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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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8 ディート公爵夫人――「何が、仕方ないのですか」

 青の間へ、と言われた時点で、悪い知らせだと分かりました。


 公爵家には、部屋ごとの役目がございます。

 客を迎えるなら白の間。親族だけの茶なら緑の間。急ぎの家政なら小広間。

 青の間は、王宮に関わる話をする部屋です。

 壁紙が青いからそう呼ぶだけではございません。先代の時代から、王家の文、宮廷儀礼の控え、婚姻に関わる目録、王宮へ出した者たちの名簿などを、必要な時だけこの部屋へ運ぶことになっております。

 つまり、夫が私を青の間へ呼ぶ時は、家の中だけでは済まない話です。

 私は手にしていた刺繍枠を侍女へ渡しました。


「糸を抜かないで。そのまま布をかけておいて」

「奥様」

「針は刺したままでよろしいです。今、抜くと目がずれます」


 侍女が刺繍枠を受け取ります。

 白い麻布に、まだ花の輪郭だけが入っていました。春の贈り物にするつもりのハンカチです。フレイアが好きだった、小さな白い花を入れるところでした。針は、ちょうど花びらの端にあります。続きはあとで。

 あとで、できれば。


 廊下へ出ると、家の音が変わっていました。

 使用人は走っておりません。ユストが許しませんから。けれど、歩幅が違います。皿の音が少ない。厨房の扉がいつもより早く閉まる。階段の下で若い下働きの子が、両手で籠を抱えたまま、行き先を待っています。

 夫が動かしたのです。

 あの人は怒鳴りません。けれど、怒ると家じゅうの足音が変わります。


 青の間に入ると、卓の上に封書と紙が置かれていました。

 赤い封蝋の欠片。厚手の白い紙。うちの折り方。

 それだけで、胸の内側に置いてあったものが、すっと立ち上がりました。

 いえ、胸などではありません。もっと下です。

 ――腹の底です。


「フレイアからですか」

「ああ」


 夫は短く答えました。

 ディートは、窓を背にして立っております。手には杖。亡き義父上の杖です。歩くためのものではなく、家を動かす時に持つ杖。あれを持っている時、夫は父ではなく公爵になります。

 卓の上の文を取りました。

 最初の一行。


 ――お父様。


 私は、そこでまず目を閉じたくなりました。

 ですが、この文は読みます。娘が、夫へ送った文です。私にも読ませるための文でしょう。フレイアはそういう子です。必要な相手に届くように、余分を削って書く。


 ――陛下が、側妃を迎えられる。

 ――入内は十日後。

 ――相手はマリーシア。

 ――レーヴェ伯爵家分家の子爵家の令嬢。

 ――すでに陛下の御子を宿していると、陛下より聞いた。

 ――王宮医の診断はまだ。

 ――南の離宮。

 ――準備は王妃府へ一任。

 ――イルマ叔母様に前例を確認してほしい。


 最後の行まで目を通してから、紙を卓に戻しました。指先に紙のざらつきが残ります。

 嫁ぐ時に持たせた紙です。王宮の紙ではありません。公爵家の紙。もし、《《あちらで言えないこと》》があったら、この紙を使いなさい、と言って持たせたものです。

 フレイアは、その時に笑いました。

 笑って、「そんなことはないと思います」と言いました。

 十八の娘です。王妃になる娘です。

 私はその笑顔に、ええ、そうね、と答えました。

 ――嘘です。

 《《そんなことは、あるのです》》。

 王宮では、家の者へだけ書けることが必ずあります。だから持たせた。

 そして今、その紙がここにある。


「十日後ですって」

「ああ」

「王宮医の診断もなく」

「ああ」

「分家の子爵家筋の娘を、伯爵家令嬢として扱うつもりで」

「そのようだ」

「しかも南の離宮」

「陛下の希望らしい」


 私は夫を見ました。


「あなた」

「何だ」

「《《馬鹿なのですか、あの王は》》」


 ユストが、部屋の隅で小さく咳をしました。私はそちらを見ます。


「ユスト。咳で消える言葉ではありません」

「失礼いたしました」

「もう一度言いましょうか」

「いえ、奥様。聞こえております」

「よろしい」


 夫が、杖の頭に指を置きました。

 怒っている時の癖です。銀の巻かれた部分を、親指で押す。


「私はイルマ殿下へ伺う。先触れを出した」

「当然です。王家の事情を盾にするなら、王家にいた女が斬るべきです」

「お前は」

「私はフレイアを迎える準備をいたします」


 夫の目が少し動きました。


 ――迎える。


 そうです。迎えるのです。

 休ませる、では足りません。匿う、でもありません。娘が帰る場所をきちんとさせる。

 それが母の仕事です。


「まだ連れて帰ると決まったわけではない」


 夫の声は低くございました。止めているのではありません。公爵として、順番を確認しているだけです。

 私はうなずきました。


「決めるのは、こちらです」

「王宮ではなく」

「王宮ではありません」


 言葉が少し強く出ました。でも、よろしいでしょう。

 青の間です。ここでは家の言葉で話します。


「フレイアは、助けてとは書いておりません」

「ああ」

「疲れたとも書いておりません」

「リーナは、疲れましたと仰せだったと」


 その一言で、紙の白さが変わったように見えました。

 私はもう一度、文を取りました。文字を見ます。細い。

 最初の行が細い。四行目から少し持ち直し、最後の行でまた細くなる。

 この子は、これを書いている途中で息を入れています。

 泣いたからではありません。泣く暇がなかったのでしょう。書く順番を探していたのでしょう。

 王宮医。南の離宮。伯爵家本家。分家子爵家。王太后陛下。十日後。妊娠三月。

 自分が傷ついたことではなく、まず手順を並べたのでしょう。

 そういう子に、誰がしたのですか。

 私ですか。夫ですか。王宮ですか。王ですか。

 全部でしょう。

 ……ですが、今日その中で一番責めるべき相手は決まっております。


「五年です」


 私は文を卓に置きました。


「五年、フレイアを王宮へ置きました」

「ああ」

「子がないと言うなら、陛下は五年間、夫として通うべきでした。通って、医師にかけ、祈祷をし、周囲の言葉から妻を守り、それから初めて側妃の話をするのです」


 夫は黙って聞いていました。


「通いもせず、外で孕ませ、子ができたから入内させる。しかも準備はフレイアへ。十日後。南の離宮。王宮医の診断もなし。王太后陛下は世継ぎのためなら仕方ないと」


 私は扇を持ってくればよかったと思いました。手の中に折るものがない。

 仕方なく、卓の端に指を置きました。爪が木に当たります。


「仕方ない、ですって」


 声が、そこで少し崩れました。


「何が、仕方ないのですか」


 ユストが、今度は咳をしませんでした。よろしい。



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