第8話 刺客未遂
夜は、音が少なかった。
昼間あれほど騒がしかった鳥も、虫も、どこかへ消えて――残るのは、結界が呼吸するように微かに鳴る音だけ。
離れの中は暖かい。毛布も、湯も、薬草の香りもある。
それが、余計に気味が悪い。
クロエは寝台の端に座ったまま、窓の外を見ていた。
闇の庭。濡れた芝。木々の影が、地面の上で何かを探すように蠢いている。
「……ここは、守られてるんだよね」
自分に言い聞かせる声が、薄い壁に吸われる。
膝の上で、ジオが小さく身を起こした。耳が尖る。
次の瞬間、クロエの頭の奥に“声”が落ちてきた。
「……来る」
「え?」
「外。黒い匂い。鉄。……甘いのも混じってる」
甘い――その言葉が、クロエの背筋を冷やした。
舞踏会の、あの匂い。花蜜みたいに甘ったるい、涙の裏に隠れた香り。
ジオは寝台から床へ飛び降り、扉のほうへ向かった。
毛の逆立つ背中。静かな怒り。
「おい、起きろ。息を殺せ。灯りは消せ」
クロエは言われるままに、卓上の灯りへ手を伸ばし、息を止めた。
炎が消え、部屋が闇に沈む。
――その瞬間。
庭のほうで、かすかな“擦れる音”がした。
草を踏む足音。ゆっくり。慎重。獣ではない。
クロエは喉が鳴るのを堪えた。
結界がある。出入りできない。だから大丈夫。
そう思うのに、森で捨てられた夜の記憶が皮膚の下を這う。
窓の外、闇の中で何かが動いた。
人影――ではなく、影の濃さが一段増したような“欠け”が、結界の手前で止まる。
結界の光が、薄く脈打つ。
次に見えたのは、白い布。
顔を隠すフード。
そして、刃先の鈍い反射。
クロエは息を飲んだ。
「人間だ。刃物持ち。……結界を探ってる」
ジオが低く唸る。
クロエは無意識に寝台の柱を掴んだ。指先が冷たい。
刺客は、結界の境目に何かを押し当てた。
黒い粉のようなもの。
甘い香りが、夜の空気にじわりと広がっていく。
クロエの胃がひくりと痙攣した。
この匂いは――ただの香水じゃない。
嗅いだだけで、感情がふわりと持ち上がるような、あの異様な“花蜜”。
結界が、わずかに揺れた。
光の膜が、水面みたいに波打つ。
「うそ……」
守りのはずの膜が、削られている。
刺客は、結界の“薄い場所”を探している――まるで地図でも持っているみたいに。
ジオが窓枠へ飛び乗り、爪を立てそうな勢いで身を前へ乗り出した。
「こいつ、結界を破る気だ。……おい、動くな。匂いを吸うな」
クロエは口元を袖で覆った。
心臓がうるさい。自分の音が、外へ漏れてしまいそうだ。
結界が、再び揺れる。
波。波。波。
そして――薄い膜の一部が、針で刺された布みたいに、ほんの僅かに“歪んだ”。
刺客の刃が、その歪みに向けられる。
次の瞬間。
結界が、弾けるように光った。
刺客が跳ね退く。刃が空を切る。
結界は破れていない。だが、試されている。削られている。
ジオが――窓越しに、歯をむき出して唸った。
「こっち見るな。帰れ」
刺客が、ふっと顔を上げた。
闇の中で、こちらを見た気がした。
目が合ったわけじゃない。なのに、見られたと本能が叫ぶ。
クロエは後ずさり、床に落ちた。
寝台の影に身を押し込める。
扉の外――廊下の向こうで、何かが“鳴った”。
鈴の音のような、金属の軽い音。
そして、硬い足音が一つ。
空気が凍る。
結界が、ふっと強く脈打った。
まるで「ここから先は通さない」と、怒りを帯びた呼吸みたいに。
刺客は一瞬止まり、舌打ちをしたように見えた。
それでも、刃を諦めない。
――そのとき。
扉が開いた。
黒い影が、部屋の中へ滑り込む。
背が高く、冷たい空気を纏った男。
セドリックだ。
灯りのない部屋で、彼の輪郭だけが結界の淡い光に縁取られ、刃みたいに見えた。
「動くな」
クロエに向けた声だった。
命令。叱責の前段。
胸が、条件反射みたいに縮む。
セドリックは窓へ視線を走らせる。
結界の揺れ。外の人影。甘い香り。
彼の目が一瞬だけ、鋭く細くなった。
次の瞬間、空気が“張った”。
結界が強くなる。
淡い光が、庭の闇を押し返す。
まるで見えない壁が、もう一枚、外側に重ねられたように。
刺客が弾かれた。
体がふっと浮き、地面へ叩きつけられるように倒れる。
そして――刺客は逃げた。
闇へ。木々の影へ。甘い匂いを引きずって。
結界の光が、ゆっくり落ち着いていく。
静寂が戻った。
――けれど、クロエの中の静寂は、戻らない。
セドリックは振り向いた。
その視線が、クロエの喉を塞ぐ。
「……何をしている」
クロエは床に座り込んだまま、声が出ない。
恐怖で。悔しさで。情けなさで。
「結界があるからと、油断したのか」
「……油断してない」
やっと出た声は、かすれていた。
「だって、ここから出られないって――」
「出られないことと、入れないことは同義ではない」
