第24話 やくそくのはんとし
集落のはずれ。
通りから離れ、畑の向こう、森に近い場所に、その小屋はあった。
半年前の秋に訪れた時と変わらない。
丸太造りの頑丈な壁、軒先に吊るされた干し肉と獣の毛皮。
犬舎から聞こえる犬たちの鳴き声。
土と獣と煙の匂い。
ユキが足を速めた。
尻尾が揺れていた。匂いを覚えている。
ここは、自分が生まれた場所だ。
母犬の匂い。
あの柵の向こうの、懐かしい匂い。
犬舎の犬たちが、一斉に吠えた。
来客を知らせる声と、ユキの帰りを嗅ぎ取った興奮が混じっていた。
囲いの中から、大きな茶色の犬が柵に鼻を押しつけ、くぅんと鳴いた。
ユキの母犬だった。
ユキが駆け寄り、柵越しに鼻を突き合わせた。
「――誰だ」
小屋の戸が開いた。
フランツだった。
秋と同じ革の胴着に、厚い腕。
日焼けした顔に、深い皺。
猟師の目が、来訪者を一瞬で見定める。
「……ああ。エルフか」
声に驚きはなかった。
ただ、目が少しだけ細くなった。
「冬を越したか」
それだけだった。挨拶でも労いでもない。
確認だった。犬を預けた者として、その犬が生きているかどうかを確かめる目だった。
ユキは柵の前で母犬と鼻を合わせていたが、フランツの声を聞いて振り返った。
半年前にはまだ足元がおぼつかなかった仔犬は、今はしっかりとした四肢で立っていた。
毛並みは白く、冬のあいだに密度を増した下毛が、春の陽光に銀色に光っている。
体格は母犬に並ぶほどになり、胸板は厚く、走る姿に幼さは残っていなかった。
フランツが小屋の前まで歩み出て、ユキの前にしゃがんだ。
ユキが尻尾を振った。
フランツの手が、ユキの顎を掴み、顔を左右に動かした。
歯を確かめる。
耳を見る。目を見る。
それから、首筋から背中へ手を滑らせ、肋骨の上を押した。
脚を一本ずつ持ち上げ、肉球を確かめた。
猟師の検分だった。愛玩ではない。
犬の状態を、仕事の道具として正確に見ている。
「……悪くねえ」
フランツが手を離した。
声は素っ気なかったが、目の奥に、かすかな――本当にかすかな安堵があった。
「毛並みはいい。肉のつき方も悪くねえ。
脚も――山を歩いてるな。爪の減り方でわかる」
ユキが、フランツの手を舐めた。覚えている。
この手の匂い。自分を最初に持ち上げた手。
フランツはユキの頭をぞんざいに撫でて立ち上がり、ハヤトに目を向けた。
それから――ハヤトの胸元の、カインにも目を向けた。
「そっちも生きてるか」
カインは、フランツを見つめていた。
ゴルドやマルタの時とは、反応が違った。
この人は、違う。
怖い、という言葉を、まだ知らない。
ただ――空気が違う。
ゴルドは、大きな声で笑う人だった。
マルタは、柔らかい手の人だった。
この人は違う。声が低い。
目が鋭い。獣の匂いがする。
カインの手が、ハヤトの外套をぎゅっと握った。
風車を持ったまま、もう片方の手でハヤトにしがみつく。
でも――泣かなかった。
ハヤトが、怖がっていない。だから、泣かない。
ハヤトの心臓の音を胸元で感じながら、カインは黒い目で、フランツをじっと見つめていた。
この人は誰。
ハヤトとは、どういう関係の人。
ユキがカインとフランツの間に割り込むように座った。
尻尾を振りながら、両方を交互に見ている。
自分の知っている人たちが、同じ場所にいる。嬉しい。
フランツがカインを見る目が、ほんの少しだけ変わった。
「……でかくなったな」
半年前は、まだ生後数か月だった。
首も据わらず、ハヤトの腕の中で眠っているだけだった。
仔犬の鼻先に伸ばした、あの小さな指。
今は、その手が風車を握り、もう片方でハヤトの服を掴んでいる。
目に力がある。
「犬はよく働いてるか」
フランツの問いは、カインへの感想ではなく、ユキへの確認だった。
この男は、そういう男だった。
犬のことを聞く。犬を通じて、飼い主の暮らしぶりを測る。
犬が健康なら、飼い主もまともにやっている。
犬が痩せていれば、飼い主の暮らしも崩れている。
ユキは健康だった。
毛並みも脚も目も、申し分なかった。
それがフランツにとっての、最大の答えだった。
「……まあ、上がれ。茶くらいは出す」
フランツが、小屋の戸を開けた。無愛想な招待だった。
カインは風車を握りしめたまま、フランツの背中を見つめていた。
怖い人。
でも――ユキが尻尾を振っている。
