた。


「おう、ハヤト。また来たのか。まだひと月も経っとらんぞ」


ゴルドの目が、カインに移り、それから、ユキに移った。


「……増えてるな。あのまだらか。ずいぶん大きくなったじゃねえか」


ユキは、店の匂いに、鼻をひくひくさせていた。

革、鉄、油、香辛料、乾いた肉、木材――森にはない匂いの嵐。

圧倒されて、ハヤトの足もとに、ぺたりと伏せた。

動けない。

ここは、情報が多すぎる。


カインは、店のなかを見回していた。

天井からぶら下がる鍋が、光を反射して、きらきらしている。

棚に並んだ、色とりどりの瓶。赤、青、緑、琥珀色。

見たことのない色がある。

森の色とも、山の色とも違う。


「あっ、あっ」


手を伸ばした。きらきらに向かって。

けれど、抱き紐のなかからでは、届かない。


ゴルドが、低く笑った。


「前より元気そうだな、その坊主。よく育ってる」


そう言いながら、カウンターに肘をついた。

商売人の目が、ハヤトの背負い籠を、値踏みしている。


「で、今日は何が要る」


ハヤトは、少しだけ考えて、口を開いた。


「普段なら、森にあるもので、足りる。

だが、ひとり増えて、一匹増えて、山羊も一頭、飼っている。

冬に何が要るのか、俺では気づかないことがあるはずだ。教えてくれないか」


ゴルドは、顎髭を撫でながら、カインとユキを交互に見た。


商売人の目が、光っている。

困っている客は、上客だ。

しかも、このエルフは、金の代わりに、上質な毛皮と薬草を持ってくる。

悪い取引ではない。


「そうさな……」


ゴルドは、カウンターから身を乗り出して、カインを覗きこんだ。


「まず、坊主のことだが――ハヤト、この子に、冬着はあるのか」


沈黙が、答えだった。


「だろうな」


ゴルドが、指を折りはじめた。


「いいか、赤ん坊ってのは、自分で体温を調節できねえ。

大人なら、毛皮を一枚羽織ればいいが、赤子は違う。

汗をかけば冷える。冷えれば、風邪を引く。

風邪を引けば――山の上じゃ、それだけで死ぬぞ」


ゴルドの声に、脅しの色はなかった。

事実を述べているだけだ。


「肌着は、綿がいい。汗を吸う。その上に、毛織物。

さらに外へ出すときは、毛皮で包む。三枚重ねだ。

それと、帽子、手袋、足を包む靴下。

赤子は、頭と手足から、熱が逃げる」


指が、五本折れた。


「次に、乳だ。山羊を飼ってるなら、冬は乳の出が落ちる。

草が減るからな。干し草の備えはあるか。

山羊の餌が足りなくなったら、乳が止まる。

乳が止まったら、坊主は飢える」


ハヤトは、はっとした。

冬支度に、それだけは、抜けていた。


「……草原で刈って、干す。雪が来るまでに、間に合わせる」


「そうしろ。それが、いちばんだ」


ゴルドは、頷いた。


「ただし、冬の山羊には、干し草に、麦か豆を少し足してやれ。

乳が落ちにくくなる。麦なら、今、うちにある」


麦。

ハヤトの頭に、毎朝の麦がゆが浮かんだ。

備蓄は、あるが、冬を越すには、心許ない。

それに、カインが、いずれ食べるようになる。


「麦を、袋でひとつ、もらおう」


「おう」


ゴルドは、思い出したように、手を打った。


「そういや、芋が入ったぞ。来月、と言っただろう。食うほうの芋だ、種芋じゃねえが」


「頼む。貯蔵庫に置いておく。いずれ、必要になる」


マルタの言葉が、頭にあった。

離乳食は、芋や蕪を、柔らかく煮て潰したものから。

まだ先の話だ。

けれど、先の話は、いつも、思ったより早く来る。


カインが、ゴルドの声に反応して、顔を向けた。

低い声。ハヤトの声より太くて、ざらついている。

知らない声……いや、知っている。

この声は、前にも聞いた。

頬を叩いた、太い指の人だ。

大丈夫な人だ。


「だぁ」


「おう、お前のことだよ」


ゴルドが、カインに向かって、顎をしゃくった。

それから、ハヤトに視線を戻す。


「あとは、蜜蝋の蝋燭だな。冬は、日が短い。

獣脂の蝋燭でもいいが、赤子がいるなら、煤の少ない蜜蝋のほうがいい。

煙で咳きこませたくないだろう」


