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25/25

第25話 ことばがふりそそぐ

春の土は、冬とは別物だった。


鍬を入れると、ざくりと音がする。

凍っていた頃の石のような抵抗はない。

雪解け水を吸った土は黒く湿り、掘り返すと蚯蚓が慌てて潜っていく。

生きている土だった。


「――まず畝を立て直す。秋に拡張した分が崩れているからな」


ハヤトの声が畑に響いた。それは独り言ではなかった。

畑の縁の日陰に、毛皮が敷いてある。

その上で、カインがハヤトを見ていた。

傍にはユキが伏せている。


「土が柔らかくなったら、堆肥を混ぜる。

キャロルの糞と、秋に集めた落ち葉を腐らせたやつだ。――臭いぞ」


カインは「あー」と声を出した。

何を言っているかは分からない。

でも、ハヤトが喋っている。

自分に向かって喋っている。

声の抑揚が好きだった。

低くて、穏やかで、時々笑いが混じる。


ハヤトの手が、農事暦を開いた。

畑の縁に置いた石の上に広げ、頁を指でなぞる。


「三月中旬、根菜類の植え付け準備。

蕪、人参、大根――このあたりは、種があれば直播きでいける。

次に村へ行った時に買う」


鍬を振るう。

土が返る。また振るう。


「豆類は四月に入ってから。遅霜にやられるからな。

――苗で買えるなら、苗がいい。種からだと時間がかかる」


汗が額を伝った。

三月とはいえ、日中の陽気は体を温めた。

ハヤトが腕まくりをすると、カインの目が、その腕に向いた。

動いている。

土を掘っている。

力が入ると筋が浮く。

緩むと消える。面白い。


「あとは――葉物だな。レタスは涼しいうちに。ほうれん草も。

カイン、お前はまだ歯が生え揃っていないから、煮て潰して食わせることになるが」


カインの名前が出た。

カインの耳が、それを拾った。

自分の音。

ハヤトが自分を呼ぶ時の音。


「うー!」


返事のつもりだったかもしれない。

声を出すと、ハヤトが振り向く。

振り向くと、目が合う。

目が合うと――笑ってくれる時がある。

それが嬉しい。


日が経った。

毎日同じだった。

朝起きて、ユキとカインに挨拶して、キャロルの乳を搾り、朝食を済ませ、畑に出る。

畑の縁にカインを座らせて、声に出しながら作業する。


「今日は堆肥を混ぜる。――臭いと言っただろう、本当に臭いぞ」


「畝の間隔は、手を広げた幅くらい。農事暦には、そう書いてある」


「ここに蕪を植える。ここに人参。こっちは豆。――覚えなくていいぞ、俺が覚えているから」


カインは、いつも聞いていた。

ハヤトの声を。

作業の音を。

鍬が土を返す音。

水を撒く音。

ユキが畑の端を走り回る足音。

キャロルが柵の向こうで草を食む音。


その中に、いつも言葉があった。


ハヤトは、意識してそうしていた。

何をするにも声に出す。

名前をつける。

動作を説明する。

目の前にあるものを指さして、音を与える。


土。水。種。芽。太陽。風。


カインの耳に、毎日毎日、言葉が降り注いでいた。



――夜。暖炉の前。


カインは毛皮の上で、腕を突っ張って上半身を起こしていた。

半年前にはできなかった姿勢だった。

膝を立てて、体を揺らしている。

這うのは、もう慣れた。

次は、何かにつかまって立ち上がるのかもしれない。

その予兆のような動きだった。


風車が、目の前に置いてある。

暖炉の熱で起きた空気の流れを受けて、羽根がゆっくりと回っている。

赤と青。

もう何度も見た。

でも、まだ飽きない。


ハヤトが日記を書いている。

ペンが紙を走る音。

カインは、その音も好きだった。

さらさら、という音。

ハヤトが何かしている音。


カインが口を開いた。


「あー」


いつもの声。でも、少し違った。


「あー……あー……」


何かを試している。

口の形を変えている。

唇を丸めたり、舌を動かしたり。

ハヤトが毎日発している音を、自分の口で作ろうとしている。


「ま――」


偶然だったかもしれない。

唇が合わさって、「ま」に近い音が出た。


「ま、ま……」


繰り返した。

自分の口から出た新しい音が面白かった。

もう一回。


「まー」


まだ言葉ではなかった。

意味を持たない音の連なりだった。

でも――ハヤトが毎日聞かせてくれる音の海の中から、カインの舌が、一つの音を掬い上げた。

その最初の欠片だった。


ユキが顔を上げて、カインを見た。

カインは自分の声に夢中で、「まー、まー」と繰り返していた。

風車の羽根が回っている。

暖炉の火が揺れている。

ペンが紙を走る音がする。


春の夜は、静かだった。


そして、カインの口からは、まだ形にならない音が――少しずつ、少しずつ、言葉に近づこうとしていた。


「頑張れ。急がなくていいぞ。……でもな、言葉を知ると、世界が広がるんだ」


ハヤトの声が聞こえた。


