第2話 森に捨てられた夜
馬車は、森の手前で止まった。
御者が合図もなく鞭を鳴らし、車輪が泥を噛む音だけが残る。去っていく背中――王家の紋章が刺繍された幌布が、闇の中へ溶けるまで、クロエは立ち尽くしていた。
追放。
その言葉が、まだ舌の上に残っている。苦くて、乾いていて、噛み砕けない。
「……森へ」
衛兵の声が、さっきまでのシャンデリアの光を一瞬で消した。あの嘘みたいに綺麗な光の下で「死んだ」と思ったはずなのに、こうして足の裏に土の冷たさが触れると、まだ生きていることだけが嫌になる。
夜の森は黒い。黒いのに、完全な闇じゃない。
枝と枝の隙間から、遠い星が滲む。雲が流れ、星が出たり消えたりするたび、森の輪郭も揺らぐ。
クロエのドレスは舞踏会用のままだった。胸元を飾る宝石は、今はただ重い。裾は泥に濡れ、裾飾りが枯葉に絡みつく。足元は薄い靴。冷えが、骨に沿って昇ってくる。
「――歩け」
背中を押すように、衛兵が言った。
「ここまでだ。あとは勝手にしろ。罪人に、王都の道はない」
クロエは振り返った。
「……せめて、食糧を。水を……」
衛兵は笑った。笑い声は、森の中で妙に乾いていた。
「慈善金を盗んだ女に、慈善か? 冗談だろ」
冗談。嘘。誤解。偽造。
言葉が喉の奥で渦を巻く。叫べばいい。違うと。私は盗んでいないと。あの署名は私のものじゃないと。セラフィナの涙は演技だと。エリックは私を最初から捨てる気だったと。セドリックは――
(……セドリックお兄様)
思い出した瞬間、胸の奥が冷える。
「自業自得だ」
あの声。あの目。あの、突き放すような言葉。
クロエは唇を噛んだ。血の味がする。痛みだけが、まだ自分のものだと教えてくれる。
衛兵は背を向けた。
「生き延びられたらな」
そのまま馬の蹄が鳴り、闇へ消えた。
残されたのは、森の匂いだけだった。
湿った土。腐葉土。樹皮の渋さ。遠くの水気。獣の毛の匂いも混じる。夜露が葉の上で眠り、息を吸うたび、肺が冷たく濡れる気がした。
クロエは歩き出した。
一歩。二歩。
足元が見えない。枝が頬を掠め、髪に枯葉が引っかかる。ドレスの裾が引き裂かれ、糸がほどけていく。手で持ち上げようとしても、指先がかじかんで言うことを聞かない。
(……私は、どこへ?)
王都へ戻れない。公爵家へも戻れない。戻ったところで、誰が私を迎える? 父と母は、王家の前で公爵家の面子を守るだろう。――いや、面子を守るために、私を切り捨てるかもしれない。
そして、セドリックは。
(嫌われている)
幼いころからずっと、そう思っていた。
それでも、私はしつこく「お兄ちゃん」と追いかけた。あれが、今思えば滑稽だ。公爵家の“札”として差し出され、捨てられ、森に放り込まれて。最後まで助けてくれない義兄を、まだ心のどこかで期待していたなんて。
クロエは笑いそうになった。
笑い声は出ない。ただ喉がひゅっと鳴るだけで、涙が頬に落ちた。涙はすぐ冷え、肌の上で薄い膜になる。
歩く。歩く。歩く。
けれど、森は広い。
どこへ進んでも景色は似ていた。黒い幹、重い葉の影、湿った土の匂い。星が薄く瞬き、また雲に隠れる。時間の感覚が剥がれていく。
そのうち、足元がふらついた。
ふと、土が少し柔らかくなる。沈む。靴が泥に取られる。身体が前につんのめり、膝が土に落ちた。
痛いはずなのに、痛みが遠い。
冷たさだけが、じわじわと広がる。
クロエは両手をついた。手袋のレースが泥に染まる。指先の感覚が薄い。心臓はまだ動いている。でも、その鼓動も、どこか他人のものみたいだ。
(……もう、無理)
立ち上がろうとして、力が入らない。
息を吸うと、土の匂いが胸いっぱいに満ちた。吐くと、白い息が闇へ溶けた。吐いた息が自分のものか、森の吐息か分からない。
クロエは、ゆっくりと仰向けに倒れた。
背中に土が当たる。冷たい。湿っている。けれど、妙に優しい。布越しに感じる土の重みが、肩の緊張をほどいていく気がする。
木々が見えた。
上へ伸びる幹。絡み合う枝。葉の隙間の星。
森は、ただそこにある。怒らない。責めない。許しもしない。
それなのに、クロエの胸の中の“痛い言葉”だけが、うるさい。
自業自得。恥。最低限の品位。見苦しい。罪人。
(……生きたいの?)
問いが浮かぶ。すぐに別の問いが重なる。
(死にたいの?)
さらに、もっと嫌な問いが湧く。
(私は……いま、生きてる?)
