第3話 黒猫ジオ
足音が、近づいてくる。
重い。人の足音だ。枯葉を踏み潰す音が、ためらいなく森を裂いていく。
クロエは仰向けのまま、息を殺した。胸が上下するたび、土の冷えが背骨に沁みる。立てない。逃げられない。声も出ない。
(……口封じ?)
エリックの顔が浮かんだ。
誓約支配。見苦しい。自業自得。追放。森へ。
あの目は、最初から「いなくなれ」と言っていた。追放で済むはずがない。慈善金の横領が公爵家に波及すれば、面倒になる。なら――罪人が森で死んだことにしてしまえば、いちばん楽だ。
クロエの指先が、泥の中で小さく動く。
でも、力が入らない。
黒猫は、クロエの少し先で立ち止まった。
黄の瞳が、闇を切り裂く。耳がぴくりと動き、尻尾が低く揺れる。
逃げろ、と言っているように見えた。
それなのに黒猫は逃げなかった。代わりに、足音の方を向く。そして、喉の奥で低い音を鳴らした。
――フ、ゥ……。
威嚇だ。
次の瞬間、闇の奥から、男の声がした。
「……いたぞ」
火が灯る。松明の赤い光が木々の幹を舐め、影が跳ねる。
衛兵の服。王家の紋章の入った外套。二人、三人。剣の金具が鳴る音が近い。
「王太子殿下の命だ。見つけ次第――」
言葉の続きは、聞きたくない。
クロエは歯を食いしばった。身体が震える。怖い。苦しい。助けて。
でも、森の匂いしか答えない。
黒猫が動いた。
しなやかに、闇を滑るように。松明の光が届かない影へ、するりと消える……と思ったら、わざと枯葉を踏んだ。
ザリッ。
わざと音を立てたのだ。
「そっちだ!」
衛兵が松明を向ける。黒猫の影が、ちらりと見える。
クロエの胸が跳ねた。
(……囮?)
黒猫は一瞬だけ振り返った。
黄の目が、クロエを捉える。
その目が言う。
――動け。
クロエは必死で腕に力を込めた。泥の中に手を突っ込み、肘を立てる。膝を引き寄せる。息が喉で擦れる。視界が揺れる。
黒猫がもう一度、枯葉を鳴らす。
ザリ、ザリ。
衛兵の足音がそちらへ集中する。
「捕まえろ! 猫だろうが何だろうが、邪魔するなら斬れ!」
猫。
彼らは猫を追っている。クロエではなく。黒猫は、クロエを“置いて”走っている。
(……今だ)
クロエは歯を食いしばり、這った。
ドレスの裾が泥にまみれ、引き裂かれる。宝石が土に当たり、鈍い音を立てた。衛兵がこちらに気づいたら終わり。
クロエは木の根元へ身を寄せた。幹は冷たく、濡れている。樹皮のざらつきが掌に痛い。痛みは、生きている証拠だった。
そのとき。
松明の光が遠ざかり、代わりに森の奥から、黒猫の足音が戻ってきた。
音もなく。
気配だけ。
黒猫はクロエの目の前に現れた。鼻先が泥で少し汚れている。息は乱れていない。狩りをする者の静けさだ。
クロエは、震える指で黒猫を指した。
「……あなた……どうして……」
声は掠れ、言葉にならない。
黒猫は「ニャ」と短く鳴く。
ただの鳴き声のはずなのに――
「こっち」
そう聞こえた。
クロエは息を止めた。
(……え?)
幻聴? 恐怖で頭がおかしくなった?