カインは「まー」と言いかけていた口を止めて、顔を上げた。

ハヤトがこちらを見ている。

ペンを置いて、こちらを見ている。

自分を見ている。


優しい声だった。

意味は分からなかった。

「頑張れ」も「言葉」も「世界」も、まだカインの中にはなかった。

でも――声の色は分かった。

温かい色。

褒められている時の色。

ハヤトが嬉しそうな時の色。


自分が「まー」と言ったら、ハヤトが嬉しそうになった。


それだけで十分だった。


「まー!」


もう一度。今度は、もっと大きな声で。

ハヤトの顔を見ながら。

見て。

もう一回できるよ。


「まー、まー!」


ユキが尻尾を振った。

カインが元気に声を出している。

嬉しそうにしている。

それだけで、ユキの尻尾は動く。


カインは両腕で体を支えて、上半身を起こしていた。

首はしっかりしている。

半年前にはぐにゃりと垂れていた頭が、今は、見たい方へ思うままに動く。

ハヤトの方を。


「まー……」


今度は、少し小さな声だった。

繰り返すうちに、自分の口から出る音の違いに気づいたらしい。

大きく言うと「まー!」。

小さく言うと「まー」。

口を開けたまま言うと「まぁー」。

唇を早く離すと「ま」。


全部違う。同じ「ま」なのに、全部違う。


面白い。


カインの目が真剣になった。

風車を触っていた時と同じ目だった。

何かを発見した時の目。

世界の仕組みに、手が届いた時の目。


「ま……ば」


新しい音だった。

唇を閉じて、弾くように開く。

「ば」。

さっきの「ま」とは違う。

もっと強い。

もっと弾ける。


「ば! ば、ば!」


楽しくなってきた。

カインの足が、ばたばたと毛皮を蹴った。

「ま」と「ば」。

二つもある。

自分の口から二つの音が出る。


「ばー、まー、ばー!」


交互に出してみる。

違う音が、交互に出る。

自分の口で。

自分の息で。


風車の羽根を息で回した時と同じだった。

自分の力で何かが変わる。

自分の口の形で、音が変わる。


カインは、ハヤトの顔を見上げた。


見て。二つもできるよ。

――そう言いたげな顔だった。

黒い目が輝いている。

暖炉の火を映して、きらきらと。


それから――疲れたのか、ぱたりとうつ伏せに戻った。

頬が毛皮に押しつけられて、むにゅっと潰れた。

目だけが、ハヤトを見上げている。


「う……」


眠い。

でも、まだ声を出したい。

でも、眠い。


風車が暖炉の熱気を受けて、ゆるゆると回っている。

赤と青。

いつもの羽根。

カインの目がそれを追いかけて――追いかけきれずに、閉じた。


開いた。


また閉じた。


「ま……」


最後にもう一つだけ、小さな音を残して。


カインは、眠りに落ちた。


毛皮の上で丸くなって。

風車に手を伸ばしたまま、指先が羽根に触れるか触れないかの距離で。

ユキがそっと近づいて、カインの背中に顎を乗せた。

温かい重み。

カインは眠りの中で小さく身じろぎして、ユキの毛に顔を寄せた。


暖炉の火が爆ぜた。


静かな夜だった。

ハヤトの日記帳が、卓の上に開いたままになっている。

ペンの横にインク壺。

今日書いた頁の最後の行は、まだインクが乾いていないかもしれなかった。


春の夜風が窓の隙間から忍び込み、風車の羽根を、ほんの少しだけ揺らした。


カインが初めて、自分の口で作り分けた音。

「ま」と「ば」。


まだ言葉ではない。

まだ誰かの名前でもない。

でも――半年間、毎日毎日降り注いだ言葉の雨が、ようやく一滴、カインの舌の上に結実した。


急がなくていい。


ハヤトがそう言った。


だからカインは、急がない。

でも――明日もきっと、声を出す。

新しい音を探す。

ハヤトが振り向いてくれるから。

ハヤトが笑ってくれるから。


それが、言葉を覚える最初の理由だった。



――マルタが言っていた。

角を丸めた木の積み木を、と。


冬のあいだ、何度か思い出しては、まだ早いと先延ばしにしていた。

弓を引けるなら、小刀で木くらい、削れる。

マルタの言ったとおりだ。

何でも口に運ぶ今のカインなら、ちょうどいい。


ハヤトは、割り損ねた薪で、簡単な積み木を作りはじめた。

一日に少しずつ、増やしていく。

口に入れてしまっても大丈夫なように、何度も何度も、丁寧にヤスリをかけた。


最初の一つは、不格好な立方体だった。


割り損ねた薪の端材。

斧の刃が斜めに入って、中途半端な大きさに残った欠片。

普通なら暖炉に放り込んで終わりだった。

ハヤトはそれを拾い上げ、小刀で角を落としはじめた。


削る。整える。そして、ヤスリをかける。


何度も、何度も。


指の腹で表面をなぞる。引っかかる。

まだ駄目だ。もう一度。

ヤスリの粗い面で削り、細かい面で磨く。

指でなぞる。

まだ、ほんの少し。もう一度。


カインが口に入れる。それが前提だった。

赤ん坊は何でも口に運ぶ。

