第17話 やさしいマルタ
マルタの仕立て屋は、前回と変わらず、布の匂いに満ちていた。
扉を開けた瞬間、ユキの鼻が、忙しく動いた。
染料、羊毛、綿、麻、蜜蝋――ゴルドの店とは違う、匂いの層。
けれど、不思議と、ユキはここでは震えなかった。
鉄や油の、鋭い匂いがない。
布と糸と木の匂いは、どこか、山小屋に似ていた。
ユキは、ハヤトの足もとで伏せた。
今度は、怯えではなく、落ち着いた伏せだった。
「まあまあ、いらっしゃい」
マルタが、奥から出てきた。
前掛けに針山を刺したまま、ハヤトの顔を見て、それからカインを見て、目を細める。
「ああ、大きくなったねえ。ひと月でこんなに」
マルタの手が、カインの頬へ伸びた。
カインは、その手を見つめた。
ハヤトの手とは、違う。
ゴルドの手とも、違う。
柔らかくて、少しざらついていて、温かい。
指先に、小さな傷がたくさんある。
針仕事の手だ。
カインは、怯えなかった。
前回ここへ来たときの記憶が、体のどこかに、残っているのかもしれない。
赤い端切れをくれた場所。あの匂い。この手。
「あ」
カインの指が、マルタの手を握った。
反射ではなかった。
自分から手を伸ばして、マルタの指を掴んだ。
マルタが、一瞬目を見張り、それから笑った。
「この子、前より人に慣れたねえ。前は、顔を見てきょとんとしてたのに」
それから、ハヤトを見上げた。
「で、今日は何の用だい。その顔は……冬支度かね」
ハヤトが事情を話すあいだ、マルタは、手を止めなかった。
カインを受け取り布の紐で、体の寸法を測りはじめた。
ハヤトの腕から移されたカインは、一瞬だけ不安そうな顔をしたが、マルタの腕のなかからハヤトの姿が見えると、落ち着いた。
「ゴルドの言ったとおりだよ。三枚重ねが基本。
でもね、赤ん坊ってのは、汗っかきなんだ。
冬だからって着せすぎると、中が蒸れて、逆に冷える」
マルタの手が、カインの腕を伸ばし、胴を測り、脚の長さを確かめた。
カインは、されるがままだった。
マルタの手は、手慣れていて、痛くない。
「肌着は綿。これは、今日渡せる。
うちにある端切れで縫える大きさだからね。
上着は毛織物で仕立てるから――三日、待ちな。
外套は、毛皮の裏地つきで作ってあげる。これは、一週間」
マルタは、カインの足を持ち上げて、足の裏を見た。
「靴下と手袋と帽子も、いるね。赤ん坊は、末端から冷える。
人間の子は、エルフと違って、寒さに弱い。
あんたが平気な温度でも、この子には堪えるよ」
カインは、マルタの顔を見上げていた。
この人は、たくさん喋る。
ハヤトとゴルドの会話より、もっと長い。
声が、途切れない。手も、止まらない。
喋りながら測って、測りながら喋る。
カインの視線が、マルタの針山に止まった。
赤、青、黄色の糸が刺さっている。
色とりどりの針山。
さっき、ゴルドの店で見た本の表紙みたいに、色がたくさんある。
手が、伸びた。
「あっ、駄目だよ」
マルタが、さっとカインの手を押さえた。
優しいが、素早い。
何人もの子を育てた者の、反射だった。
「針は、痛いからね」
カインの手が、止まった。
マルタの手に押さえられて、針山には届かない。
カインは、マルタの顔を見上げた。
駄目だと、言われた。
ハヤトが、暖炉の前でカインの手を押さえるときと、同じだ。
触ってはいけないものが、ある。
カインは、手を引いた。
泣かなかった。
マルタが、それを見て、感心したように頷いた。
「いい子だね。聞き分けがいい。あんた、ちゃんと育ててるんだねえ」
マルタは、採寸を終えると、カインをハヤトに返し、棚から、綿の布を取り出した。
「肌着は、二枚、今ここで縫ってやる。待ってな」
針と糸を手に取り、信じられない速さで、布を裁ちはじめた。
カインの体に合わせた、小さな型紙を目分量で取り、鋏が布を走る。
カインは、ハヤトの腕のなかから、マルタの手仕事を見つめていた。
布が、形になっていく。
平たい布が、鋏で切られ、針で縫われ、少しずつ、何かの形になっていく。
