第6話 ギフトの利用価値
窓の外は、細い雨が降り注ぎ、世界の輪郭が滲んでいるように感じた。
離れの屋根を叩く音は単調で、同じ場所に釘を打ち続けるみたいに、心を削っていく。窓の外の木々は濡れて黒くなり、風に揺れるたび枝から水滴が落ちた。
クロエは膝を抱え、窓辺の椅子に座っていた。
外に出られない。
その事実が、昨日よりも重くなる。慣れるどころか、結界という“見えない壁”が、心の内側まで染みてくる。
ジオは窓枠の上に丸くなって、尻尾の先で窓ガラスを叩いていた。
「雨、好きじゃない」
「……私も」
クロエはぼそりと答えた。雨は嫌いじゃなかったはずなのに、今は違う。雨は、閉じ込められていることを強調する音になってしまった。
食事は相変わらず、扉の下から盆で届く。湯も、薬も、毛布も、十分すぎるほどある。
なのに。
(私は、囚人みたい)
囚人に与えられるのは、最低限の生存。ここで与えられるのは、丁寧な生存。
――丁寧に生かされる檻。
クロエは自分の腕を抱きしめた。森の夜、境界が溶けた感覚を思い出す。土の匂い。冷え。葉擦れ。闇。
森の冷たさは、自然だった。
でもこの冷たさは、誰かの意思だ。
「……セドリックお兄様は、ほんとに嫌なひと」
クロエが吐き捨てると、ジオは片目だけ開けた。
「嫌なやつ。だが死なせない」
「それが余計に嫌……」
クロエは笑いそうになって、泣きそうになった。
お兄様は私を嫌いなはずなのに、助けてくれる。
お兄様を恨みたいのに、でも最低限命を守られている。
心がどこにも落ち着かない。
そのとき、扉の向こうで足音がした。
今までなら、盆が置かれる音だけで終わる。けれど今日は違う。足音が止まり、扉をノックする音が一度だけ響いた。
クロエは息を止めた。
鍵が回る音。
扉が、開いた。
白い光が差し込んで――その向こうに、セドリックが立っていた。
濡れた外套。雨の匂い。肩口に水滴が残っているのに、彼の顔はいつも通り乾いて見えた。冷たく、整って、感情のない彫刻みたいに。
「……何の用ですか」
クロエは、できるだけ平静を装った。声が震えないように。
セドリックは部屋を見渡し、短く言った。
「回復しているな」
それだけ?
それだけ言うために、わざわざ自分で来たの?
クロエの胸が、嫌な方向にざわつく。
セドリックは扉を半分だけ閉めた。外の湿気が入り込み、雨の音が少し遠のく。
結界の気配が、厚くなる。
(……閉じ込めるために来たんだ)
クロエは立ち上がり、睨むようにセドリックを見た。
「私、まだ外に出られないんですよね」
セドリックは頷きもしない。
「当然だ」
「当然じゃない!」
クロエは言い返し――その瞬間、ジオが窓枠からすっと降りた。
軽い足音。尻尾を立てて、セドリックの前に立ちはだかる。
『こいつ、敵』
クロエにだけ聞こえる声。
セドリックはジオを見下ろした。猫を見る目というより、そこに置かれた“障害物”を見る目。
ジオが「シャー」と低く唸る。
セドリックは眉ひとつ動かさず、視線をクロエに戻した。
「……猫を飼うつもりか」
「飼うとか、そういう……」
クロエは言葉に詰まる。
ジオは森で自分を助けてくれた。相棒で、命綱で、――自分の生の輪郭だ。
なのに、この男に説明する言葉が、出てこない。
セドリックは淡々と続ける。
「屋敷内に野良を入れるのは本来なら許可しない」
クロエの胸がきゅっとなる。
奪われる。
また奪われる。
やっと見つけた“自分の味方”を、ここでも奪われる。
「だ、だめ……!」
クロエが思わずジオを抱き上げると、ジオは「うぐ」と小さく鳴いた。
「ジオは、ここにいる……!」
セドリックは無言で、腕の中の黒猫を見た。嫌悪でも愛玩でもない、ただの確認。冷たい視線。
「……名前までつけたのか」
「ジオはジオです。私の……私の、」
私の何?
家族? 友達? 相棒?
