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18/23

第18話 おとのあるせいかつ

山の秋は、駆け足だった。


十月の終わりには、朝の吐息が白くなった。

山小屋の窓には、毎朝、薄く結露がつく。

木々は、赤と黄色を通り越して、褐色に枯れはじめていた。

落ち葉は地面を厚く覆い、ユキが走ると、乾いた音を立てた。


朝の日課が、一つ増えた。


朝食を終えて、散歩に出る前に、ハヤトは棚から農事暦を取り出す。

その紙をめくる音で、カインの一日の続きが始まる。


「十月。収穫を終え、貯蔵を確かめる。冬に備えて、小屋の壁と屋根を改めること」


ハヤトは、それを声に出して読んだ。

目で読めば済むものを、声に出して読んでいる。

自分のためだけなら、そうはしない。

人の世の言葉を。人の世の、四季の巡りを。

この子に、聞かせておきたかった。

今は、意味は届かない。それでも、いつかきっと、役に立つ。


ゆりかごの中のカインは、その声を聞いていた。

毎朝、同じ時間に、同じ場所で、ハヤトが本を開いて、声を出す。

「収穫」も「貯蔵」も、まだ、意味のある言葉ではない。

けれど、ハヤトが毎朝、同じことをしている、ということは、分かりはじめていた。


起きる。本を開く。声を出す。それから、散歩に行く。

繰り返し。


カインの中に、一日の形が、少しずつ刻まれていった。


「そろそろ、霜が出るぞ」


本から目を上げて、ハヤトがカインに言った。

カインは、「あう」と返した。

霜が何かは、分からない。

けれど、ハヤトが自分に向かって話していることは、分かる。

声の向き。目の向き。

本を見ているときと、自分を見ているときでは、声の温度が違う。


本に向かう声は平らで、自分に向かう声は、少し高くなる。

カインは、その違いを、耳の奥で覚えた。


――山の中を歩く。


抱き紐に包まれたカインは、毎日、同じ道を歩いた。

同じ道なのに、景色は変わっていく。

前は緑だった木が、赤くなり、黄色くなり、今は茶色い。

前は草の匂いがした場所が、今は枯れ葉の匂いがする。

前は鳥が鳴いていた枝が、今は静かだ。


同じ場所が、変わっていく。

カインにとって、それは不思議なことだった。

ハヤトは変わらない。ユキも変わらない。

けれど、森は変わる。毎日少しずつ、色が違い、匂いが違い、音が違う。


ユキは、以前より、遠くまで走るようになっていた。

仔犬の脚が伸び、体が締まって、走る速さが増している。

それでも、ハヤトの口笛一つで、必ず戻ってくる。

森の中では、革紐は、もう要らなかった。


遠くへ行っても、ユキは、ときどき振り返る。

ハヤトとカインの位置を確かめてから、また前を向く。

見張りの本能が、日ごとに、形を成していた。



――狩りの日は、散歩とは、空気が違った。


ハヤトが弓を取る。矢筒を背負う。

そのときの足音は、散歩のときより、ずっと静かだった。

カインは、その違いを、体で感じていた。

ハヤトの呼吸が浅くなる。歩幅が変わる。

ユキも変わる。鼻が地面に近づき、尻尾が水平になり、遊びの動きが消える。


ハヤトは、狩りの最中も、声を出した。


「風が、山の上から下りてくる。獲物に匂いが届かない側へ回るぞ」


「あの茂みに、兎がいる。ユキが追い出す。俺が射る」


「今のは外れた。矢は貴重だ。必ず拾う」


カインに向けているのか、独り言なのか、ユキに言っているのか。

おそらく、全部だった。

ハヤトは、自分がしていることを、声にして、空気に放つ。

誰に届くかは、問わない。ただ、声にする。


カインの耳は、それを、全部拾っていた。


風。匂い。兎。射る。矢。

意味は、分からない。

けれど、音として、ハヤトの動きと結びついた音として、体のどこかに積もっていく。


弓を引くときに言う音。

歩く向きを変えるときに言う音。

ユキを呼ぶときの音。

音と動きが、対になって、溜まっていく。


この二週間で、ハヤトは、鹿を二頭、兎を七羽、山鳥を四羽、仕留めた。


鹿は、風下から距離を詰め、近くから一矢で仕留めた。

カインを胸に抱いたままでは、弓の引きが浅くなる。

だから、引きの浅さを補えるところまで、身を低くして、近づく。

待つ時間は、長かった。

その間、カインは、一度も声を上げなかった。

ハヤトの心音が静かだと、カインも静かになる。


鹿皮には、塩を擦り込んで、乾かした。

二枚とも、マルタへの代金になる。

肉は燻製にして、梁から吊るした。