ハヤトが、木を切って小屋を作ったときと、同じだ。
材料が、手によって、別のものに変わる。
店の奥で、衣擦れの音がした。
十歳ほどの少女が、端切れを畳む手を止めて、こちらを見ている。
ヴェラだった。
カインと目が合うと、少女は、はにかんで、また、黙々と端切れを畳みはじめた。
その足もとを、小さなものが、ずるずると這ってきた。
トーマだ。
前に見たときより、這う速さが上がっている。
床を這って、一直線に、カインのほうへ向かってくる。
「トーマ、そっちじゃないよ」
マルタが、縫う手を止めずに言った。
後ろから、ミロシュが、慌てて追いかけてくる。
トーマは、ハヤトの足もとで止まった。
ユキの尻尾を、じっと見つめている。
ユキは、片目を開けて、ちらりと見て、また閉じた。
それから、抱き紐のなかのカインを見上げた。
カインが、見下ろした。
二人の目が、合った。
カインより、少しだけ大きい子。
同じくらいの背丈で、ハヤトの顔より、ずっと近い。
知っている。前に、見た。
「だぁ?」
トーマの目が、カインの手に移った。
赤い端切れ。
手を伸ばした。
カインは、赤い端切れを、ぎゅっと握りしめた。
離さない。
トーマが、端切れの端を引っ張った。
カインが、引き返した。
引っ張り合いは、数秒続いた。
「取っちゃだめだよ、トーマ」
ミロシュが、トーマの手を取って、並んで座らせた。
トーマは、不満そうに唸ってから、ふいに、笑った。
カインも、つられて、笑った。
「取られないねえ、この子は」
マルタが、縫いながら笑った。
ハヤトは、何も言わなかった。
けれど、胸の奥が、少しだけ、温かかった。
「あとね」
マルタは、縫いながら、口を止めなかった。
「冬場は乾燥するから、この子の肌が荒れるかもしれない。
蜜蝋と油脂を混ぜた軟膏を、塗ってやるといい。
作り方は――あんた、エルフだろ。薬草には、詳しいんじゃないかい」
針が布を刺す音が、静かな店に響いた。
「それと、冬は、赤ん坊が退屈する。
外に出られない日が、続くからね。積み木みたいな玩具があるといい。
木を削れるなら、自分で作りな。
角を丸くして、口に入れても安全な大きさにね」
マルタの目が、ハヤトを見た。
「あんた、不器用じゃないだろう。弓を引けるなら、小刀で木くらい、削れるさ」
ユキが、床で寝息を立てはじめていた。
マルタの店の穏やかな空気と、布の匂いと、針が布を刺す規則的な音が、ユキの警戒を、完全に解いたらしい。
丸くなって、鼻先を、尻尾に埋めている。
カインも、瞼が重くなっていた。
ハヤトの胸に頭を預けて、マルタの針仕事を見つめていた目が、だんだん閉じていく。
赤い端切れを、片手に握ったまま。
マルタが、最後の糸を噛み切った。
「はい、できたよ。肌着二枚」
小さな白い肌着を広げて見せた。
柔らかい綿。丁寧な縫い目。
赤ん坊の体に、ぴったりの大きさ。
「上着と外套は、取りに来な。急ぐなら、三日後に、上着だけ先に渡せる」
マルタは、ハヤトを真っ直ぐに見た。
「この子を、ちゃんと冬越しさせるんだよ」
その声には、商売人の計算はなかった。
子どもを育てた者だけが持つ、静かな重みがあった。
ハヤトは、少し考えた。
三日後に、上着だけ。
それは、無理だ。
片道だけで、半日かかる。
一度に、まとめて受け取るほうが、いい。
それなら、一週間後に、もう一度降りてくることになる。
予想外だった。
隠居が、こうも頻繁に人里へ降りることになるとは。
これでは、隠居とは言えないな。
けれど、それも、仕方がなかった。
どうせ降りるなら、毛布も、何枚か頼んでおこう。
冬に粗相をしたときの替えにもなるし、思ったより寒くなっても、使える。
「来週、遅くとも、再来週までには、取りに来る。毛布も、何枚か頼みたい」
マルタは、頷いた。
「毛布ね。赤ん坊用の薄手と、大人も使える厚手と、両方用意しておくよ。
粗相用なら、替えがいくつあっても困らない。三枚は、見繕っておく」