口にした瞬間、全部がこの檻に汚される気がして、クロエは言葉を飲み込んだ。
セドリックは机の上に、紙束を置いた。封筒。紋章入り。王都からの書状。
「……王都から、連絡が来ている」
クロエは反射的に身体が硬直した。
王都。
舞踏会。
断罪。
エリックの笑い声が耳の奥で蘇る。セラフィナの甘い香りと涙。会場を満たした偽物の光。
――けれど、それは“突然”じゃない。
(あの人は、ずっと前から私を嫌ってた)
地味で、胸もなくて、取り立てて美人でもない公爵令嬢。
エリックが好むのは、分かりやすく華やかな女――男の欲をそのまま形にしたみたいな女。
セラフィナはその代表だった。
胸が大きくて、笑うだけで人を惹きつける。涙を落とせば「可哀想」が味方につく。香水の甘さに男たちは簡単に頬を緩める。
(……浮気してるんだろうな)と気づいたのは、ずいぶん前だ。会場の隅で、視線が絡む回数が増えた頃から。私が背中を向けた瞬間に、二人の距離が縮むのを知っていた。
……でも。
別に、失恋じゃない。
私は一度だって、エリックを好きになったことはない。
好きになれないというより、最初から、そういう相手じゃなかった。
あの男が婚約を結んだのは、私ではなく“公爵家”だ。金と権力と、王家を支える後ろ盾。
そのくせ、王太子妃という檻に私を入れておきながら、私の存在そのものが気に入らない。
そして彼は、ずっと計算していた。
――公爵家は、どれだけ支援してくれる?
答えは薄かった。
社交界では、こう囁かれていたからだ。
「公爵家の次期当主、セドリック様は、妹君に冷淡だ」
「公爵令嬢のクロエ様は、兄君に嫌われているらしい」
……それは、私自身も薄々思っていたことだ。
セドリックお兄様はいつも冷たく、私を遠ざけた。
だからエリックは判断したのだろう。
(クロエと婚約を続けても、公爵家の支援は期待できない)
(なら、爵位は少し落ちても、好みの女を婚約者にしたほうが得だ)
婚約解消は、いつか来る。
ただ、その形が“断罪”になるとは思っていなかっただけ。
クロエは息を吐いた。
怖い。――けれど、これは恋の痛みじゃない。
これは、最初から人として扱われていなかった痛みだ。
セドリックの声が戻ってくる。
「お前に関する噂が広がっている」
セドリックは淡々と、刃物みたいな言葉で告げた。
「“盗み癖のある公爵令嬢”。“慈善を食い物にした女”。“追放されて当然”。そういう噂だ」
クロエの胃が冷える。
噂は人を殺す。
目に見えない刃で。
森よりも簡単に。
クロエは声を絞り出した。
「……私はやってないです」
セドリックの視線が、クロエの目の奥を覗き込む。
冷たいまま。だけど、逃がさない目。
「知っている」
その一言に、クロエの胸が一瞬だけ緩んで――すぐにまた締まった。
知っているなら、なぜ助けなかったの。
なぜ舞踏会で、突き放したの。
なぜ今も、檻に閉じ込めるの。
クロエが口を開こうとした瞬間、ジオが小さく言った。
「言うな。今はまだ」
クロエは息を飲む。
ジオの言葉に従うしかない自分が、悔しかった。
セドリックは紙束を指先で軽く叩いた。
「……森で、お前に変化があったな」
クロエの背筋が凍った。
(気づいた?)
自分にだけ起きた“変化”。
あの夜、森の中で――動物の声が言葉になった。
この世界で“特別”は、祝福じゃない。狙われる。奪われる。利用される。
クロエは無意識にジオを庇うように抱き直した。
「……何の話ですか」
セドリックは表情を変えない。
「お前の目が変わった。死にかけの目ではなくなった」
褒めているわけじゃない。
確認しているだけ。
クロエは笑いそうになった。
こんな男の言葉で、心が揺れるのが嫌だった。
「……生きるって決めただけです」
セドリックは少しだけ顎を引いた。
「その“生きる”は、何に支えられている」
クロエの喉が詰まる。
ジオ。
あなたには聞こえない声。
でも――隠し切れるのか?