兎と山鳥も同じように処理して、山小屋の天井には、干し肉が並んだ。


肉を切り、塩を擦り込み、燻製台に並べる。

その作業も、カインは、ゆりかごから見ていた。


「これは、鹿の腿肉だ。塩を擦り込んで、水気を抜く。

それから、煙で燻す。そうすれば、冬のあいだも腐らない」


カインは、手を伸ばした。

届かない。燻製台は、ゆりかごから遠い。

けれど、匂いは届く。

木の煙。肉の焼ける匂い。ハヤトの手に染みた塩の匂い。


「あうー」


声が出た。

何かを求める声だった。

触りたいのか、匂いを確かめたいのか、ハヤトに近づきたいのか、本人にも分からない。

ただ、あそこで、何かが起きている。

ハヤトが、何かをしている。

自分は、ここにいる。

その距離が、少しだけ、寂しい。


ハヤトは、手を止めて、振り返った。


「待ってろ。もう少しで終わる」


声の温度が、自分に向いた。

カインは、それで、満たされた。



――十一月の初め、ハヤトは、三度目の村行きをした。


今度は、マルタの店だけだ。

鹿皮二枚を、背負い袋に入れて、カインとユキを連れて、山を降りた。


マルタの仕立て屋で、仕上がった冬着一式と毛布を受け取る。

上着は、柔らかい毛織物で、カインの体に、ぴったりだった。

外套は、毛皮の裏地がついた小さなもので、頭を覆う頭巾まで、ついている。

帽子は、耳まで覆える、深い形。

手袋は、紐で繋がっていて、片方を落としても、なくならない仕組みだった。

靴下は、厚手の毛糸編み。

毛布は、薄手が二枚、厚手が一枚。


マルタは、鹿皮の裏を指で撫でて、頷いた。

それから、カインの頬を、人差し指でつついた。


「次に来るのは、春かい? その頃には、この服も小さくなってるよ。

春物も用意しておくから、この子の大きさを教えにおいで」


「ああ。そのときは、頼む」


ハヤトは、そう答えた。

冬着一式を背負い袋に詰めて、早々に、帰り道についた。

来た日のうちに、山小屋へ戻る。

今度は、ゴルドの店には、寄らなかった。



十一月に入って、朝、ハヤトが農事暦を開く。


「十一月。霜月。根菜の収穫を終え、畑に藁を敷いて土を守る。

家畜の小屋に、防風の板を足すこと」


もう、済んでいることばかりだった。

ハヤトは、声に出して読みながら、心の中で、一つずつ、確かめていく。

小屋の壁は、二重にした。

薪小屋も建てた。

藁は、これから敷く。


カインが、ゆりかごの中から、声を出す。

ユキが、戸の前で、尻尾を振る。

散歩に出る。


冬の近い山の空気は、冷たかった。

カインの頬が、赤く染まる。

新しい帽子が耳を覆い、新しい外套が、体を包んでいる。

マルタの縫い目は丁寧で、風を通さない。


ハヤトが何かを口にするたびに、カインの黒い目が、その口もとを追った。


「今日は、風が強い。谷のほうには行かない。尾根沿いを歩くぞ」


「あー」


カインの声が、白い息と一緒に、空気に溶けた。

初めての冬の呼吸だった。

自分の口から、白いものが出る。

カインは、不思議そうに、口を開け閉めした。

開けると、白い。

閉じると、消える。

もう一度開ける。白い。


ユキは、先を歩いていた。

枯れ葉を踏む音が、夏とは違う、乾いた音を立てる。



――夜が、早く来るようになった。


日が傾いたと思えば、稜線がたちまち、夕日を呑み込む。

やがて、闇が、森を覆う。

暖炉の火が、一日の中心になる季節だった。


ハヤトは、夜、よく話をした。


カインをゆりかごに寝かせ、隣に座って、暖炉の炎を見ながら。

ユキが、ハヤトの足もとで丸くなり、キャロルの小屋から、ときおり、「めぇ」と声がする。

風が窓を叩く音。

薪が爆ぜる音。

その中に、ハヤトの声が、流れていた。


隠居の夜は、昔話と、相場が決まっている。

そう思ってみる。

けれど、聞かせる相手がいる夜のほうが、昔話は、よく出てくるものだった。


エルフに伝わる話を、ハヤトは、たくさん知っていた。

長い年月を生きた者たちは、長い物語を持っている。


「最初のエルフは、森の奥で目を覚ました、という話がある。

目を開けて、最初に見たのが、月の光だった。

だから、エルフは月が好きなのだと、伝わっている」


カインは、ゆりかごの中から、ハヤトの顔を見上げていた。

暖炉の光が、ハヤトの横顔を照らしている。

長い耳の輪郭が、影になって、壁に映っている。

声は、途切れなく流れていた。

穏やかで、低くて、温かい。


「最初のエルフは、森の木に、一本ずつ、名前を付けたそうだ。

何千本も。何万本も。

