第22話 ふゆのすごしかた
冬は長い。
山の冬は、特に長い。
十二月の後半に降りはじめた雪は、二月の終わりになっても溶ける気配がなかった。
今年は穏やかなほうだ、とハヤトは思っていた。
それでも朝の窓は凍りつき、夜は暖炉の火を絶やせば、数時間で山小屋の中まで白い息で満ちた。
外に出られる日は限られていた。
吹雪の日は、一日じゅう山小屋の中で過ごした。
だから――ハヤトは話した。
たくさん、たくさん話した。
朝。麦がゆと、乳と。
麦がゆは、冬に入ってから少しずつ始めたものだった。
ゴルドの店で買った麦を、柔らかくなるまで煮て、すり潰し、山羊乳でのばす。
マルタの言っていた時期が、ちょうど来ていた。
初めての日、カインは一口目で顔をしかめた。
今では、匙が見えただけで口を開ける。
麦がゆを食べ終えると、次は乳瓶だった。
カインは乳瓶を両手で抱え、黒い目でハヤトの顔を見上げている。
「今日は風が強いな。外は無理だ。……でもユキが退屈するから、後で山小屋の中で遊ばせてやるか」
言葉の意味は、分かっていない。
でも、ハヤトの声は聞こえている。
低くて穏やかで、少しだけのんびりした声。
その声が自分に向けられていることだけは、分かっている。
朝食のあとは、農事暦を開いた。
ゴルドの店で買った本だった。
月ごとに頁が分かれていて、季節の移り変わり、種を蒔く時期、収穫の目安、月の満ち欠けが書いてある。
カインに分かるはずのない内容を、ハヤトは毎朝、その月の頁を開いて、同じように読み上げた。
人の言葉で、人の世の暦を。
それがこの子のためにもなるはずだった。
…いつかきっと。
月が替われば、頁も替わる。二月の頁には、こうあった。
「――二月、雪解けの兆し。土の中で根が動き始める。
まだ寒いが、日は長くなる」
カインはハヤトの膝の上で、頁を見つめていた。
文字は読めない。でも、紙の上に黒い模様が並んでいることは分かる。
ハヤトがそれを見ながら声を出していることも分かる。
小さな手が頁に伸びて、紙の端を掴んだ。
「あー」
「まだ早い。もう少し待て」
…ハヤトはカインの手をそっと外して、次の頁をめくった。
昼。薪をくべながら。
「この薪は樫だ。硬くて、長く燃える。
こっちの白っぽいのは樺。すぐ燃えるが、火付きがいい。
…覚えなくていいぞ、まだ」
カインはゆりかごの中から、ハヤトの動きを目で追っていた。
薪を持ち上げる腕。暖炉に放り込む動作。
火の粉が舞い上がるのを見て、「あっ」と声を上げる。
「……お前、火が好きだよな」
夕方。絵本を開いて。
『森のウサギ』の頁をめくりながら、ハヤトは絵を指で示した。
「ウサギだ。耳が長いな」
カインは、ウサギの絵をぺたりと叩いた。
何度見ても、同じ絵だ。
それでも、毎回、同じように叩く。
夜。これが一番長かった。
吹雪の夜は特に。
風が山小屋の壁を叩き、窓が軋み、森の木々のざわめきが遠くから聞こえてくる。
ユキは暖炉の前で丸くなり、キャロルは自分の小屋で静かにしている。
カインだけが――起きていた。
風の音が怖いのか。
暗いのが嫌なのか。
それとも、ただハヤトの声が聞きたいのか。
理由は分からない。
でも、カインが目を開けている夜は、ハヤトは話した。
ある夜は、エルフの物語。
「――昔、森の奥にひとりのエルフがいた。
そのエルフは風の言葉が分かった。
風が何を運んできて、何を攫っていくのか、全部聞こえた」
カインは毛布にくるまって、ハヤトの腕の中にいた。
黒い目が、ハヤトの口元を見つめている。
唇が動く。
音が出る。
その音に意味があることを、まだ知らない。
でも心地いい。
この音が続くあいだは、怖くない。
「風はある日、遠い国の匂いを運んできた。
海の匂いだ。そのエルフは海を見たことがなかった。だから――」
また別の夜は、精霊の話を。
「森には精霊がいる。