ジオは賢いが、猫だ。いつかボロが出る。いや、すでに出ている。
クロエはセドリックの視線から逃げられず、ついに小さく言った。
「……森で、変なことが起きました」
「続けろ」
「……動物の声が、聞こえたんです」
雨音が、いきなり大きくなった気がした。
セドリックは瞬きすらしない。
「……それは、お前だけか」
クロエは唇を噛んで頷いた。
「はい。……私だけです。ほかの誰にも、そんな力は……」
“ギフト”という言葉を、クロエは口にしなかった。
口にした瞬間、奪われる気がしたから。
クロエは急いで言い訳するように続ける。
「聞こえたっていうか、気のせいかもしれないし、でも……でも、ジオが。ジオが私を助けてくれて……水場を教えて、危険を避けて……」
ジオが腕の中で「誇れ」とでも言うように、鼻を鳴らした。
セドリックは静かに言った。
「……希少だな」
その低い声が、クロエの心臓を叩く。
希少。
価値。
狙われる。
クロエは首を振った。
「や、やめてください。誰にも言わないで」
セドリックは容赦なく言う。
「言うつもりはない。だが――」
彼の視線が、クロエを貫く。
「それは利用できる」
クロエの顔から血の気が引いた。
――やっぱり。
そういう男だ。
セドリックは淡々と言う。
「動物の行動を理解し、誘導できるなら、情報収集に使える。監視にも、防衛にもなる」
クロエは震えた。
言葉が、刃だ。
ジオを、私を、道具に変える刃。
「……やめて」
クロエの声は小さかった。
セドリックは止まらない。
「王都では噂が回っている。お前が生きていること自体、邪魔だと思う者もいる。――その力があれば、対抗手段になる」
クロエは歯を食いしばった。
「対抗って……私は、戦いたいわけじゃない。私は……ただ、」
ただ、生きたいだけ。
ただ、奪われたものを取り戻したいだけ。
ただ、ジオと静かに暮らしたいだけ。
でも、そんな願いは、この世界では弱すぎる。
セドリックの声が落ちる。
「お前が生き残るために、利用する」
クロエは目の前が暗くなった。
利用。
利用価値。
自分はまた、誰かの都合で生かされるだけの存在なのか。
森で溶けかけた自分の輪郭が、再び薄くなる。
クロエは絞り出すように言った。
「……私を、物みたいに扱わないで」
セドリックは少しだけ、目を細めた。
怒りでも困惑でもない。冷静な判断。
「物ではない。……だが、価値は必要だ」
クロエは笑ってしまいそうになった。泣き笑いで。
「価値がないと、生きちゃいけないんですか」
セドリックの沈黙が、答えだった。
クロエはその沈黙に、昔から慣れていた。
クロエの両親は忙しく、権力を持ち、社交界の中心にいた。家は豊かで、立派で、でも――温かくなかった。
セドリックは養子で、家の中でも居場所が薄かった。
それなのにクロエだけは、しつこく追いかけた。
「お兄様、お兄様」って。
あの頃の自分は、価値とか利用とか、分からなかった。
ただ、寂しかった。
ただ、隣にいてほしかった。
でも今は分かる。
この世界では、優しさは弱い。
価値がない者は、簡単に捨てられる。
クロエはジオを抱きしめた。
ジオは小さく『息苦しい』と言ったが、逃げなかった。
クロエはセドリックを睨む。
「……私の力は、私のものです。あなたの道具じゃない」
セドリックは表情を変えないまま、言った。
「なら証明しろ」
「……何を?」
「お前が生きるための価値を、自分で作れ」
クロエは言葉を失った。
突き放しているのに、どこか――逃げ道を与える言い方。
でもそれが優しさだとは、絶対に認めたくなかった。
セドリックは扉に手をかける。
「雨が止むまで、休め。……猫は、当面は許す」
クロエが驚いて顔を上げると、セドリックは視線を逸らした。
「衛生管理は徹底させろ。毛が散る」
言い訳みたいな冷たい言い方。
クロエは唇を噛む。
(……許すって、何。上から目線で)
セドリックは最後に、淡々と告げた。
「その力の存在は、外には漏らすな。――狙われる」
それだけ言って、扉を閉めた。
鍵が回る音。
結界が、また厚くなる。
雨音が、戻ってくる。
クロエはその場に立ち尽くした。
ジオが腕の中で、ため息みたいに鳴いた。
「……利用価値、だってさ」
クロエは小さく笑ってしまった。
悔しくて、情けなくて、でも――どこか、熱が残っていた。
(自分で価値を作れ)
それは、酷い言葉だ。
けれど同時に、初めて誰かがクロエに投げた“可能性”にも聞こえた。
クロエは窓の外を見た。
雨に濡れた木々が揺れている。水滴が葉の先から落ちるたび、世界が少しずつ洗われていくみたいだった。
クロエは呟く。
「……私、証明してやる」
ジオが片耳だけ動かした。
「何を」
クロエは拳を握った。
「私が生きる理由は、誰かの都合じゃないってこと」
雨音が、静かに続く。
けれどその音は、もう昨日ほど重くなかった。
閉じ込められていても。
檻の中でも。
クロエの中の“輪郭”は、少しずつ濃くなっていく。
――そして、その輪郭が濃くなるほど。
誰かが、それを奪いに来る。
クロエは、なぜか背筋に冷たいものを感じて、窓の外を凝視した。
濡れた庭の向こう。
木々の影が、濡れた地面の上で、何かを探すように蠢いていた。




