第19話 ねつがでたよ
それは、夜半だった。
暖炉の火は、熾火に落ちていた。
薪を足すには、まだ少し早い。一晩のうちで、いちばん冷える頃合いだった。
山小屋の中は暗く、窓の外では、風が低く唸っている。
最初に気づいたのは、ユキだった。
床で丸くなっていたユキが、ぴくりと耳を立てた。
ゆりかごの方を向く。
何かが、おかしい。
いつもの寝息ではない。小さく、速く、浅い呼吸。
それから、泣き声が来た。
「ふ……ぁ、あぁああぁっ!」
いつもの夜泣きとは、違った。
カインは、この二か月あまりのあいだに、何度も夜泣きをしている。
ハヤトは、その声を聞き分けられるようになっていた。
空腹の泣き声。
おむつの不快の泣き声。
寂しさの泣き声。
それぞれ、微妙に音が違う。
だが、今夜の声は、そのどれとも違った。
甲高く、切迫していて、途中で引きつるように途切れる。
泣いているというより、苦しんでいる声だった。
「ぁっ――ひ、ぅあぁああっ!」
ユキが立ち上がった。
ゆりかごの縁に前足をかけて、中を覗きこみ、鼻先でカインの顔を嗅ぐ。
熱い。
ユキの鼻は、人間よりずっと鋭い。
カインの肌から立ちのぼる熱が、いつもと明らかに違うことを、すぐに嗅ぎ取った。
ユキは鼻を引いて、ハヤトの寝台を振り返った。
低く、短く、一度だけ鳴いた。
「くぅん」
呼んでいる。来てくれ、と。
ハヤトは、声が届く前に、もう目を開けていた。
寝台から身を起こし、一歩で、ゆりかごの傍に立つ。
カインの顔は、赤かった。
熾火のわずかな明かりの中でも分かるほど、頬が紅潮している。
額には汗が滲み、黒い髪が貼りついていた。
小さな拳が毛布を握りしめ、体を反らせるようにして、泣いている。
目は開いているのに、ハヤトの顔を追っていなかった。
いつもなら、声がすれば、必ず目を向ける。
ハヤトの声は、この子にとって、世界でいちばん聞き慣れた音のはずだった。
なのに今、カインの黒い瞳は焦点が定まらず、天井のどこでもない場所を見つめていた。
赤い端切れは、汗で湿った手の中で、握りしめられたままだった。
「ぅ――あ、あぁ……っ」
泣き声が、弱まった。
声が枯れたのではない。力が入らないのだ。
泣く体力すら、削られている。
呼吸が荒い。小さな胸が、速く上下している。
「カイン」
ハヤトは、抱き上げた。
腕に伝わったのは、異常な熱だった。
小さな体が、燃えている。
毛布に包まれていたカインの体は、汗でぐっしょりと濡れていた。
肌着がぴったりと肌に貼りつき、黒い髪が額に張りついている。
抱き上げても、ぐったりと力がなく、いつものように手を伸ばして、ハヤトの服を掴む動作もない。
ただ、ハヤトの胸に、顔を押しつけた。
本能だった。
熱で朦朧とした意識の中でも、この匂いだけは分かる。
この温度だけは知っている。
ここに顔を埋めれば、世界は、少しだけ怖くなくなる。
「ぅ……あ……」
掠れた泣き声が、ハヤトの胸に吸いこまれた。
ハヤトの手が、カインの額に触れた。
熱い。
拾った翌日に、微熱を出したときとは、比べものにならない。
あのときは、ぐったりしている、という程度だった。
今は違う。額だけではない。頬も、耳も、首筋も、手のひらも、体のすべてが熱を発している。
ユキが、ハヤトの足もとを、落ち着きなく歩き回っていた。
カインの匂いが、変わっている。
いつもの乳と石鹸の匂いの下に、甘ったるい、嫌な匂いが混じっている。
病の匂い。
ユキは、知らないはずのその匂いを、本能的に、不吉なものとして感じ取っていた。
カインの呼吸は、速く、浅かった。
小さな胸が、痙攣するように上下している。
ときおり、呼吸の合間に、咳が混じった。
乾いた、小さな咳。
喉が腫れているのかもしれない。
鼻も詰まっている。
口で息をしようとして、うまくできず、また泣く。
泣くと、余計に息が苦しくなる。
悪循環だった。
抱きしめたハヤトの腕の中で、カインは、泣くことと息をすることのあいだで、溺れていた。
赤い端切れだけは、まだ握っている。
汗で湿った小さな拳の中で、赤い布がくしゃくしゃになっている。
これだけは、離さない。