答えが出ない。
息をしている。心臓が動いている。それは分かる。でも、分かるだけで、実感がない。
土は冷たい。葉は擦れる。星は遠い。自分はそこにあるはずなのに、身体の輪郭が薄くなっていく。
まるで、森に溶けていくみたいに。
境界線が、ほどける。
髪の毛と枯葉の境界。指先と土の境界。涙と夜露の境界。自分と森の境界。
(……私は、森の一部になっていく)
怖いはずだった。けれど、怖さも遠い。悲しみも怒りも、少しずつ重力を失い、ふわふわと浮き上がる。
――このまま眠ればいい。
眠って、目が覚めなくても、たぶん誰も困らない。
エリックは、むしろ喜ぶだろう。セラフィナは涙を流し、慈善の顔で「可哀想なクロエ様」と言うだろう。社交界は噂を楽しみ、公爵家は名誉を守り、セドリックは――
(……セドリックお兄様は)
そこで、胸の奥がちくりと痛んだ。
痛みは、まだ自分のものだった。
その痛みが、やけに現実的で。
クロエはゆっくりと瞬きをした。
王太子の婚約者となってからも、ずっとセドリックお兄様が好きだった。
でも、それはクロエの一方通行の想いだったし、誰にも言えない秘密の恋だった。
それに、セドリックがクロエを嫌っていることは十分過ぎるほど分かっていた。
木の枝が揺れた。葉が落ちる。ひらり、と黒い影が視界の端を横切った。
(……?)
何かがいる。
獣?
それとも、追手?
足音が、微かに聞こえた気がした。
――ザリ、と枯葉が鳴る。
(来る……?)
恐怖が遅れてやってきた。今さら。森に溶けかけた輪郭が、急に戻ろうとする。心臓が早く打つ。息が荒くなる。身体が震える。
でも、立てない。
クロエは唇を開いた。助けて、と声を出そうとした。けれど喉から出たのは、かすれた息だけだった。
足音が近づく。
ゆっくり、慎重に。
木々の影が揺れ、闇の中に二つの光が浮かんだ。
――目。
猫のように細い、光る目。
クロエは目を見開いた。恐怖で身体が硬直する。獣の目が、こちらを見ている。狩る目かもしれない。いや、猫なら――
(……猫?)
暗闇の中、影が一歩、前に出た。
小さな身体。しなやかな動き。黒い毛並みが夜に溶け、輪郭だけが星の光で縁取られる。
猫だ。
黒猫。
クロエの視界が滲んだ。涙なのか、夜露なのか分からない。
黒猫はクロエの顔を覗き込むように近づき、鼻先をひくひくさせた。
生き物の匂いを確かめるみたいに。
クロエは震える手を、ほんの少しだけ持ち上げた。
触れたいわけじゃない。ただ――ここにいることを、確かめたかった。
黒猫は、さっと一歩退いた。
警戒。距離。冷たい目。
(……私みたい)
クロエは苦く笑った。笑えた、という事実が少しだけ驚きだった。
黒猫は、クロエを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
そして――
ふっと、尻尾が揺れた。
その揺れが、何かの合図みたいに見えた。
黒猫は、枯葉の上を音もなく回り込み、クロエから少し離れた場所に座った。
逃げない。近づきすぎない。でも、離れもしない。
ただ、そこにいる。
クロエの胸の奥が、ひゅっと鳴った。
境界が溶けていく感覚が、止まる。
森と自分の境界が、ほんの少しだけ戻ってくる。
(……まだ、ここだ)
生きているのか死んでいるのか分からない、あの薄い世界の中で、黒猫の体温だけが現実の輪郭になる。
黒猫は、もう一度クロエを見た。
そして、短く鳴いた。
「……ニャ」
ただの鳴き声。
――なのに、その音が不思議なくらいはっきり耳に届いた。
クロエは目を閉じ、息を吐いた。土の匂いが肺の奥に残る。冷たさが背中に広がる。それでも、黒猫がいるという事実が、クロエを“森に溶かさない”。
遠くで、また枯葉が鳴った。
足音。
さっきとは違う、重い音。
(……誰か、いる)
黒猫の耳がぴくりと動いた。
クロエの心臓が跳ねた。
闇の中で、黒猫が一度だけ低く唸るような声を出す。
そして、すっと立ち上がった。
――逃げるのではなく、森の奥へ誘うように。
黒い影が、星の欠片を踏むように動く。
クロエはその背を追いたいのに、身体が動かない。
(お願い……)
声にならない祈りが喉に詰まる。
黒猫は一度だけ振り返った。
黄の瞳が、クロエを捉える。
その目は、狩りの目じゃなかった。
裁く目でもない。
ただ――何かを測る目。
生きるか、死ぬか。
森に溶けるか、戻るか。
クロエは唇を震わせた。
そして、かすれた声で言った。
「……まって」
黒猫の尻尾が、もう一度揺れる。
そのとき、森の奥から、確かに足音が近づいた。
追手かもしれない。
獣かもしれない。
あるいは――まだ知らない何か。
クロエの背中に、冷たい夜が貼りつく。
それでも、黒猫の瞳が、闇の中で小さく光っていた。
――生の輪郭みたいに。