木にも、水にも、火にも、風にも、土にもな。
石ころにだって、いるかもしれん。
お前には見えないだろうけど、いるんだ」
ハヤトは、毛布の上からカインの背をゆっくり叩いた。
「お前が熱を出した時、俺は精霊に頼んだ。
助けてくれ、って。
……聞いてくれたかどうかは分からない。でも、お前は治った」
カインの瞼が重くなっていく。
でも、ハヤトの声が止まると、ふっと目を開ける。
もっと。まだ聞いていたい。
ある夜は失敗談を話した。
「今日な、水汲みに行ったら足を滑らせて転んだ。尻餅をついた。
雪の上だからそんなに痛くなかったが、桶の水が全部こぼれた。
……ユキに笑われた気がする」
「あー」
「笑っているな、お前も」
話すことがない夜でも、何でもない話を話して聞かせる。
今日の天気の話。
ユキが雪の中で何かを追いかけた話。
キャロルが自分の小屋の戸を鼻で押し開けようとした話。
薪が湿っていて、なかなか火がつかなかった話。
全部、全部、カインに聞かせた。
そうして――冬が過ぎようとしていた。
―― 二月の終わり。
日が少しだけ長くなった。
朝、窓の凍りつき方が薄くなった。
昼間、軒先の氷柱から水滴が落ちるようになった。
まだ雪は深い。まだ寒い。
でも、空気の匂いが変わりはじめていた。
土の匂い。
水の匂い。
冬の底を過ぎた、という匂い。
春が、近づいている。
ハヤトはカインを膝に乗せ、暖炉の前で日記を開いていた。
ペンを持つ手が止まっている。
日記は、冬のあいだ、書いたり書かなかったりだった。
毎日は書けていない。
三日で止まっては、また開く。
それを、冬のあいだに何度も繰り返した。
書いたのは、何かあった日だ。
寝返りを打った日。
這った日。
雪に触れた日。
熱の下がった朝。
それでも、頁は減っていた。
ハヤトは、カインの後頭部を見下ろした。
黒い髪が、拾った頃に比べて少し伸びた。
体も大きくなった。
最初は片腕で抱えられたのに、今は両腕でないと安定しない。
春を迎えれば――この子はどうなるだろう。
半年近く、毎日話しかけてきた。
物語を聞かせた。名前を呼んだ。
カインの「あー」や「うー」は、最初の頃より種類が増えていた。
嬉しい時の「あー!」は高い声。
眠い時の「んー」は低い声。
何かを要求する時の「あっ、あっ」は、短く繰り返す。
不満な時の「うー」は、唇を尖らせる。
ハヤトの声に応えるように「だぁ」と言うことも、増えた。
言葉――と呼べるものでは、まだない。
でも、声を出すことが「誰かに届く」ことだと、カインは理解しはじめていた。
声を出せば、ハヤトが振り向く。
声を出せば、ユキが耳を立てる。
声を出せば、世界が反応する。
分かっていなくていい、とハヤトは思う。
いつかきっと、この声は言葉になる。
春になったら。
雪が溶けて、鳥が戻ってきて、花が咲いて。
もっと外に出られるようになったら。
もっと色々なものを見て、触れて、聞いて。
この子は――話すだろうか。
最初の言葉は、何だろう。
ハヤトはカインの黒い髪をそっと撫でた。
カインは膝の上で、日記の頁を指先でなぞっている。
ハヤトの書いた文字の上を、小さな指が滑る。
意味は分からない。
でも触りたい。
この黒い模様に触りたい。
「……お前の最初の言葉、何になるかな」
カインが顔を上げた。
ハヤトの声に反応して、黒い瞳がまっすぐにハヤトを見つめる。
「だぁ」
「それか? それがお前の答えか」
カインが笑った。
歯のない口を開けて、目を細めて、ハヤトの顔を見て笑った。
ハヤトはカインを抱き上げ、胸に抱いた。
何度も繰り返した動作だった。
冬のあいだ、何度となく。
泣いた時も、笑った時も、眠い時も、何でもない時も。
暖炉の火が、二人の影を壁に映していた。
春はもうすぐそこまで来ている。
雪解けの水が、山道を小川に変えていた。
二月の終わりから、少しずつ。