冷たく切られた言葉。
クロエの胸に、また檻の形が刻まれる。
セドリックは一歩近づき、床の上のクロエを見下ろした。
その目に心配はない。あるのは、苛立ちと警戒。
――そう見える。
「甘い匂いがした」
クロエが言うと、セドリックはわずかに眉を動かした。
「嗅いだのか」
「……嗅ぎたくて嗅いだわけじゃない」
ジオがセドリックの足元で、尾を膨らませて立っている。
怒っている。
ジオはクロエを守ってくれていた。
「こいつが知らせてくれた」
クロエはジオの背を撫でた。
震える手で。ありがとう、と言う代わりに。
セドリックはジオを一瞥し、すぐに視線をクロエへ戻した。
「今後、夜は窓辺に立つな。灯りも消すな。結界が揺れたら、すぐ呼べ」
命令が並ぶ。
正しい。正しいけど、喉が痛い。
「呼べって……誰を。お兄様はいつもいないじゃない」
クロエの声に、苛立ちが混じった。
自分でも驚くほど、棘が立っていた。
セドリックの目が、ほんの少しだけ揺れた。
――ほんの一瞬。
でもすぐ、氷みたいに固まる。
「俺が来る」
「来て、叱るだけ?」
クロエの唇が震える。
森で捨てられた夜。
救われたのに、救われた気がしない。
守られているのに、尊厳が削れていく。
セドリックは黙った。
沈黙は答えにならない。
クロエは床の上で、こぶしを握った。
爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぐ。
「……わたし、もう嫌なの」
声が、ひどく小さくなった。
「閉じ込められて、監視されて、怒られて。
守られてるって言われても、わたしは……わたしのままじゃいられない」
セドリックは表情を変えない。
変えないから、余計に怖い。
けれど次に出た言葉は、冷たい刃のように――意味深だった。
「クロエが死ねば公爵家が困る」
クロエは、息が止まった。
「……困る?」
それは“愛”にも聞こえるし、“利用”にも聞こえる。
以前セドリックに言われた「利用価値がある」という言葉が、脳裏を刺す。
「理由は?」
クロエが問うと、セドリックは視線を逸らさずに言った。
「今は言えない」
またそれだ。
言えない。話せない。答えない。
クロエの中で、何かがぷつりと切れた。
「じゃあ、わたしは何なの」
涙が出そうだった。
泣きたくない。セラフィナみたいに“涙”を武器にしたくない。
でも、涙は出る。勝手に。
「道具? 証拠? 公爵家の娘だから?」
セドリックの眉がわずかに寄った。
それが怒りなのか、痛みなのか分からない。
「――違う」
短い否定。
でも、何が違うのかは言わない。
クロエは立ち上がろうとして、足がもつれた。
セドリックが手を伸ばしかけ――止めた。
触れるのは許されない距離みたいに、手が宙で固まる。
クロエは、自力で立った。
膝が震えている。それでも、立った。
「……わたし、分かった」
声は震えていた。
でも、言葉ははっきりしていた。
「守られるだけじゃ、また同じになる。
王太子の前でも、舞踏会でも、森でも――わたしは、誰かの決めた場所に置かれただけ」
セドリックの目が、僅かに細くなる。
何か言いたげに。
でも言わない。
クロエはジオを抱き上げた。
黒い体が腕の中で重く、確かな温度をくれる。
『いい。そうだ。立て。立って、選べ』
クロエは小さく息を吸い、吐いた。
それだけで胸が痛むほど、今まで“自分の呼吸”を奪われていたのだと気づく。
「……わたし、自分で終わらせる」
セドリックの視線が、鋭くなる。
「何を言っている」
「死ぬって意味じゃない」
クロエは首を振った。
涙を飲み込んで、言う。
「このまま“回収されるだけの人形”でいるのを、終わらせる。
わたしが、わたしの名前を取り戻す」
セドリックは無言だった。
結界の光が、二人の間に薄く漂う。守りの光。檻の光。
廊下の向こうで、騎士たちの足音が増えた。見回りが始まる。
今夜の侵入が“未遂”で終わったことを、屋敷全体が遅れて理解し始めた音。
クロエはセドリックを見上げた。
「……あなたが理由を言えないなら、わたしは自分の理由で動く」
ジオが腕の中で喉を鳴らす。
それは、震えるクロエの背中を押す低い鼓動みたいだった。
セドリックは、ほんのわずかに――ほんの一瞬だけ、息を詰めた。
そして、いつもの冷たい声で言った。
「勝手は許さない」
クロエは笑わなかった。
ただ、静かに答えた。
「許されるために生きてない」
結界が、かすかに鳴った。
外の闇に残る甘い匂いが、風に薄まっていく。
刺客は去った。
けれど“狙われている”という事実だけが、クロエの中に爪痕を残した。
(わたしは、守られるだけじゃ嫌だ)
その夜、クロエは初めて――
自分の意思で、反撃の芽を抱いた。




