第20話 うごけるようになった
カインが、自分で動き回れるようになってきた頃には、世間は、霜がびっしりと張る季節になっていた。
ハヤトは、ただひたすら、カインの名を呼んだ。
熱が引いた朝も、その翌日も、その次の日も。
カインが目を開けるたびに、眠りに落ちる前に、乳を飲むときに、おむつを替えるときに。
何度も、何度も。
「カイン」
その名前を、これほど強く意識したことは、なかった。
三日間の看病のあいだ、ハヤトの口から漏れ続けたのは、その二音だった。
薬草の蒸し布を替えながら。
乳を一滴ずつ飲ませながら。
焦点の合わない黒い瞳を覗きこみながら。
祈りの言葉よりも先に、精霊への感謝よりも先に、ハヤトの唇が形作ったのは、いつも、その名前だった。
カイン。カイン。カイン。
名前を呼ぶことは、存在を繋ぎ止めることだった。
この名前がある限り、この子は、ここにいる。
この名前に応える限り、この子は生きている。
ハヤトが名付けた。
ハヤトが選んだ。
この世界で、最初にこの子を呼んだのは、自分だ。
だから、呼び続ける。何度でも。
「カイン」と呼ぶと、ゆっくりと首が動く。
黒い瞳が、ハヤトを探す。
見つけると、笑う。
まだ力のない、頼りない笑み。
けれど、確かに、名前に応えている。
自分の名前を、知っている。
それが嬉しくて、ハヤトは、また呼んだ。
――回復は、緩やかだった。
熱の峠は、三日で越えた。
けれど、平熱に戻るまでには、五日かかった。
そのあいだ、カインは、以前より多く眠り、以前より少なく泣いた。
乳を飲む量も、徐々に戻っていったが、病の前の水準に達するまでには、さらに数日を要した。
体力が落ちていた。
病の前には、もう寝返りを打てるようになっていたのに、それすら億劫そうにしている日があった。
ハヤトが支えなければ、座ることもできない。手足を動かす力が弱い。
だが、カインは、諦めなかった。
十一月も終わりに近づいた頃、カインは、再び寝返りを打った。
うつ伏せになった顔を持ち上げ、ハヤトを見て、得意そうに「あー!」と声を上げた。
ユキが駆け寄って、鼻先で頬を舐め、カインが、きゃっきゃと笑った。
十二月に入って、カインは、這いはじめた。
最初は、ずりばいだった。
腹を床につけたまま、手と足をばたばたと動かして、わずかずつ前に進む。
進んだ先にあるのは、いつも、ハヤトの足だった。
ハヤトの足に辿り着くと、両手でしがみつき、顔を押しつけて、「だぁ!」と叫ぶ。
それから、ハイハイが始まった。
――十二月も、なかばに差しかかった朝。
ハヤトが山小屋の戸を開けると、外の世界は、白く変わっていた。
霜だった。
地面も、木々の枝も、薪棚の屋根も、キャロルの小屋の戸も、何もかもが、白い結晶に覆われている。
朝日が霜に反射して、森全体が、きらきらと光っている。
吐く息が白い。空気が、刃物のように冷たい。
本格的な冬が来ていた。
あの三日間の夜が、嘘だったかのように、カインは、日に日に元気を取り戻していった。
ハイハイの速さは、病の前を超え、ハヤトが目を離した隙に、山小屋の端から端まで移動するようになった。
暖炉の前には、ハヤトが薪を組んで、囲いを作った。
ユキが、その後を追いかけ、カインが笑い、ユキが吠え、キャロルが、小屋の中で迷惑そうに鳴く。
ハヤトが外の様子を確かめているあいだに、背後で、ぺたぺたと小さな音がした。
振り返ると、カインが這っていた。
床に敷いた毛皮の上に座らせておいたはずだ。
いつの間に動いたのか、毛皮の端を越えて、床の上を、戸口に向かっている。
まっすぐ、ハヤトの方へ。
黒い髪が額にかかり、黒い瞳が、ハヤトを見上げている。
赤い端切れは、口に咥えたまま。両手が塞がっているから、口で運んでいるのだ。
戸口の敷居に辿り着いたカインは、ハヤトの脚にしがみついて、体を起こそうとした。
膝立ちになり、ハヤトの裾を両手で握って、ぐいぐいと引っ張る。
外を、見たいのだ。