最初は軒先の氷柱が滴りはじめ、次に屋根の雪が塊になって落ち、やがて山肌を覆っていた白が、茶色い土に戻っていった。
三月に入ると、道の脇を流れる雪解け水は日に日に深くなり、革の長靴の底を浸すほどになった。
冬が、終わろうとしていた。
ハヤトが村に降りるのは、十一月以来だった。
冬のあいだは雪と吹雪に阻まれ、一人ならまだしも、カインを連れて山を降りること自体が危険だった。
秋のうちに蓄えた保存食と干し肉で冬を越し、足りないものは山の中でどうにかした。
だが、もう限界だった。
カインの肌着は、小さくなっていた。
十一月にマルタの店で揃えたものが、今のカインには窮屈だった。
腕が袖から飛び出し、腹回りが突っ張っている。
カインは気にしていないようだったが、動きにくそうにしているのは、ハヤトの目にも明らかだった。
麦も、残り少ない。
カインが麦がゆを食べるようになってから、減りが早くなった。
キャロルは冬のあいだも乳を出してくれたが、量は減っていた。
春の草を食べれば戻るだろうが、それまでの繋ぎがいる。
それから――紙とインク。
日記の頁が、残り少なくなっていた。
俺は天気の良い日を選んで、集落へ行くことを決めた。
山道は泥濘んでいた。
雪解け水が土を緩め、足を置くたびにずぶりと沈む。
ハヤトは革の長靴で慎重に足場を選びながら、抱き紐でカインを胸に抱いて歩いた。
ユキが先行して道を確かめ、安全な場所を選んでは振り返る。
この犬は、冬のあいだにまた一回り大きくなっていた。
カインは久しぶりの遠出に、目を輝かせていた。
冬のあいだ、見ていた景色は山小屋の周りだけだった。
白い雪と、裸の木と、灰色の空。
それが今日は違う。
雪の隙間から茶色い土が覗いている。
枯れ草の間に、ほんの小さな緑が見える。
水の流れる音がする。
鳥が――鳥が鳴いている。
冬のあいだ、聞かなかった音だ。
「あっ! あっ、あっ!」
カインの指が空を指した。
木の枝に止まった小鳥が、甲高い声で鳴いている。
カインは、体ごと身を乗り出した。
ハヤトの腕から落ちそうになるほどに。
「……落ち着け」
ハヤトがカインの体を引き戻す。
カインは不満そうに「うー」と唇を尖らせたが、すぐに別のものに気を取られた。
道の脇に、小さな花がひとつ咲いていた。
雪の下から最初に顔を出す、気の早い花だった。
「あー……」
声が変わった。
さっきの興奮とは違う、静かな声。
じっと見つめている。
花びらが、風に揺れている。
カインが、ちゃんと見る、初めての春だな。
前までとは異なって、村への道のりは興味でいっぱいだった。
――四か月ぶりの人間の村。
村は、変わっていなかった。
通りを歩く人の数は、冬よりも増えていた。
雪解けとともに農作業が再開し、畑を耕す人、家畜の世話をする人、井戸端で話し込む人。
人間たちの暮らしが、冬眠から覚めたように動き出していた。
エルフが赤子を抱いて歩いている。
何人かの村人が振り返った。
秋にも見た光景だが、慣れたわけではないらしい。
好奇と困惑の混じった目が、ハヤトとカインを追う。
ユキが傍を歩いているのを見て、目を逸らす者もいた。
カインは、人間の群れの中にいた。
何度目かは、本人の記憶にはないだろう。
たくさんの人がいる。
たくさんの声がする。
たくさんの匂いがする。
ハヤトとユキ以外の生き物が、こんなにたくさん動いている。
カインの手が、ハヤトの胸元をぎゅっと掴んだ。
怖いのではなかった。
圧倒されているのだ。
見るものも、聞くものも、多すぎる。
音も匂いも色も動きも、全部が一度に押し寄せてくる。
カインはハヤトの胸に顔を半分埋めて、片目だけで周囲を窺っていた。
ハヤトは、抱き紐の上からカインの背を、ぽん、と叩いた。
「大丈夫だ。知っている人の店だ」
通りの先に、ゴルドの雑貨屋の看板が見えた。




