第7話 軌跡視の騎士
雨上がりの屋敷は、音が少なかった。
濡れた土の匂いと、葉の裏に残った雫が落ちる音だけが、薄い膜みたいに世界を包んでいる。
クロエは離れの窓辺で、庭を見ていた。
見ている、というより――見せられている、が正しい。
結界の淡い光が、窓枠の外側でふと脈打つ。透明な檻。
鳥が枝に留まっても、あの光の境界を越えてこちらへは来ない。こちらからも、出られない。
「……今日も、出られないんだね」
誰に言ったわけでもない独り言に、黒猫のジオが小さく鼻を鳴らした。
クロエの膝へ当然みたいに跳び乗って、丸くなる。
「出られるわけないだろ。出たら死ぬか、連れ戻されるかだ」
その“声”が耳に届いてしまうことに、まだ慣れない。
慣れたくもない。慣れたら、本当に自分がこの世界から一枚ずつ剥がれていきそうで怖い。
「……わたし、まだ生きてるんだよね」
ジオは答えない。ただ、温かい。
その体温だけが、クロエの輪郭を保ってくれる。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
規則正しい、靴底が板を叩く音。使用人の音とは違う。
クロエは思わず背筋を固くした。
扉が二度、軽く叩かれる。
「失礼いたします。クロエ様」
声は若い男のものだった。落ち着いていて、張りつめた空気に傷をつけない声。
次の瞬間、扉が開いた。
入ってきたのは、騎士装束の青年――礼節を身体に染み込ませたような姿勢の男だった。
彼は膝をつき、頭を下げた。
「公爵家私設騎士、レオン・グレイと申します。セドリック殿の命で参りました」
“殿”。
その呼び方だけで、セドリックがこの屋敷でどんな位置にいるのかが伝わってきて、クロエの胃がきゅっと縮む。
「……セドリックお兄様は?」
「本日は会議が続いております。――ただ、あなたのお怪我と状態を確認する者を寄越せ、と」
優しい言い方だ。けれど“寄越せ”という言葉の芯は硬い。
クロエは、また胸の奥に暗い塊が沈むのを感じた。
ジオが膝の上で、しっぽをぴしりと動かす。
『こいつ、匂いが変じゃない。敵じゃない』
その判定に、クロエはほんの少しだけ息を吐いた。
それでも、信用するのは怖い。
「……わたしに何か用ですか」
レオンは顔を上げ、視線を合わせずに――合わせる寸前で少しだけ逸らし、適切な距離を守った。
「はい。結界の内側の見回りを増やす件と、今後の安全についてご相談を。……それと」
言いにくそうに、言葉を選ぶ。
「クロエ様が“何者かに陥れられた可能性”について、殿は調べるおつもりです」
クロエの指先が、膝の上の毛を掴む。
痛いほど握りしめていたのに気づいて、慌てて力を抜いた。
「……調べる?」
「はい。殿は、あなたが横領や偽造に関わったとは……――思っていないように見えました」
“見えました”。
言い切らないところが、逆に誠実で怖い。
クロエは笑ってしまいそうになった。乾いた笑いが出そうになる。
「でも、お兄様は。わたしを助けなかった」
レオンは一瞬だけ瞬きをした。
答えを飲み込むように、喉仏が上下する。
「……申し上げられることと、申し上げられないことがございます」
やっぱり。
クロエは、視線を窓へ逃がした。庭の木々の影が、濡れた地面の上で、何かを探すように蠢いている。
あれは風のせい。でも、今のクロエの目には、“意思”が見える。
「あなたも、結局は――」
「いいえ」
レオンは、静かに否定した。声を荒げず、しかし明確に。
「私は、あなたの敵ではありません。……そして、“あなたの味方になれる材料”を集めたい」
クロエは、眉をひそめた。
「材料?」
レオンはゆっくり立ち上がる。
そして、腰のあたりに手を添え――剣ではなく、革の手帳を取り出した。
「私のギフトは、軌跡視――と呼ばれています」
クロエはその単語に、心が少し動くのを感じた。
社交界で聞いたことがある。派手ではない。でも――ある種の人間にとっては致命的な力。
「物や人が“どこからどこへ動いたか”の痕跡が視えます。完全ではありませんが、条件が揃えば……かなり正確に追えます」
クロエの脳裏に、舞踏会が蘇る。
白い手袋、煌めく宝石、甘い香り。セラフィナの涙。
そして――自分の名で書かれた“偽造手紙”。
「……そんなことが」
「はい。たとえば」
