9 ディート公爵夫人――娘は返してもらう
「奥様」
「ユスト」
「王宮関係の控えをお持ちしました」
別の使用人が、箱を二つ運び入れます。
青い革張りの箱。黒い留め具。ひとつはフレイアの嫁入り支度の控え。もうひとつは、王宮へ出した公爵家付きの者の名簿です。
「開けて」
ユストが箱を開けます。中には、目録が束になっております。
布、銀器、寝具、香炉、燭台、壁掛け、衣装、宝石、書物。フレイアに持たせたもの。王宮に預けたもの。王妃府へ入れたもの。公爵家の持ち物として残したもの。
私は一番上の目録を取りました。
手が覚えております。嫁入り前、何度も確認しましたから。
春用の薄絹。冬用の毛織。白百合の寝具。銀の水差し。
母方から受け継いだ香炉。小さな真珠の髪飾り。
《《南の離宮で見栄えのするもの》》が、いくつもございます。
王は使いたがるでしょう。側妃を飾るために。
いいえ。身重の側妃ではありません。
《《自分の言い訳を飾るため》》に。
「ユスト。王宮へ文を出します」
「宛先は」
「リーナへ。家の文です。王妃府を通さずに」
「はい」
「フレイアの嫁入り支度で、公爵家の所有として王宮に置いているものは、すべて使用禁止。部屋を移す場合も、王妃陛下の許可と、公爵家への照会が必要。南の離宮へ運び入れることを禁じる。そう伝えて」
「承知いたしました」
「文面は柔らかく」
ユストがこちらを見ました。
「柔らかく、でございますか」
「ええ。柔らかく。柔らかい布で首を絞めるような文面にします」
夫が、少しだけこちらを見ました。
「お前らしい」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めている」
「存じております」
私は目録をめくりました。
白百合の寝具の行で指を止めます。フレイアが十七の時、自分で選んだものです。
王宮に入るなら白がよい、と言って。派手ではなく、けれど地味すぎないもの。刺繍の白糸の中に、ほんの少しだけ銀が混じっております。光の角度で見える程度です。
あの子らしい選び方でした。
……それを、明るいものが好きだという側妃の部屋へ運ばれてたまるものですか。
「それから、厨房へ」
「厨房でございますか」
「フレイアの部屋へ、公爵家から乾き菓子と茶を送ります。王妃府の茶ではなく、うちの茶を。胃に重くないものを。蜂蜜を入れた小さな焼き菓子と、塩を少し入れた薄いクラッカーを」
「はい」
「リーナなら分かります。食べられない時でも、口に入れやすいものを」
フレイアは、疲れると食べる順番が変わります。幼い頃からそうでした。
好き嫌いは少ない子です。けれど疲れると、肉より先に芋を食べ、芋より先にスープを飲み、最後にパンを小さくちぎります。怒っている時は、パンをちぎる間隔が狭くなります。悲しい時は、匙を置く位置が皿から遠くなります。
王宮の者は見ているでしょうか。
厨房は見ているかもしれません。侍女は見ているでしょう。
王は、どうでしょうね。見ているわけがありませんね。
「奥様」
ユストが、別の紙を差し出しました。
「王宮へ出している者の名簿です」
受け取ります。
リーナ。マルク。針子のオルガ。洗濯場のミア。厨房補助のテス。王妃府の下働きに入れた双子の姉の方。
まだ何人もいる。
フレイアのそばには、うちの目があります。ですが、目があっても、命じる権限がなければ救えません。
それが王宮です。
「この者たちへ、合図を出します」
夫が言いました。
「まだ早い」
「早くありません」
私は名簿を卓に置きました。
「荷物をまとめさせるのではございません。フレイアのものを守らせるのです。香炉、寝具、私物の文箱、薬箱、嫁入りの宝石、母方の衣装箱。側妃入内の準備で『一時的に』運び出されるものが出ます」
「出るだろうな」
「出ます。王宮とは、そういうところです。誰かが『ひとまず』と言えば、物は動きます。動いた物は、戻す時に責任者が消えます」
夫が、杖を指で叩きました。こつ、と小さな音。
「お前の方が王宮を嫌っているな」
「嫌ってはおりません」
口が勝手に動きました。
「よく存じているだけです」
少し、言葉が強くなります。私は息を吸いました。
ですから、扇が欲しかったのです。扇があれば、開いて閉じるだけで済むものを。
「ユスト。合図は通常の品物確認として。王妃陛下のご健康がすぐれないため、私物の管理確認をする、と。王妃府の許可は不要です。公爵家所有の品に限る」
「はい」
「リーナには、フレイアの薬箱を離さないように。王宮医の診断がまだの身重の側妃のために、薬草や香を回せと言われる可能性があります」
「そこまで」
ユストが言いかけて、口を閉じました。私はうなずきます。
「そこまで、です」
あるのです。王宮では、《《そこまで》》が。
親切の顔をした横流し。融通という名の略奪。
今だけという言葉で、女の持ち物も時間も体も使われる。
フレイアは、それを止める側でした。今日からは、止める者が削られている。
だからこちらが止めます。
「奥様」
若い侍女が、扉の外で声をかけました。
「イルマ殿下より、先触れへのお返事が」
夫が振り向きます。
「通せ」
侍女が文を差し出しました。
封は王弟家のもの。夫が受け取り、開きました。短い文だったのでしょう。読むのは早かった。
「イルマがこちらへ来る」
「殿下が?」
「ああ。『お兄様が馬車を出すより、私が動いた方が早い』と」
私は、そこで初めて息を吐きました。
イルマ殿下。あの方は、昔からそうです。
身分を軽んじる方ではありません。むしろ、誰よりもご自分の立場を知っておられる。知っていて、その上で必要な時には一番速い道を選ぶ。
王家にいた女が来る。これで、王宮側は「王家の事情」を簡単には使えません。
「客間は」
「白の間を」
「いいえ」
私は首を振りました。
「青の間です。これは親族の茶ではございません」
夫がうなずきました。
「そうだな」
「イルマ殿下のお茶は、濃いめに。砂糖は少なめ。あの方は甘すぎるものをお嫌いです」
「覚えておいでで」
ユストが言いました。
「覚えておりますとも」
私は手紙をもう一度見ました。
フレイアの字。細い線。最後の、イルマ叔母様、という言葉。
あの子は、まだ道筋を作っている。自分を助けてほしいと書く前に、前例を確認してほしいと書く。
どこまで王妃なのですか。どこまで、私の娘なのですか。
どちらもです。どちらもだから、こんな手紙になるのです。
私は手紙に触れ、指先で、折り目を押さえました。
「あなた」
夫は顔を上げました。
この部屋では、私は夫人であり、公爵家の女主人です。けれど今だけは妻として呼びました。
「何だ」
「フレイアを、壊れるまで待ちません」
「ああ」
「王宮が何と言っても」
「ああ」
「王太后陛下が何を仰っても」
「ああ」
「世継ぎを盾にされても」
「ああ」
そこで、私は口を閉じました。そして次の言葉は。
「娘を、返してもらいます」
夫は杖を取りました。銀の先が、床に触れます。
「そのつもりだ」
廊下の向こうで、馬車の車輪が石畳に乗る音がしました。イルマ殿下のお越しが近いのでしょう。
私はフレイアの手紙を、もう一度きちんと畳みました。