ユキが嬉しそうにしている人は、きっと、悪い人じゃない。
まだ言葉にはならない。
ただ、ユキの様子を見て、外套を握る手の力が、少しだけ緩んだ。
小屋の中は薄暗く、煙の匂いが染みついていた。
壁には罠や弓が掛かり、隅に毛皮が積まれている。
質素な木の卓と、椅子が二脚。
炉に残った灰の上に、フランツが無言で薪をくべ、鉄の湯沸かしを載せた。
茶の用意だった。
ユキは小屋の入口で伏せていた。
尻尾だけが、ぱたぱたと揺れている。
犬舎のほうから母犬の鳴き声が聞こえるたびに耳がぴくりと動いたが、ハヤトの傍を離れなかった。
ハヤトが話しはじめた。
「ユキは、番犬以上だった」
フランツは卓の向こうに座り、湯が沸くのを待ちながら聞いていた。
腕を組み、表情を変えず。
「カインの姉のようなものだ。相談相手にもなってくれた。
あの子が熱を出した夜も、ずっと傍にいた。この半年、何度も助けられた」
フランツは何も言わなかった。
湯沸かしが、小さな音を立てはじめた。湯気が細く立ち上る。
フランツは腕を組んだまま、ハヤトの言葉を聞いていた。
遮らなかった。
頷きもしなかった。
ただ、聞いていた。
沈黙が落ちた。
炉の薪が爆ぜる音。
犬舎の犬たちの、遠い鳴き声。
カインが風車の羽根をつつく、かちかちという小さな音。
フランツが口を開いた。
「――姉、か」
その一言だけだった。
しかし声の質が、ほんの僅かに変わっていた。
素っ気なさの底に、何かが混じっていた。
フランツが立ち上がり、湯沸かしから、粗末な陶器の杯に湯を注いだ。
乾燥させた野草の茶だった。
香りは素朴で、少し苦い。
杯をハヤトの前に置き、自分の分を手に取って、一口飲んだ。
それから――ユキを見た。
入口で伏せているユキ。
白い毛並み。しっかりとした四肢。
犬舎の母犬が鳴いても、ハヤトの傍を離れないユキ。
「あいつは――」
フランツが、杯を卓に置いた。
「生まれた時から、兄弟でいちばんでかかった。
気も強い。耳は噛む、尻には噛みつく。遊びでも手加減しねえ」
初めて聞く話だった。
「だが、強いだけの犬じゃなかった。
黒いのが兄弟に小突かれてると、割って入って、そいつの横に座ってた。
噛まれても吠えられても、どかなかった」
フランツの目が、遠い記憶を見ていた。
「猟犬には向かねえと思った。獲物を追う気性じゃねえ。守る気性だ。
――だから、貰い手がつくのは最後だと思ってた」
カインが風車から顔を上げた。
フランツの声が変わったのを、感じ取ったのかもしれない。
低い声。でも、さっきと違う。
少しだけ――柔らかい。
「お前が来た時、正直迷った。
エルフに犬を渡すのは初めてだ。
まして人間の赤ん坊がいるときた。――だが」
フランツがユキを見た。
ユキが顔を上げ、尻尾を振った。
「あいつは、赤ん坊の手を、自分から舐めた。
あれで決めた。犬は人を見る。人間より余程正確にな」
フランツが、茶を一口飲んだ。
「感謝するのは勝手だが――礼を言う相手が違う」
顎でユキを示した。
「あいつに言え。俺は犬を渡しただけだ。
番犬になったのも、姉になったのも、相談相手になったのも、あいつが自分で決めたことだ。
俺が教えたんじゃねえ」
ユキが「くぅん」と鳴いた。
自分の名前が出たのが分かったのか、尻尾の揺れが速くなった。
フランツは黙って茶を飲んだ。
それ以上は何も言わなかった。
必要なことだけを言い、余計な言葉を足さない男だった。
だが――杯を持つ手の、親指の腹が、ほんの少しだけ卓の木目を撫でていた。
無意識の仕草だった。
猟師の硬い指が、柔らかく木目をなぞっていた。
カインがユキに手を伸ばした。
風車を片手に、もう片方の手がユキの背中に触れる。
白い毛の感触。温かい。いつもの温かさ。
「うー」
カインの声は穏やかだった。
ユキが首を伸ばして、カインの手を舐めた。
小さな指が、白い毛を掴む。
フランツが、その光景を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。
「……茶、冷めるぞ」
それだけ言って、杯を口に運んだ。
小屋の外では、春の風が吹いていた。
犬舎の犬たちが穏やかに鳴いている。
ユキの母犬の声が混じっている。娘の帰りを喜ぶ声だった。
ユキはカインの手を舐めながら、尻尾を振り続けていた。
ハヤトの傍にいる。
カインの傍にいる。
母犬の声が聞こえる。