眠るときも、いつも握っていたもの。
ハヤトの匂いと、この布の感触が、カインにとっての「安全」のすべてだった。
ユキが、もう一度だけ、短く鳴いた。
「くぅん」
どうにかしてくれ、と言っているようだった。
「分かっている」
ハヤトは、低く答えた。
ユキに言ったのか、自分に言ったのか。
脳裏に、マルタの言葉が蘇った。
『冬場、この子が風邪を引いたら、無理に山を降りてくるんじゃないよ。
赤ん坊の風邪は、寒い外を連れ回すほうが危ない。
胸に蒸した薬草を当てて、温かくして、乳を飲ませて、寝かせる。
それで、三日持てば治る。
三日で熱が下がらなかったら――そのときは、降りておいで』
三日。
ハヤトは、その数字を、胸の内で繰り返した。
――最初の夜が、いちばん長かった。
まず、暖炉に薪を足した。
火を絶やすわけにはいかない。
部屋の温度を一定に保つ。
それが、最初にすべきことだった。
次に、濡れた肌着を替えた。
汗で冷えた肌着は、熱のある体を、かえって冷やす。
乾いた布で、背中と首筋の汗を拭き、清潔な肌着を着せた。
カインは、身を捩って泣いた。力のない、掠れた泣き声だった。
額と首に、冷たく絞った布を当てた。
マルタの、あの言葉どおりだ。まず、額と首を冷やす。
けれど、熱は、びくともしなかった。
棚に並んだ乾燥薬草の中から、喉と胸に効くものを選んだ。
長い年月をかけて蓄えた知識が、今、この瞬間のためにあった。
鍋に湯を沸かし、薬草を入れ、蒸気が立ちのぼるまで待つ。
布を蒸気に当てて温め、絞り、カインの小さな胸に当てた。
カインが、身を捩った。
「ぅ――あ、ぁあ……」
温かい布が胸に触れた瞬間、泣き声が、一瞬だけ止まった。
それから、また泣いた。
けれど、さっきより、少しだけ弱い。
呼吸が、ほんの少しだけ楽になったように見えた。
気のせいかもしれない。
ハヤトには、それが分からなかった。
赤子の病を看たことがない。
エルフは、滅多に病にかからない。
人間の赤子が、どこまで耐えられるのか。
この熱が、どれほど危険なのか。
知識としては知っていても、目の前の現実と知識を結びつける経験が、ない。
だから、マルタの言葉を、一字一句、守った。
胸に蒸した薬草を当てる。
温かくする。
乳を飲ませる。
寝かせる。
キャロルの乳を温めた。
指先で温度を確かめ、カインの口もとに運んだ。
カインは、飲まなかった。
唇に乳が触れても、吸う力がない。
口を開けても、すぐに顔を背ける。
鼻が詰まっていて、口で息をしながら、乳を飲むことができない。
飲もうとすると、息ができなくなり、むせて咳きこみ、また泣く。
「ぁ――っ、げほっ、ぅあぁ……」
ユキが、低く唸った。
不安の唸りだった。
カインの泣き声が弱くなっていくのを、ユキの耳は、正確に捉えていた。
声が、小さくなっている。力が、なくなっている。
ハヤトは、何度も試みた。
少しずつ。
ほんの一滴ずつ。
カインの唇の端から乳を垂らし、舌に触れさせ、飲み込む喉の動きを待つ。
一口。
また一口。
途方もなく遅い。
だが、少しずつ、カインの喉が動いた。
飲みこんでいる。
全部ではない。
半分以上は、こぼれている。
それでも、いくらかは、体に入った。
それだけで、一時間が過ぎた。
――夜が明けても、熱は、下がらなかった。
カインは、眠りと覚醒のあいだを、行き来していた。
目を開けても、焦点が合わない。
ハヤトの顔を探しているのか、ただ光を追っているのか、分からない。
ときおり、手が空を掴む。
いつもなら、ハヤトの服を掴む手が、何もない空間を、握っては開く。
ハヤトは、カインを抱いたまま、ほとんど動かなかった。
蒸し布を替えるときだけ、一瞬、カインをゆりかごに寝かせる。
そのたびに、カインが泣いた。
力のない、掠れた泣き声。
ハヤトが戻って抱き上げると、泣き止む。
泣き止む、というより、力尽きて、黙る。
キャロルの乳搾りは、片腕にカインを抱いたままで、した。
手が足りない。
乳の量を確かめながら、ハヤトは、いつもよりずっと、手早く済ませた。
冷えた乳は、すぐに温め直した。