レオンは手帳を開かずに、目を伏せたまま続けた。
「慈善金が消えたという“袋”や“帳簿”、偽造手紙の“紙”や“封蝋”、それらが最後に触れられた人物。運ばれた経路。……そういったものを、追える可能性があります」
クロエの胸の奥で、何かが久しぶりに“形”を持った。
怒りでも、恐怖でもない。――輪郭のある、希望。
けれど同時に、別の疑念が生まれる。
「それを……お兄様が、わたしのために?」
口に出した瞬間、自分で自分が恥ずかしくなった。
期待したいのに、期待する資格がない気がする。
だってあの人は、冷たかった。ずっと。
レオンは、少しだけ眉を寄せた。
「……殿は、“あなたを守る必要がある”と判断されています」
守る。
その言葉は温かいはずなのに、クロエの胸は冷えた。
「必要だから、ですか」
レオンは言い返さない。否定もしない。
ただ、真っ直ぐに言った。
「あなたが死ねば――困る者がいる。だから、守る。そういう理屈を使う殿です」
クロエは唇を噛んだ。
理屈。
“好き”なんて言葉は、どこにもない。
ジオが小さく鳴いた。
『殿って呼ぶな。腹立つ』
(ジオ、声が聞こえないってことは……この人も、普通なんだよね)
クロエは心の中で呟いて、ふっと少しだけ呼吸を整える。
「……軌跡視で、偽造手紙の紙は追えるんですか」
レオンの目がわずかに見開かれた。
クロエが“話を聞く側”から“問う側”へ移ったことを、彼は感じ取ったのだろう。
「はい。封蝋の欠片でも。――ただし、現物が必要です」
「現物……」
クロエの頭に、舞踏会で提示された手紙の映像が浮かぶ。
あれは今、どこにある? 王家? セラフィナ? それとも……エリック?
その名を思い出しただけで、胃がねじれる。
王太子エリック。
誓約支配を持つ男。
言葉で縛り、心を縛り、口を封じる――支配が似合いすぎる人間。
「……あの人は、証拠を残すほど間抜けじゃない」
クロエがぽつりと漏らすと、レオンは静かに首を振った。
「残します。残さざるを得ない」
「どうして?」
「人間の罪は、いつも“手間”を伴います。手間は痕跡になります。――そして」
レオンは少しだけ声を低くした。
「あなたを陥れた者たちは、あなたを“平凡な令嬢”だと思っている。痕跡が追われるとは、想定していない」
クロエは一瞬、胸の奥が痛んだ。
平凡。地味。冴えない。
エリックが嫌った部分。セラフィナが笑った部分。取り巻きが踏みつけた部分。
でも今、その“軽視”が武器になる。
クロエは、小さく頷いた。
「……協力します」
レオンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ではまず、クロエ様の身の回りで“最近触れたもの”を確認させてください。衣類、薬、食器、手紙……そして」
視線が、膝の上の黒猫へ移る。
「――その子も、あなたの安全に関わっているようですね」
ジオがふん、と鼻を鳴らす。
『やっと気づいたか、人間』
クロエはジオの背を撫でた。
その毛は夜の闇みたいに黒いのに、触るとちゃんと温かい。
「この子は、ジオ。……わたしの、味方です」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが少しだけほどけた。
“味方”と言える存在がいる。
それだけで、世界はほんの少しだけ、広くなる。
廊下の遠くで、別の足音がした。
重くて、迷いのない足音。
空気の温度が一段落ちる。
クロエは反射的に身を固くした。
レオンが小さく息を吸う。
「……殿が戻られたようです」
ジオが、クロエの膝の上で身を起こした。耳がぴんと立つ。
『あいつか。嫌な匂いはしない。……でも、嫌なやつだ』
クロエは唇を結んだ。
窓の外、薄い雲の切れ間から、朝の光が庭に落ちる。
光は優しいのに、怖い。
だって、優しさはいつでも裏切る。クロエはそう学んだ。
扉の向こうで、止まる足音。
そして――結界が、かすかに鳴った。
まるで「ここから先は私の領域だ」と告げるみたいに。
クロエは、ジオを抱き寄せた。
(……次は、何を奪われるんだろう)
その不安に答えるように、ジオが喉を鳴らした。
『奪わせない。――まずは、生きろ』
扉の取っ手が、ゆっくり回る。
クロエの世界が、また動き始めた。