角があれば歯茎を切る。

棘が残れば舌を刺す。

表面が粗ければ唇が荒れる。


だから、何度でもヤスリをかけた。


木目に沿って。

木目に逆らって。

角という角を丸くして、面という面を滑らかにして。

指で触って分からないくらいまで。

頬で触っても分からないくらいまで。


一つ目ができた日、ハヤトはそれをカインの前に置いた。


カインは毛皮の上でうつ伏せになっていた。

目の前に、見たことのないものが現れた。


四角い。

木の色をしている。

風車とは違う。

回らない。


手を伸ばした。


触った。

硬い。

でも、角が痛くない。

すべすべしている。

掌に収まる大きさ。握れる。


当然のように、口に運んだ。


はむ。


木の味がした。

ほんのり甘い。

歯茎に当たる感触が気持ちいい。

ちょうど歯が生えはじめている時期で、歯茎がむずむずしていた。

噛む。

噛む。

唾液で表面が濡れる。

滑らかな木肌が、口の中で温まっていく。


「あむ、あむ……」


噛みながら、ハヤトを見た。

これ、いい。

――そういう目だった。


二日目。二つ目が加わった。


今度は少し小さい。

長方形に近い。

昨日の立方体と並べて置いた。


カインは二つの積み木を、交互に見た。

形が違う。

大きさも違う。

片方を握り、もう片方に手を伸ばす。

両手に一つずつ。


打ち合わせた。


こん。


木と木がぶつかる音。

小さく、乾いた音。


カインの目が丸くなった。


もう一回。こん。


「あっ!」


もう一回。こん、こん。


「あーっ!」


風車の時と同じだった。

自分の手で音が出る。

自分がぶつけると鳴る。

離すと鳴らない。

ぶつけると鳴る。


こん、こん、こん。


ユキが耳をぴくぴくさせながら、迷惑そうに薄目を開けた。

カインは気にしない。

こん、こん。楽しい。


三日目。三つ目。


四日目。四つ目。


毎日一つずつ、積み木が増えていった。


ハヤトは畑仕事の合間に、夜の暖炉の前で、端材を削った。

カインを寝かしつけた後、ヤスリをかけた。

一つにつき何十回も。

掌で確かめ、頬で確かめ、唇で確かめた。

カインの口に入っても大丈夫なように。


五日目の積み木は三角形だった。

カインは初めて見る形に戸惑った。

立方体や長方形と違う。

上に積もうとしても、滑り落ちる。

尖った方を下にすると立たない。


「うー?」


不思議そうな声。

何度も置き直す。

倒れる。

置く。

倒れる。


平らな面を下にすると――立った。


「あっ」


静かな発見だった。

カインは三角形の積み木を、じっと見つめた。

こっちを下にすると立つ。

あっちを下にすると倒れる。

なぜかは分からない。

でも――そうなる。



――積み木を与え始めて、二週間が経とうとしていた。


積み木は、十個を超えていた。

立方体、長方形、三角形、円柱。

大きいもの、小さいもの。

全て角が丸く、全て表面が滑らかで、全てカインの口に入れても安全だった。


カインの遊び方は、日々変わっていた。


最初は、口に入れるだけだった。

次に、ぶつけて音を出した。

そして――積みはじめた。


大きいのを下に置く。

その上に、小さいのを置く。

慎重に。

指先で。

息を止めて。


二つ積めた日、カインは声を上げた。


「ばっ!」


三つ積もうとした。崩れた。


「うー……」


もう一回。

崩れた。

もう一回。

崩れた。


泣かなかった。

もう一回。

大きいのを下に。

中くらいを真ん中に。

小さいのを上に。

指を離す。


立っている。


三つ。


「――あーっ!」


カインがハヤトの方を振り向いた。

満面の笑みだった。

見て。三つ積めた。

見て。すごいでしょう。


ユキが尻尾で、積み木の塔を薙ぎ倒した。


がらがら。


カインは一瞬呆然として――それから、笑った。


「だぁ!」


ユキに向かって笑った。

もう一回やるよ。見ててね。


また積みはじめた。

一つ目。二つ目。三つ目。

今度は、ユキの尻尾が届かない場所で。


毛皮の上に散らばった積み木は、どれもカインの唾液と手垢で、少し色が変わっていた。

角という角が丸く、面という面が滑らかな、小さな木の塊。

一つ一つに、夜ごとのヤスリの跡が残っている。


カインはまだ知らない。

この積み木の一つ一つに、どれだけの時間がかかっているか。

自分が眠った後、暖炉の前で、何度も何度も指の腹で確かめた人がいることを。


でも――手に取るたびに、滑らかだと思う。

口に含むたびに、優しいと思う。

まだ言葉にならない。

考えにすらならない。

ただ、体が知っている。

この木は安全だ。

この木は自分のためにある。


それは、ハヤトの手の温度だった。

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