ハヤトの見ているものを、自分も見たい。
「あー! あーっ!」
口から、赤い端切れが落ちた。
カインは、気にしなかった。
ハヤトの裾にしがみついたまま、外の白い世界に、目を丸くしている。
冷たい空気が、カインの頬を撫でた。
赤い頬が、さらに赤くなる。
でも、泣かない。
目を見開いて、きらきら光る霜の世界を見つめている。
自分で戸口まで来て見る、初めての冬の朝だった。
ユキが、外から駆け戻ってきた。
霜を踏んだ足で戸口に飛びこみ、カインの顔を舐める。
冷たい鼻先に、カインが「きゃっ」と声を上げ、それから、けらけらと笑った。
「だぁ!」
カインが、ハヤトを見上げた。
笑っている。
病み上がりの体で、霜の朝に、冷たい空気の中で。
小さな手がハヤトの裾を握りしめ、黒い瞳が光を映して、満面の笑みを浮かべている。
この笑顔を、精霊が守ってくれた。
あの朝は、そうは思わなかった。
薬草と、乳と、三日間の看病が、この子を守ったのだと。
けれど、日が経つにつれて、少しずつ、思いが変わっていた。
そう思うことは、もう、知識ではなかった。実感だった。
――ハヤトは、日課を取り戻した。
朝。
暖炉に薪をくべ、キャロルの乳を搾り、カインに、朝の乳を飲ませる。
それから、カインを毛皮の上に座らせ――最近は、座っていられるようになった――農事暦を開く。
「十二月。大地は眠り、根は力を蓄える。地上の者は、蓄えを食い繋ぎ、春を待つ」
カインは、黒い瞳で、ハヤトの口もとを見つめている。
言葉の意味は、分からない。
けれど、音を聴いている。ハヤトの声の抑揚を、唇の動きを、一音一音を、吸いこむように。
「あー」
ときおり、真似をするように、声を出す。
ハヤトの言葉に、被せるように。
まだ、言葉ではない。けれど、会話をしようとしている。
昼前。
天候が許す日は、散歩に出た。
カインを厚い外套でくるみ、マルタが仕立てた帽子を被せ、胸に抱いて、森を歩く。
ユキが先導し、ときおり振り返って、二人を確かめる。
見張りの本能が芽生えてきたのか、カインを抱いたハヤトの周りを、警戒するように歩くことが増えた。
霜が降りた森は、静かだった。
葉を落とした木々のあいだを、冬の光が差しこみ、霜の結晶が、地面をきらきらと光らせている。
カインは、その光に、手を伸ばした。
届かない。でも、伸ばす。何度も。
鳥の声がすれば目を丸くし、枯れ枝が落ちればびくりと体を強張らせ、ユキが吠えれば、けらけらと笑う。
世界のすべてが初めてで、すべてが不思議で、すべてが、カインの目には、輝いて見えているようだった。
必要な日は、狩りに出た。
燻製肉の蓄えはある。けれど、冬のあいだも、新鮮な肉は欲しかった。
遠出の狩りには、これまでどおり、カインを抱き紐に抱えて、連れていく。
ただ、近ごろは、少し事情が変わってきた。
カインの昼寝が、一定の長さで、安定してきたのだ。
昼の乳を飲んで、ゆりかごに寝かせれば、一時間ほどは、ぐっすり眠る。
一時間。
それだけの時間が、自由になる日が、できてきた。
そんな日は、ユキをカインのそばに残した。
ゆりかごの横で、ユキが、伏せる。
その鼻先が、カインの寝息に向いたのを確かめて、ハヤトは、弓と矢筒を取る。
遠くへは行かない。小屋の周りの、声の届く範囲だけ。
風下へ回り、息を殺して、近場の茂みの兎を、一羽だけ。
最初は、何度も振り返った。
小屋の屋根が、木々のあいだに見えるうちは、まだいい。
見えなくなるたびに、足が止まった。
帰ると、大抵、カインは、もう目を覚ましている。
ゆりかごの縁に手をかけて、ハヤトの姿を見つけた瞬間に、両手を伸ばして、「だぁ!」と叫んだ。
ユキが、その横で、尻尾を振っている。
待っていた。ずっと。
そう思うたびに、ハヤトは、自分の足が、少しだけ速くなったことに気づいた。
薪拾いは、散歩を兼ねた。
森の地面には、冬の風で落ちた枝が散らばっている。
カインを片腕に抱き、もう片方の手で、枝を拾う。