全部、嬉しい。
カインの風車が、小屋の隙間から入る風を受けて、ゆるりと回った。
茶を飲み終えて、ハヤトが立ち上がった。
フランツは小屋の戸口に立って、見送った。
「また連れてくる。母犬に会わせてやりたい」
ハヤトの言葉に、猟師の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……好きにしろ」
それだけだった。
だが、戸を閉める前に、一度だけユキを見た。
ユキは山道の方を向いて立ち、ハヤトの出発を待っていた。
尻尾が揺れている。母犬の匂いを名残惜しそうに嗅ぎながら、それでもハヤトの傍にいる。
フランツは何も言わず、戸を閉めた。
犬舎の奥から、母犬の長い鳴き声が、一つだけ聞こえた。
帰り道は、来た時より穏やかだった。
午後の陽が傾きはじめ、山道に長い影が伸びている。
雪解け水の流れる音。
鳥の声。
春の土の匂い。
朝はまだ硬かった泥濘が、昼の陽気で柔らかくなっていた。
カインは疲れていた。
久しぶりの村。久しぶりの人々。
ゴルドの大きな声。
マルタの柔らかい手。
フランツの鋭い目。
犬舎の犬たちの鳴き声。
布の匂い、獣の匂い、煙の匂い、土の匂い。
冬のあいだ山小屋の中だけだった小さな体と頭に、一日で、あまりに多くのものが流れ込んでいた。
風車は、まだ握っていた。
ただ、もう羽根をつつく元気はなかった。
軸を握りしめたまま、ハヤトの胸に頬を預けている。
目が半分閉じかけていた。
開けようとする。閉じる。
また開ける。
山道の木漏れ日が瞼の上を通り過ぎるたびに、まぶしそうに顔をしかめる。
「う……」
小さな声。
眠い。でも、まだ起きていたい。
ハヤトの心臓の音が聞こえる。
とくん、とくん。
歩くたびに揺れる。ゆりかごみたいに。
ユキが先を歩いている。
白い尻尾が揺れている。
時折振り返って、ハヤトとカインを確かめる。
大丈夫。ついてきてる。
山道を登るにつれ、空気が変わった。
村の土埃と人の匂いが薄れ、針葉樹と湿った苔の匂いに変わる。
カインの鼻が、ひくひくと動いた。
知っている匂い。家の匂い。
――家。
まだ、その言葉を知らない。でも、体が覚えている。
この匂いの場所は安全だ。温かい。
ハヤトがいる。
ユキがいる。
暖炉の火がある。
毛皮の寝床がある。
カインの目が、完全に閉じた。
風車を握る手の力が、少しだけ緩んだ。
落ちそうになる。でも――指が軸を離さなかった。
眠りの中でも、初めてのおもちゃを手放さなかった。
山小屋に着いた頃には、夕陽が山の稜線にかかっていた。
キャロルが柵の中から「めえ」と鳴いた。
帰ってきた。
ユキが駆け寄り、キャロルの鼻に自分の鼻を押しつけた。
ただいま。
キャロルが迷惑そうに首を振ったが、逃げはしなかった。
カインは眠っていた。
ハヤトの胸の中で、風車を抱えて。
小さな寝息が、規則正しく聞こえる。
村での疲れを全部溶かすような、深い眠りだった。
頬が少し赤い。
春の風に当たったせいか、それとも――たくさんの人に会った、興奮の名残か。
静かな夕暮れだった。
半年前の秋、ユキを連れて夜の山道を登った時――カインは、もっと小さかった。
首も据わらず、ハヤトの腕の中でぐにゃりとしていた。
あの時ハヤトが抱えていたのは、命の危うさそのものだった。
今、腕の中にいるのは――風車を握って眠る、丸い頬の赤ん坊だった。
人の顔を見分け、匂いを覚え、声の調子を聞き分ける。
自分の息で羽根を回せることを発見し、それを誰かに見せたがる。
ハヤトの服を掴んで安心し、ユキの毛に触れて笑う。
半年。たった半年で、こんなにも。
山小屋の戸を開けると、朝出た時のままの室内が迎えた。
暖炉の灰。
卓の上の日記帳。
棚に並ぶ本と薬瓶。
窓から差し込む夕陽が、木の床を橙色に染めている。
ユキが先に入り、いつもの場所――暖炉の前の毛皮の上に、どさりと寝転んだ。
長い一日だった。
母犬に会えた。
嬉しかった。疲れた。
ユキの目も、すぐに閉じかけた。
カインが、腕の中で小さく身じろぎした。
「んー……」
夢を見ているのかもしれなかった。
くるくる回る風車の夢。
赤と青の羽根。
大きな声で笑う人。
柔らかい手の人。
怖い顔だけど、犬に優しい人。
白い犬。温かい胸。
全部、今日の記憶だった。
カインが覚えている、最初の一日になるかもしれなかった。