ゴルドは、棚の奥から、蜜蝋の塊を取り出して、カウンターに置いた。

琥珀色の塊が、鈍く光っている。


「それと――」


ゴルドの目が、ユキに向いた。

ハヤトの足もとで、伏せたまま動けないでいる犬。


「犬のほうだが、この大きさだと、もう、仔犬の餌じゃ足りんだろう。

骨粉を混ぜてやれ。歯と骨が育つ時期だ」


ゴルドは、棚から、布の袋を引っ張り出した。

なかに、白い粉が入っている。


「牛の骨を砕いて、乾かしたもんだ。餌に、少し混ぜるだけでいい」


「冬を越すまでは屋内で、と、フランツに言われた」


「フランツの言うとおりだ。ただし、床から冷えるぞ。

寝床の下に、板と藁を厚く敷いてやれ」


それから、ゴルドは、少し声を落とした。


「……あとは、マルタのところに寄れ。赤子の冬着は、あの女のほうが詳しい。

俺が見繕うより、採寸してもらって、仕立てたほうがいい。

赤子は、毎月、体の大きさが変わる。今合う服が、来月には着られん」


ゴルドは、腕を組んだ。


「で、持ってきたもんを見せてくれ。毛皮と薬草だろう。

秋の鹿皮なら、高く取るぞ。冬前は、需要がある」


カインは、ゴルドとハヤトのやり取りを、抱き紐のなかから、見上げていた。


ハヤトが、誰かと話している。

山のなかでは、ハヤトの声しかなかった。

ユキに話しかける声。

カインに話しかける声。

キャロルに話しかける声。

全部、ハヤトの声だった。


でも、今、ハヤトの声に、別の声が返ってくる。

低い声が、行き来している。

ハヤトが何か言うと、ゴルドが何か返す。

ゴルドが何か言うと、ハヤトが何か返す。


前にも、見た。

けれど、今日は、少しだけ違う。

意味は、分からない。

でも、何かが、交換されていることは、感じ取っていた。

声が、何かを、運んでいる。


ユキは、床に伏せたまま、鼻先だけを動かしていた。

骨粉の袋の匂いを、嗅いでいる。

骨の匂い。知っている匂い。狩りのあとの匂い。

少しだけ、尻尾が動いた。

ここにも、知っているものが、ある。


ハヤトは、続けた。


「それから、ペンとインクと紙が、欲しい。簡単な書物もあれば、頼む」


ゴルドの眉が、上がった。


「ペンとインクと紙?」


商売人の顔が、一瞬消えて、純粋な驚きが浮かんだ。

毛皮や薬草や干し肉を求める客は多いが、山奥に住むエルフが、筆記用具を求めるのは、想定外だったらしい。


冬は、長い。

手慰みに、何か書くこともあるだろう。


「……まあ、あるにはあるが」


ゴルドは、棚の奥を探りはじめた。

この村は、農村だ。

読み書きができる者は、教会の神父と、ゴルド自身くらいのもの。

筆記用具の需要は低い。

だからこそ、在庫は少ないが、埃を被ったまま残っている。


カウンターの上に、ひとつずつ並べられた。


鵞鳥の羽ペン。羽を削って作った、ごく一般的なもの。

穂先は、まだ使える。二本ある。


インク壺。鉄の錆と没食子から作った、黒いインク。

小さな陶器の壺に入っている。蓋をしっかり閉めれば、長持ちする。


紙。羊皮紙ではなく、木の繊維から漉いた、安価な紙。

質は粗いが、文字を書くには十分だ。束にして、三十枚ほど。


「書き物なんぞして、何するんだ。日記でもつけるのか」


ゴルドが、軽口を叩きながら、紙の束を指で弾いた。


「……そんなところだ」


それから、ハヤトが書物も欲しいと重ねると、ゴルドは、本格的に、首を傾げた。


「書物、ねえ……」


棚の下段を覗きこみ、埃だらけの木箱を引っ張り出した。

なかには、数冊の本が、無造作に放りこまれている。


「うちは、本屋じゃねえからな。あるのは、これくらいだ」


一冊ずつ取り出して、カウンターに並べた。


薬草図鑑。木版刷りの挿絵入り。草花の絵と、その名前、効能が、簡潔に記されている。

ページの端が黄ばんでいるが、内容は読める。


農事暦。季節ごとの作物の植え時と収穫時を記した、実用書。

この土地の農民向けで、文字は大きく、内容は平易。


子ども向けの物語集。表紙に、色褪せた挿絵が描かれている。動物や冒険者が登場する短い話が、いくつか収められた、読み聞かせのための本。文字は大きく、挿絵が多い。