指を折りながら、確認するように続けた。
「上着が三日後、外套と帽子と手袋と靴下が、一週間。
毛布も、それに合わせて揃えておく。来週来るなら、全部まとめて渡せるよ」
マルタは、出来上がった肌着二枚を、丁寧に畳み、油紙で包んだ。
雨に濡れても、布が湿らないようにする、職人の当たり前の気遣いだった。
「代金は――上着と外套と小物一式と、毛布三枚、全部合わせて、鹿皮二枚分くらいだね。
毛皮でも薬草でも、硬貨でもいい。次に来るときに、持ってきな」
包みをカウンターに置いて、それから、マルタの目が、カインに向いた。
ハヤトの胸で、眠っている。
赤い端切れを片手に握ったまま、小さな寝息を立てている。
黒い髪が額に散って、頬が、ほんのり赤い。
店の温もりと、ハヤトの体温と、マルタの針仕事の規則的な音に、安心しきった寝顔だった。
マルタの表情が、少し柔らかくなった。
「……寝ちまったね」
声を落とした。起こさないように。
「この子、前に来たときより、ずっと表情が豊かになってるよ。
笑うし、手を伸ばすし、駄目って言ったら引っこめる。
ひと月で、こんなに変わるもんかね」
マルタは、針山を前掛けに刺し直しながら、独り言のように言った。
「親のいない子ってのはね、最初の数か月が、全部を決めるんだよ。
誰にも触れられなかった子は、触れられることを怖がるようになる。
誰にも声をかけられなかった子は、声を出すことをやめる。でも、この子は――」
カインの握った、赤い端切れを見た。
「ちゃんと、物を掴んでる。
ちゃんと、人の顔を見てる。
ちゃんと、声を出してる。
それはね、あんたが、この子に手を掛けてるってことだよ」
マルタは、顔を引き締めて、手を前掛けで拭いた。
仕事の顔に戻る合図だった。
「来週か再来週だね。待ってるよ。――ああ、それと」
ハヤトが荷物をまとめて、店を出ようとしたとき、マルタが付け加えた。
「冬場、この子が風邪を引いたら、無理に山を降りてくるんじゃないよ。
赤ん坊の風邪は、寒い外を連れ回すほうが危ない。
胸に蒸した薬草を当てて、温かくして、乳を飲ませて、寝かせる。
それで、三日持てば治る。三日で熱が下がらなかったら――そのときは、降りておいで」
店の外に出ると、秋の風が、頬を撫でた。
ユキが目を覚まし、ぶるりと体を震わせて、立ち上がった。
マルタの店で、すっかり眠りこんでいたらしく、目が、まだ半分閉じている。
けれど、ハヤトが歩き出すと、すぐに、その足もとについて歩きはじめた。
革紐を引く必要もない。
ハヤトの左足のすぐ横、決まった位置に、自然と収まる。
村の通りには、午後の日差しが、斜めに差しこんでいた。
荷物は、増えた。
ゴルドの店で買った、蜜蝋、骨粉、麦の袋、芋、羽ペン二本、インク壺、紙三十枚、薬草図鑑、農事暦、子ども向けの物語集。
マルタの店で受け取った、綿の肌着二枚。
背負い籠が、ずしりと重い。
来週には、さらに、上着、外套、帽子、手袋、靴下、毛布三枚が加わる。
帰りの山道は、一層重くなるだろう。
カインは、眠り続けていた。
村の喧騒も、通りの声も、ユキの足音も、何も聞こえていないかのように。
ハヤトの胸の上で、赤い端切れを握って、穏やかに息をしている。
今日、カインは、多くのものに触れた。
ゴルドの低い声。
本の表紙の竜の絵。
マルタの手。針山の色。
トーマの手と、引っ張り合った赤い端切れ。
二人の人間が交わす会話。
触ってはいけないものがあるということ。
絵のなかの竜は冷たくて、ハヤトは温かいということ。
何ひとつ、言葉にはできない。
まだ、「あ」と「だぁ」しか持たない。
けれど、指が覚えている。耳が覚えている。鼻が覚えている。
体の奥の、まだ名前のない場所が、今日触れたもの全てを、静かに溜めこんでいる。
ユキが、不意に立ち止まり、村のはずれのほうを向いた。
鼻が、ひくつく。
山の匂い。土と木と水の匂い。家の匂い。
尻尾が、揺れた。
帰る場所を知っている犬の、迷いのない尻尾だった。