効率は悪い。一人なら、倍の量を、半分の時間で集められる。
けれど、薪拾いに、カインを置いていくという選択肢は、あの三日間のあと、ハヤトの中から、消えていた。
カインは、薪拾いのあいだ、ハヤトの肩越しに、森を眺めていた。
ときおり、ハヤトの耳に、手を伸ばす。
エルフの耳は、人間より長く、尖っている。
カインにとって、それは、不思議な形をした、面白いものだった。
「あ。あー」
耳を掴んで、引っ張る。
痛くはない。小さな手には、力がない。
けれど、ハヤトの耳が引っ張られるたびに、カインは、自分の手を見て、ハヤトの耳を見て、きゃっきゃと笑った。
夜。
暖炉の前で、本を読んだ。
カインを膝に乗せ、絵本を開く。
山小屋に昔からある、森のウサギが旅に出る、薄い絵本。
ページをめくるたびに、カインの手が、絵に触れた。
兎の絵を指でなぞり、友達の絵を、ぺたぺたと叩く。
「うさぎ」
ハヤトが指さして言う。
「あ?」
カインが、同じ場所を見る。
まだ、繰り返せない。けれど、聴いている。
やがて、カインの瞼が重くなる。
本の上に突っ伏すように、眠りに落ちる。
赤い端切れを、片手に握ったまま。
ハヤトが、そっと本を引き抜き、カインを、ゆりかごに寝かせる。
毛布をかけ、額に手を当てる。
熱くない。今日も、熱くない。
それを確かめることが、毎晩の儀式になっていた。
カインの寝たのを確認すると、ハヤトは卓に向かった。
ゴルドの店で買った、ペンとインクと紙。
本来は、農事暦の記録や、必要な覚え書きのために買ったものだった。
だが、ハヤトは、それを、別の目的に使いはじめた。
日記を、つけることにした。
日記が長続きするたちではない、とは、自分でも分かっている。
これまで、何度か書きはじめては、三日と続いたことがない。
百年のあいだ、何度も繰り返してきた、持病のようなものだ。
今度も、続くかどうかは、分からない。
けれど、今夜は、書きたかった。
最初のページには、八月のことを書いた。
森の入口の古木の根方で見つけた、泣いている赤子のこと。
籐のバスケットに入れられて、置かれていたこと。
黒い髪と黒い瞳。名前も、親も、出自も分からない、ただ泣いている命。
それを抱き上げて、山小屋まで連れて帰ったこと。
次のページ。
初めての夜は、ほとんど抱いて過ごしたこと。
微熱を出したこと。
窓を開けて風を入れ、薬草の湯で体を拭いたこと。
ゆりかごを作ったこと。
初めて村に降りたこと。
ゴルドの指を握ったカイン。
マルタに赤い端切れをもらい、初めて自分で掴んだこと。
二度目に降りたときに、冬着を仕立ててもらったこと。
仔犬を連れて帰ったこと。「ユキ」と名付けたこと。
ユキが、カインのゆりかごの傍で眠った、最初の夜。
十一月。
ここで、ペンが止まった。
三日間の記憶が、指先から逆流するように蘇った。
燃えるような額。力のない泣き声。
飲めない乳。焦点の合わない瞳。
赤い端切れを握りしめた小さな拳。
…ひたすら祈った夜。
暖炉の火が揺れた瞬間。
そして、三日目の朝。
「……あ」と声を出して、ハヤトの顎に触れた、小さな手。
ハヤトは、書いた。
一字一字、丁寧に。あの三日間の、すべてを。
マルタの教えどおりに看病したこと。久しぶりに、精霊に祈ったこと。
三日目の朝、熱が引いて、カインが笑ったこと。
十二月。
自分で戸口まで這ってきて、霜の朝に、目を丸くしたこと。
ユキの冷たい鼻に、「きゃっ」と笑ったこと。
ペンを置いて、ハヤトは、ゆりかごを見た。
カインが、眠っている。
赤い端切れを握って、小さな寝息を立てて。
ユキが、その横で、丸くなっている。
いつか、お前は、これを読むだろう。
字を覚えて、言葉を知って、自分が何者なのかを考えはじめる日が来る。
そのとき、この日記がある。
お前が、どうやってここに来たのか。どんなふうに笑い、泣き、育ったのか。
全部、ここに書いてある。
ペンの乾いたインクの匂いが、暖炉の煙と混じって、漂っていた。