ユキは、外に出たがらなかった。
朝の散歩の時間になっても、戸の前に座りこんだまま、動かない。
ハヤトが戸を開けても、外を見て、カインを見て、また座る。
行かない。ここにいる。
昼を過ぎても熱は、下がらない。
カインの泣き声が、ほとんど消えた。
泣く体力が、残っていないのだ。
代わりに、小さな呻き声が、途切れ途切れに漏れる。
呼吸は、相変わらず、速く、浅い。
咳は減ったが、それが良い兆候なのか、咳をする力すら失ったのか、ハヤトには判断がつかなかった。
乳は、少しずつ飲めるようになっていた。
鼻の通りが、わずかに良くなったらしい。
吸う力は弱いが、口もとに運べば、飲みこむ。
それだけが、救いだった。
ハヤトは、薬草の蒸し布を、替え続けた。
三時間おきに新しく蒸し、カインの胸に当てる。
冷めれば替え、冷めれば替える。
単調な作業だった。
けれど、手を止めることはできなかった。
止めたら、何もできることがなくなる。
ユキは、二日目の夜、ゆりかごのすぐ横で眠った。
いつもは、ハヤトの足もとで丸くなるのに、この夜だけは、カインの傍を選んだ。
鼻先が、ゆりかごの隙間から、カインに向いている。
呼吸を確かめるように、ときおり、鼻が動いた。
――二日目の深夜。
ハヤトは、椅子に腰を下ろして、カインを胸に抱いていた。
暖炉の薪を足したばかりで、炎が、小さく揺れている。
決めなければならないことが、あった。
三日。
マルタの言ったあの言葉が、頭の中で、ずっと鳴っていた。
夜が明けても、熱が下がらなければ。
そのときは、降りる。
凍える山道を、カインを胸に抱いて、夜明けのうちに降りる。
荷なしでも、三時間かかる道だ。この子を抱いて、この寒さの中を。
そうなれば、マルタのところまで、持つか。…持たせる。
そう決めたことで、いくらか、腹が据わった。
据わった、はずだった。
けれど、腕の中のカインの呼吸は、浅く、速いままだった。
ハヤトは、カインの頭に顎を寄せた。
汗の匂いと、乳の匂いと、熱の匂い。
小さな体が、小さな呼吸のたびに、熱を吐いている。
ハヤトは、祈った。
長いあいだ、祈ったことがなかった。
精霊は、見える。聞こえる。
彼らは、いつも、そこにいた。
窓辺にも、薪の上にも、雨の音の中にも。
百年、この山で、ずっと。
けれど、いつからか、頼む相手ではなくなっていた。
命じるなら、術式を通せばいい。
話すなら、聞き流しながら付き合えばいい。
どちらでもなく、ただ隣にいる存在。
友、と呼んでいいのかもしれない。
友に、祈ることはしない。
祈らなくなって、久しかった。
それでも、今夜は。
――頼む。
――この子を、連れていかないでくれ。
声には、出さなかった。
命令ではない。会話でもない。
ただ、頼んだ。
知識も技術も経験も、使い果たしたあとに、残るものが、これだった。
暖炉の火が、揺れた。
風もないのに、と、思う。
けれど、気流かもしれなかった。
聞いているのか、いないのか。
答えがあるのか、ないのか。分からない。
分からなくてもいい。祈ることしかできない夜が、ある。
拾った朝も、問いかけに、答えはなかった。
精霊は、そういうものだ。
こちらの問いには、答えない。
目の前のものを、あるがままに受けとめるだけだ。
だから、これは、答えを求める祈りではなかった。
腕の中のカインが、赤い端切れを握っていた。
二日間、一度も離さなかった。
汗で湿り、皺だらけになった赤い布。
小さな拳の中で、くしゃくしゃに丸まっている。
意識が朦朧としていても、この手だけは、開かない。
ハヤトは、唇を、カインの黒い髪に寄せた。
熱い。
「大好きだよ」
毎晩、最後に言う言葉を、声に出した。
低く、柔らかく。
いつもと同じ声で。
カインは、何も答えなかった。
目も、開かなかった。
けれど、ほんの少しだけ、赤い端切れを握る指が、緩んだ。
ほんの少し。気のせいと言われれば、そうかもしれないほどに。
ハヤトは、その手に、自分の指を重ねた。
そのまま、夜を越えた。
――三日目の朝。
ハヤトは、目を覚ました。
いつ眠ったのかも、分からない。