黒猫はクロエをじっと見たまま、もう一度鳴く。
「――こっち。落ちるな」
はっきりとした“言葉”だった。
クロエの背筋が、ひやりと冷たくなった。心臓が早鐘を打つ。
「……い、今……」
黒猫は面倒くさそうに尻尾を振った。
「うるさい。喋る暇あるなら動け」
――喋った。
黒猫が、喋った。
クロエの目から涙が溢れた。恐怖か、安堵か、自分でも分からない。森に溶けかけていた輪郭が、急にくっきり戻ってくる。
生きている。私は。ここにいる。
黒猫は踵を返し、すっと暗闇へ歩き出した。歩き方が、人間みたいに迷いがない。
「……待って」
クロエが掠れ声で言うと、黒猫は振り返らずに言った。
「置いてくぞ。勝手に死ぬな」
死ぬな。
その言葉が、胸の奥に刺さった。まだ、私は死んでいない。死んでいい理由なんて、たくさんあるのに――この猫は、許してくれない。
クロエは必死で黒猫の後を追った。膝で泥を押し、手で根を掴み、立ち上がる。ふらつきながらも、黒い影を見失わないようにする。
黒猫は、森の奥へ奥へと進んだ。
松明の光が届かない場所。人間の足が嫌がる湿地の縁。枝が絡み、通れそうにない藪の隙間。
「ここ」
黒猫が低く言い、葉の影に鼻先を突っ込んだ。
クロエが覗くと、そこに小さな穴があった。獣道の終点。倒木の根が作った空洞。中は乾いていて、苔の匂いがする。
「入れ」
「……でも」
「黙って入れ」
クロエは言われるまま、膝を折って潜り込んだ。ドレスが引っかかり、布が裂ける音がした。宝石が石に当たり、カチ、と鳴る。
黒猫が素早く続き、入り口の前に座った。
まるで門番みたいに。
外の森は、再び無音に戻った。遠くで枝が折れる音がする。衛兵の声がかすかに聞こえる。
「どこだ! 見失った!」
「猫が……あの黒い猫が……!」
黒猫が、鼻先をひくひくさせた。
そして、小さく吐き捨てるように言う。
「……甘い匂い」
クロエは息を止めた。
甘い匂い。舞踏会で嗅いだ、蜂蜜と花弁と涙の匂い。
「……セラフィナ、の……?」
黒猫は「知らん」と言いながら、耳を伏せた。
「人間の女の匂いはだいたい同じだ。けど、これは――胸がむかむかする」
黒猫が一瞬、舌を出して口元を舐めた。嫌悪しているのが分かる。匂いに敏感なのだ。猫だから。――いや、この猫だから。
クロエは膝を抱えた。身体が震える。寒さだけじゃない。
「……あなた、誰?」
黒猫はやっと、クロエを見た。
黄の瞳が、洞の暗闇で淡く光る。
「名前?」
「……うん」
黒猫は少し考えるように鼻を鳴らし、言った。
「ジオ」
ジオ。
短くて、硬い音。夜の森に似合う名前だ。
クロエは喉を鳴らした。笑いじゃない。泣きでもない。声にならない、何か。
「……ジオ。どうして、私を助けるの?」
ジオは、面倒くさそうに目を細めた。
「助けてない。勝手に死なれたら困るだけ」
「……困る?」
「うるさい。今は息を止めろ」
ジオの声が低くなる。外の気配が近づいたのだ。
クロエは慌てて口を押さえた。息を吸う音さえ怖い。心臓の鼓動が大きすぎる。森に聞かれてしまいそうだ。
外で、草を踏む音。
入り口のすぐ近くを誰かが通った。
「……ここらにいるはずだ」
「殿下の命だ。見つけられなければ俺たちが――」
言葉の後半は、また聞きたくない。
足音が遠ざかる。松明の光が一瞬だけ洞の入り口を掠め、苔の緑が赤く染まる。クロエは息を止めたまま、ジオの背中だけを見ていた。
ジオの背中は小さい。なのに、妙に頼もしい。猫一匹にこんな気持ちを抱くなんて、滑稽だ。
でも、今のクロエには、それしかない。
――足音が完全に遠ざかった。
ジオが、小さく息を吐く。
「よし」
クロエも、やっと息を吸った。冷たい空気が肺に刺さる。咳が出そうになるのを、必死で飲み込む。
「……ありがとう」
クロエが言うと、ジオは鼻で笑った。
「礼はいらん。生きるなら動け。死ぬなら勝手にしろ。――でも、勝手に死ぬな」
矛盾している。怒っているのか、心配しているのか、分からない。
クロエは唇を噛んだ。
「……私、どうしたら……」
ジオは顔を背け、洞の外を見た。
「水。おまえの匂い、乾いてる」
匂い。猫の言い方だ。けれど、言われてみれば確かに喉が焼けるように渇いていた。
ジオは洞から出ると、耳を澄ませ、森の匂いを読むように鼻先を上げた。
「ついてこい。音を立てるな。光るものは捨てろ」
