第4話 回収
夜明けは、森の中では遅い。
空だけが青くなっていくのに、木々はまだ闇を抱いている。枝の隙間から落ちる白い光は細く、冷たく、まるで“ここはまだ夜だ”と念押しするみたいだった。
クロエは膝を抱えたまま、指を握りしめる。
寒い。骨の芯まで冷たい。
それでも眠れなかった。眠ったら、また自分の輪郭が溶けて、森に吸い込まれてしまいそうだったから。
隣でジオが丸くなっている。黒い毛の塊。小さな体温だけが、世界の“現実”を繋いでいる。
(……あなたがいてくれたから)
それだけは、嘘じゃない。
「水、飲め」
ジオが目を閉じたまま言った。
クロエは小さく頷き、掌ですくった水を口に運ぶ。冷たい水が喉を刺す。けれど、刺さる痛みが“生”を引き戻す。
クロエが息を吐いた瞬間、ジオの耳がぴくりと動いた。
「――来る」
たった一言で、クロエの血が冷える。
「……追手?」
「人。鉄。馬。……あと、甘い匂い」
甘い匂い。
舞踏会の、蜂蜜と花と涙の匂い。セラフィナの存在が、森の冷気の中でひどく異物だった。
クロエは立ち上がろうとして、ふらつく。
ジオが舌打ちした。
「遅い。息を薄くしろ。音を立てるな」
クロエは木の幹に身を寄せ、胸を押さえた。心臓の音が大きすぎる。森の夜露さえ揺らしてしまいそうだ。
遠くで声がする。
「森の外れまで探せ」
「女は弱ってる。遠くへは行けない」
「殿下の命だ。必ず――」
殿下。
エリック様。
クロエは歯を食いしばった。涙が出そうになるのを、喉の奥で押し殺す。
(……殺す気なんだ)
追放じゃない。口封じ。生きて戻られたら困る。だから、森で終わらせる。
そのときだった。
森の空気が、ぱん、と張った。
見えない膜が広がるように、夜露を震わせ、葉の間を滑り、世界の境界を作る。淡い青白い光が木々の間に走った。
「……結界」
ジオが低く唸る。
守護系のギフト。派手じゃない。けれど、“境界を作る”という意味で一番残酷な力だ。
森の奥から、静かな足音が近づいた。
松明の光でもない、月光でもない淡い結界光の中に、男の輪郭が浮かび上がる。
深い青の外套の胸元に、レグラン公爵家の紋章があった。
クロエの喉が縮んだ。
「……セドリックお兄様」
義兄はクロエを見た。
舞踏会で見たのと同じ、温度のない目だった。
結界の膜がさらに広がっていく。外側の森が遠くなる。追手の足音が、急に鈍る。
「っ、なんだこの……!」
「入れない……結界だ!」
「引け!」
衛兵の声が遠くで荒れる。
助かった――はずなのに、クロエの背筋に冷たいものが走る。
(……これ、守りじゃなくて……閉じ込めるものだ)
セドリックが淡々と言った。
「立てるか」
問いじゃない。確認だけ。
クロエは震えながら言い返す。
「……助けに来たの?」
セドリックの口元がわずかに動く。
「回収に来た」
その言葉が、クロエの胸に突き刺さる。
救出じゃない。回収。物の扱い。
ジオがクロエの足元に出て、背中を弓なりにして毛を逆立てた。
『……敵!』
クロエには、ジオの声がはっきり聞こえる。
でも――セドリックは、その声が聞こえない。
セドリックはただ、猫を“いるもの”として見ただけだった。視線の端に入れ、興味のないものを避けるみたいに一瞬で外す。
「猫か」
それだけ。
ジオはさらに唸る。
『触るな! クロエに――』
クロエは反射的にジオを制するように手を伸ばしかけて、引っ込めた。
(……だめ。セドリックには聞こえない)
クロエだけが聞こえる。
このギフトは、クロエの中だけの世界だ。
セドリックはクロエに歩み寄り、手首を掴んだ。熱い手。冷たい言葉。
「歩けるなら歩け。無理なら抱える」
クロエは引き剥がそうとした。
「放して……!」
「暴れるな」
クロエの喉が震える。
「……私、監禁されるの?」
セドリックは答えない。
代わりに、淡々と言った。
「クロエが死ねば公爵家が困る」
困る。
助けたいじゃない。心配じゃない。
利で動いているだけだ。
クロエの胸の奥に、怒りが灯る。
「……利用するため?」
セドリックの目が細くなる。
「今、その話は要らない」
「要らない……?」
クロエの声が掠れる。
「私の人生の話なのに……!」
セドリックの声が落ちる。刃みたいに冷たい。
「黙れ、クロエ」
クロエの身体が固まった。
昔からそうだった。この声で止められると、頭が真っ白になる。反抗したいのに、できない。
ジオがクロエの足元を叩くように尻尾を振った。
『行くな! こいつ――』
クロエは小さく首を振った。
(今は……)
今は、生きる。
生きるために、この“結界の内側”に入るしかない。
セドリックが指先で空をなぞると、結界が狭まった。外の森の音が遠のく。鳥の声も風の音も薄くなる。
世界が二つに分かれた。
内側に、クロエとセドリックとジオ。
外側に、追手と闇と、王都の嘘。
クロエは呟く。
「……私、帰る場所なんて……」
セドリックは答えない。
ただ冷たく言った。
「口を閉じろ。――帰るのは、俺の屋敷だ」
俺の屋敷。
それは“保護”じゃなくて、“所有”に聞こえた。
ジオがクロエを見上げる。
「……クロエ。戻れるのか」
クロエは答えられない。
怖い。
守られることが、こんなに怖い。
セドリックはクロエの肩を掴み、言い捨てる。
「――二度と勝手に死ぬな」
命令の形。
でも、クロエの胸の奥では、昨日ジオに言われた「勝手に死ぬな」が同じように疼いていた。
クロエは淡い結界光に包まれ、森を後にした。
追手の声は遠ざかる。
代わりに、別の扉が、静かに閉まる音がした。