「街の商人が置いていった、売れ残りだ。ずっと場所を取ってやがった」


ゴルドが、物語集を手に取って、ぱらぱらとめくった。


「……ああ、これか。『勇者と竜の話』とか、『森のうさぎと月の姫』とか。

うちのが小さい頃に、読んでたな。もう大きくなっちまったが」


本を閉じて、ハヤトを見た。

それから、カインを見た。


抱き紐のなかの赤子。黒い髪、黒い目。

ゴルドの顔を、じっと見上げている。


ゴルドの目が、細くなった。


「……なるほどな」


何かを理解した顔だった。

ペンもインクも紙も、書物も、山奥で独り暮らしをするエルフが、自分のために欲しがるものとは、思えない。

この赤子のためだ。

まだ、文字どころか言葉も話せない赤子のために、今から、準備をしている。


「坊主に、読み書きを教えるのか」


独り言のように呟いて、ゴルドは、物語集を、カインの前に差し出した。


「……俺が使うものだ」


「そうかい」


ゴルドは、それ以上、何も言わなかった。

ただ、口の端が、わずかに上がっていた。


カインの目が、本に釘づけになった。


表紙の挿絵。

赤と青と緑で描かれた、竜と、剣を持った人間の絵。

色。形。見たことのないもの。

店の棚の瓶とも違う。

紙の上に、色がある。紙の上に、何かがいる。


手が、伸びた。


小さな指が、表紙に触れた。

つるりとした、紙の感触。

押しても、形は変わらない。

でも、リンゴのように、丸くない。平たい。薄い。


「あっ」


指が、竜の絵をなぞった。

赤い色の上を、白い指先が滑る。

何かいる。ここに、何かいる。

動かないけど、何かが、いる。


ゴルドが、低く笑った。


「気に入ったみたいだな」


ユキが、床から、首を持ち上げた。

カインの声に、反応したのだ。

カインが、何かに夢中になっている。

尻尾が、少しだけ揺れた。


ゴルドは、腕を組んで、並べた品物を顎で示した。


「羽ペン二本、インク壺ひとつ、紙三十枚、薬草図鑑、農事暦、物語集。

それに、蜜蝋、骨粉、麦、芋。これを全部、鹿皮と薬草から差し引く。

足りないどころか、釣りが出る。釣りは、硬貨で渡そう。

書き物と本は、売れ残りだ、おまけで少し引いてやる」


悪くない条件だった。

筆記用具と本は、村では需要が低く、ゴルドにとっては、在庫を捌けるだけでも、利がある。


カインは、まだ、表紙の竜を、指でなぞっていた。


赤い色。

この色は、知っている。赤い端切れと、同じ色。

でも、赤い端切れには、形がなかった。

ここにある赤は、形をしている。

翼がある。口がある。目がある。


目。


丸い点が、二つ。


カインは、その二つの点を、じっと見つめた。

ハヤトの目を見上げるときと、同じ角度で。


「だぁ……」


呼びかけるような声だった。

絵のなかの竜に向かって。

でも、竜は、答えない。動かない。声を返さない。


カインの指が、竜の目から離れて、ハヤトの胸に戻った。

ハヤトの服を、握った。


こっちは、温かい。こっちは、答えてくれる。


紙の上のものと、本当にいるものの違い。

まだ、言葉にはできない。

でも、指が覚えた。

絵は、冷たい。ハヤトは、温かい。


ハヤトは、その小さな拳を、そっと包んだ。


「ゴルド」


「ん」


「次に来るのは、春先になる。そのときも、書くものと、読むものを、頼みたい」


ゴルドは、鹿皮を受け取りながら、頷いた。


「春先だな。覚えておく。それまでに、街の行商人に声をかけて、もう少しまともな本を仕入れておいてやる。字の練習帳みたいなもんも、あるだろう」


それから、カインに向かって、太い指を一本立てた。


「おい、坊主。次に来るときは、もうちょっと喋れるようになってろよ」


カインは、「だぁ」と返した。

ゴルドが、鼻で笑った。


店を出ると、午後の光が、通りに長く伸びていた。

ユキが、革紐の先で、ようやく、ほっとしたように尻尾を振った。


次は、マルタの店だ。

冬着を、頼まなければならない。


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