名前を付けると、木が嬉しそうに枝を揺らした、と言う」


カインの目が、ゆっくりと、瞬きをした。

話の意味は、分からない。

けれど、ハヤトの声が、続いている。

声が続いているかぎり、世界は、安全だった。


「う……」


小さな声が出た。

眠気と、もう少し聞いていたいという気持ちのあいだで、揺れている声だった。


冬の精霊の話もした。


「山には、冬の精霊がいる、と言う。

雪が降ると現れて、森の獣を、春まで眠らせるそうだ。

熊も、蛙も、蛇も、子守唄を歌ってもらって、土の中で眠るんだと」


ユキの耳が、ぴくりと動いた。

声の抑揚が変わったのを、感じ取ったのだろう。

けれど、すぐに、また目を閉じた。


精霊を知っているハヤトにとって、これは、昔話でしかない。

本物の精霊は、子守唄を歌うほど、殊勝なものではない。

それでも、昔話の中の精霊は、嫌いではなかった。


「ただな、精霊は、起きている者には優しくない。

吹雪を連れてくる。だから、冬の山を歩くときは、見つからないように、静かに歩くものだ」


ハヤトの声が、少し低くなった。

カインの目が、見開かれた。

声の温度が、変わった。さっきより暗い。少し、怖い。


けれど、ゆりかごの縁に、ハヤトの手がある。

指が見える。いつもの指だ。


カインの手が、伸びて、ハヤトの指に触れた。

声の温度が、戻った。


「――ただな、暖炉の火がある家には、入ってこない。

温かい場所は、苦手なんだそうだ。

だから、うちは大丈夫だ」


失敗の話も、した。


「今日は、燻製台の火加減を間違えた。

兎肉を焦がした。ユキに匂いを嗅がれて、えらい顔をされた」


ユキが、「ふん」と鼻を鳴らした。

覚えているのかもしれない。


「薪を割るときにも、斧の柄が滑って、危うく足を切るところだった。

地面が凍りはじめて、踏ん張りが利かなかった。気をつけないとな」


カインは、「あうあう」と声を出した。

ハヤトの声が、楽しそうだったからだ。

失敗の話をするときのハヤトの声は、物語のときとも、農事暦のときとも、違う。

少し高くて、少し早くて、ときどき、笑いが混じる。


カインは、その声が、好きだった。

その声を聞くと、手足が動く。声を出したくなる。笑いたくなる。


「あー!」


大きな声が出た。

自分でも驚いたのか、一瞬だけ黙って、それから、もう一度。


「あーー!」


ハヤトの話に、加わろうとしている。

声の行き来。

ゴルドの店で見た、あれだ。

ハヤトが声を出すと、誰かが、声を返す。

自分も、それがしたい。

声を出せば、ハヤトが自分を見る。自分を見て、また、声を返してくれる。


「はは、そうか。お前も、話したいか」


ハヤトは、笑って、カインの額に、指の背を当てた。


そして、毎晩、最後に、必ず同じ言葉があった。


カインの瞼が、落ちかけた頃。

昔話が終わり、失敗の話が終わり、暖炉の火が、熾火に変わった頃。

ハヤトの声が、いちばん柔らかくなる。


「大好きだよ」


その言葉を聞くと、カインの体から、力が抜けた。

赤い端切れを握った指が緩んで、呼吸が深くなる。

意味は、まだ分からない。

けれど、この音の並びのあとには、必ず眠りが来ることを、体が知っていた。


安全の音。一日の終わりの音。

温かくて、近くて、自分だけに向けられた音。


カインは、毎晩、それを聞いて眠った。


ハヤトの声が止んだあとも、暖炉の火は燃えている。

ユキの寝息が、床から聞こえる。

キャロルが小屋で、干し草を咀嚼する、かすかな音。

風が、窓を揺らす音。


山小屋の中は、声に満ちていた。

昼は、ハヤトが農事暦を読む声。

散歩のあいだは、風や木や道を語る声。

狩りの最中は、風向きと獲物を告げる声。

夜は、エルフの昔話と、失敗の話と、最後の言葉。


人のいない山奥で、カインは、声の中で育っていた。


言葉の意味は、まだ遠い。

けれど、音の質感は、毎日、体に積もっていく。

温度、速さ、高さ、リズム。

ハヤトが嬉しいときの声。真剣なときの声。疲れたときの声。

自分に向ける声。ユキに向ける声。本に向ける声。

全部、違う。全部、覚えている。


世界でいちばん多く聞いた声は、ハヤトの声だった。

世界でいちばん最初に覚えた音の並びは、毎晩、最後に聞く、あの言葉だった。


まだ、口にはできない。

けれど、いつか、きっと。


その音を、自分の声で、ハヤトに返す日が来る。


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