「光るもの……?」
クロエが胸元の宝石に触れると、ジオはうんざりした顔をした。
「それ。夜に光る。獣も人も寄ってくる。いらん」
クロエは迷った。家の象徴。母がくれたもの。けれど、今それはただの餌でしかない。
指先が震えながらも、クロエは宝石を外し、土の上に置いた。
カチ、と小さな音。
ジオが、さっと前足で落ち葉をかける。
「よし。これで少しマシ」
クロエは息を呑んだ。
猫が……埋めた。人間の宝石を、落ち葉で隠した。しかも、当たり前みたいに。
「……あなた、本当に猫?」
ジオが振り返った。黄の目が冷たい。
「おまえ、本当に人間? 質問ばっかりだな」
クロエは思わず口を押さえた。小さく笑ってしまったのだ。笑える。今の状況で。
笑うと、胸の奥が痛い。でも、痛みの質が違う。森に溶けていく痛みじゃなくて、“戻ってきた痛み”だ。
ジオは森を進みながら、時折立ち止まって耳を動かす。枝の向こうの音を聞いている。水の音、獣の気配、人間の気配。
クロエは必死でついていった。ドレスの裾を掴み、転ばないように足を運ぶ。呼吸が荒くなると、ジオが振り返って睨む。
「息、荒い。止まれ」
「……ごめん」
「謝るな。生きるために黙れ」
不器用な命令だった。
やがて、微かな水音が聞こえた。
ジオが藪を抜けると、小さな沢があった。月の光が水面に落ち、細い銀の線になって揺れている。森の闇の中で、水だけが別世界みたいに明るい。
クロエは膝をつき、両手で水をすくった。冷たい。沁みる。喉が、ようやく“ここにある”と戻ってくる。
そのとき、クロエの耳に、奇妙なものが入った。
水音の中に、別の音。
「……かわいそう」
「……あの子、そんなことしない」
――人の声。
クロエは凍りついた。
(幻聴? まだ、舞踏会の……?)
でも違う。声は外からじゃない。頭の内側でもない。
水辺の岩陰から、ぴょん、と小さな影が跳ねた。
野うさぎ。
丸い目でクロエを見て、耳を立てる。そして、確かに“言った”。
「こわい、こわい」
クロエは息を呑んだ。
「……今、あなた……」
野うさぎは首を傾げ、ぴょん、と跳ねて茂みに消えた。
クロエの手が震えた。水が指の間から落ちる。
ジオが呆れた声を出す。
「やっと聞こえたか」
「……聞こえた……?」
「おまえ、さっきから、俺の声が聞こえてるだろ。今さら驚くな」
ジオの尻尾がぱたん、と地面を打つ。
「おまえのギフトだ。森で発現したんだろ」
クロエの頭が追いつかない。
ギフト。
自分にはないと笑われ続けた、それ。
「……私の、ギフト……?」
ジオは軽く鼻を鳴らす。
「動物の声が聞こえる。――それだけ」
それだけ。
社交界なら笑うだろう。地味だと。戦争には役に立たないと。王太子妃候補には相応しくないと。
でも、今のクロエにとっては。
生きるための、唯一の糸だ。
クロエは沢の水面を見つめた。月の光が揺れている。そこに映る自分は、泥だらけで、髪も乱れて、頬は青白い。舞踏会の“嘘みたいに綺麗”なクロエじゃない。
それなのに、胸の奥に小さな火が灯る。
(……私、生きてる)
森に溶けかけた境界線が、音で、声で、少しずつ戻ってくる。
ジオが言う。
「ここは危ない。人の匂いがする。移動するぞ」
「人の匂い……追手?」
ジオの耳が伏せられた。
「甘い匂いもする」
クロエの喉が鳴った。
甘い匂い。花蜜。涙。セラフィナ。
(……本当に、追ってきてるんだ)
ジオは沢を渡り、森の奥へ進み始めた。クロエも立ち上がり、震える足でついていく。
その背中――黒い毛並みは夜に溶けて見えにくいのに、不思議と見失わない。
まるで、あの黄の目が、星みたいに道を示しているからだ。
雲の切れ間から、冷たい星が覗いた。
光は弱い。けれど、確かにそこにある。
クロエはジオに追いつこうと、小さく息を吐いた。
「……ジオ」
名前を呼ぶと、ジオは少しだけ耳を動かした。返事はない。けれど、その耳の動きが「聞いている」と言っていた。
クロエの胸の奥で、また小さな痛みがした。
それは、さっきの絶望の痛みとは違う。
生きる痛み。
まだ怖い。まだ寒い。まだ何も解決していない。
でも、夜の森の中で、ひとつだけ確かなものができた。
――私は、ひとりじゃない。
その確かさが、星の光みたいに細く、冷たく、そして強く、胸の奥で揺れていた。