カインを抱いたまま、暖炉の前の椅子で、意識を失っていたらしい。
最初に気づいたのは、静けさだった。
カインの呻き声が、止まっている。
呼吸の音が、聞こえない――
いや。
「…聞こえた。」
小さな、穏やかな、深い呼吸。
速くない。浅くない。
規則正しく、ゆっくりと、胸が上下している。
ハヤトの手が、カインの額に触れた。
ぬるい。
昨夜まで、焼けるように熱かった額が、ぬるい。
まだ、平熱ではない。
けれど、あの異常な熱は、引いていた。
三日。
ちょうど、三日だった。
カインが、目を開けた。
黒い瞳が、ゆっくりと、ハヤトの顔に焦点を結んだ。
二日間、何も見えていなかったあの目が、今、ハヤトを見ている。
「……あ」
掠れた、小さな声。
カインの手が、動いた。
赤い端切れを握ったままの手が、ハヤトの胸から持ち上がり、ハヤトの顎に触れた。
ユキが、ゆりかごの横で跳ね起きた。
カインの声を聞いたのだ。
尻尾が揺れた。
二日間、下がりっぱなしだった尻尾が、揺れた。
カインが、笑った。
力のない、頼りない、けれど確かな笑み。
目の焦点が、ハヤトの顔に合っている。
ここにいる。知っている顔が、ここにいる。声の主が、ここにいる。
ハヤトは、息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そのとき、初めて気づいた。
朝日が、窓から差しこみ、暖炉の前の二人を照らしていた。
カインは、まだハヤトの腕の中にいた。
熱は、完全には引いていない。
けれど、額に触れた手に返る温度は、もう、命を脅かすものではなくなっていた。
黒い瞳は、ぼんやりとしながらも、ハヤトの顔を追っている。
赤い端切れを握った手が、ときおり、ハヤトの胸もとを、ぽすぽすと叩いた。
力のない、けれど、意思のある動きだった。
ここにいる。まだ、ここにいる。
ハヤトは、目を閉じた。
祈りに対する感謝は、祈りとは、少し形が違った。
祈りが「どうか」と差し出すものなら、感謝は「ありがとう」と返すもの。
声に出したのか、心の中で唱えたのか、それは、ハヤト自身にしか分からない。
答えがあったとは、思っていない。
薬草と、乳と、三日間の看病。
それが、この子の体を、ここまで運んだのだろう。
けれど、感謝は、した。
聞いていてくれたのなら、それでいい。
聞いていなかったのだとしても、それでいい。
ふと、目を上げた。
ゆりかごの周りに、光の粒が、漂っていた。
ハヤトの目にだけ映る、小さな光。
拾った日から、変わらずに、カインに寄り添っている光。
いつもと同じだった。
祈りに応えた、というのではない。
ただ、この子を、気にしているだけのように見えた。
ハヤトは、改めて、考えた。
八月の終わりの、あの朝。
森の入口に、なぜあの日、あの時間、足が向いたのか。
導かれたような気がしないでもない。
だが、それだけだ。確かめようのないことだった。
ただ。
この子のそばには、精霊がいる。
それは、あの朝から、ずっと、変わらない。
いつか。
この子に、精霊のことを、教える日が来るのだろう。
そのとき、この子は、精霊を、何と呼ぶのか。
頼む相手と呼ぶのか。友と呼ぶのか。
それは、この子が、決めることだ。
ユキが、鼻先で、ハヤトの手を突いた。
はっと、意識が戻る。
カインが、また、手を伸ばしていた。
ハヤトの顎に触れようとして、届かなくて、赤い端切れを握った拳を、宙で振っている。
「あ……あー」
掠れた声。
けれど、昨夜までの苦しげな呻きではない。
ハヤトを呼んでいる声だった。
ここにいるよ、と伝えるための声。あるいは、ここにいてね、と求める声。
窓の外で、風が、木々を揺らした。
十一月の冷たい風。
ユキが、尻尾を振った。
何かを感じ取ったのか、ただ、カインの声に反応しただけなのか。
犬にしか分からないことが、ある。
カインの手が、ようやく、ハヤトの顎に届いた。
小さな指が、ハヤトの肌に触れた。
冷たくない。三日前の、燃えるような熱でもない。
ただ、温かい。生きている温度。
「……だぁ」
その一音は、この三日間で初めての、苦しみを含まない声だった。




