8 ディート公爵夫人――「何が、仕方ないのですか」
青の間へ、と言われた時点で、悪い知らせだと分かりました。
公爵家には、部屋ごとの役目がございます。
客を迎えるなら白の間。親族だけの茶なら緑の間。急ぎの家政なら小広間。
青の間は、王宮に関わる話をする部屋です。
壁紙が青いからそう呼ぶだけではございません。先代の時代から、王家の文、宮廷儀礼の控え、婚姻に関わる目録、王宮へ出した者たちの名簿などを、必要な時だけこの部屋へ運ぶことになっております。
つまり、夫が私を青の間へ呼ぶ時は、家の中だけでは済まない話です。
私は手にしていた刺繍枠を侍女へ渡しました。
「糸を抜かないで。そのまま布をかけておいて」
「奥様」
「針は刺したままでよろしいです。今、抜くと目がずれます」
侍女が刺繍枠を受け取ります。
白い麻布に、まだ花の輪郭だけが入っていました。春の贈り物にするつもりのハンカチです。フレイアが好きだった、小さな白い花を入れるところでした。針は、ちょうど花びらの端にあります。続きはあとで。
あとで、できれば。
廊下へ出ると、家の音が変わっていました。
使用人は走っておりません。ユストが許しませんから。けれど、歩幅が違います。皿の音が少ない。厨房の扉がいつもより早く閉まる。階段の下で若い下働きの子が、両手で籠を抱えたまま、行き先を待っています。
夫が動かしたのです。
あの人は怒鳴りません。けれど、怒ると家じゅうの足音が変わります。
青の間に入ると、卓の上に封書と紙が置かれていました。
赤い封蝋の欠片。厚手の白い紙。うちの折り方。
それだけで、胸の内側に置いてあったものが、すっと立ち上がりました。
いえ、胸などではありません。もっと下です。
――腹の底です。
「フレイアからですか」
「ああ」
夫は短く答えました。
ディートは、窓を背にして立っております。手には杖。亡き義父上の杖です。歩くためのものではなく、家を動かす時に持つ杖。あれを持っている時、夫は父ではなく公爵になります。
卓の上の文を取りました。
最初の一行。
――お父様。
私は、そこでまず目を閉じたくなりました。
ですが、この文は読みます。娘が、夫へ送った文です。私にも読ませるための文でしょう。フレイアはそういう子です。必要な相手に届くように、余分を削って書く。
――陛下が、側妃を迎えられる。
――入内は十日後。
――相手はマリーシア。
――レーヴェ伯爵家分家の子爵家の令嬢。
――すでに陛下の御子を宿していると、陛下より聞いた。
――王宮医の診断はまだ。
――南の離宮。
――準備は王妃府へ一任。
――イルマ叔母様に前例を確認してほしい。
最後の行まで目を通してから、紙を卓に戻しました。指先に紙のざらつきが残ります。
嫁ぐ時に持たせた紙です。王宮の紙ではありません。公爵家の紙。もし、《《あちらで言えないこと》》があったら、この紙を使いなさい、と言って持たせたものです。
フレイアは、その時に笑いました。
笑って、「そんなことはないと思います」と言いました。
十八の娘です。王妃になる娘です。
私はその笑顔に、ええ、そうね、と答えました。
――嘘です。
《《そんなことは、あるのです》》。
王宮では、家の者へだけ書けることが必ずあります。だから持たせた。
そして今、その紙がここにある。
「十日後ですって」
「ああ」
「王宮医の診断もなく」
「ああ」
「分家の子爵家筋の娘を、伯爵家令嬢として扱うつもりで」
「そのようだ」
「しかも南の離宮」
「陛下の希望らしい」
私は夫を見ました。
「あなた」
「何だ」
「《《馬鹿なのですか、あの王は》》」
ユストが、部屋の隅で小さく咳をしました。私はそちらを見ます。
「ユスト。咳で消える言葉ではありません」
「失礼いたしました」
「もう一度言いましょうか」
「いえ、奥様。聞こえております」
「よろしい」
夫が、杖の頭に指を置きました。
怒っている時の癖です。銀の巻かれた部分を、親指で押す。
「私はイルマ殿下へ伺う。先触れを出した」
「当然です。王家の事情を盾にするなら、王家にいた女が斬るべきです」
「お前は」
「私はフレイアを迎える準備をいたします」
夫の目が少し動きました。
――迎える。
そうです。迎えるのです。
休ませる、では足りません。匿う、でもありません。娘が帰る場所をきちんとさせる。
それが母の仕事です。
「まだ連れて帰ると決まったわけではない」
夫の声は低くございました。止めているのではありません。公爵として、順番を確認しているだけです。
私はうなずきました。
「決めるのは、こちらです」
「王宮ではなく」
「王宮ではありません」
言葉が少し強く出ました。でも、よろしいでしょう。
青の間です。ここでは家の言葉で話します。
「フレイアは、助けてとは書いておりません」
「ああ」
「疲れたとも書いておりません」
「リーナは、疲れましたと仰せだったと」
その一言で、紙の白さが変わったように見えました。
私はもう一度、文を取りました。文字を見ます。細い。
最初の行が細い。四行目から少し持ち直し、最後の行でまた細くなる。
この子は、これを書いている途中で息を入れています。
泣いたからではありません。泣く暇がなかったのでしょう。書く順番を探していたのでしょう。
王宮医。南の離宮。伯爵家本家。分家子爵家。王太后陛下。十日後。妊娠三月。
自分が傷ついたことではなく、まず手順を並べたのでしょう。
そういう子に、誰がしたのですか。
私ですか。夫ですか。王宮ですか。王ですか。
全部でしょう。
……ですが、今日その中で一番責めるべき相手は決まっております。
「五年です」
私は文を卓に置きました。
「五年、フレイアを王宮へ置きました」
「ああ」
「子がないと言うなら、陛下は五年間、夫として通うべきでした。通って、医師にかけ、祈祷をし、周囲の言葉から妻を守り、それから初めて側妃の話をするのです」
夫は黙って聞いていました。
「通いもせず、外で孕ませ、子ができたから入内させる。しかも準備はフレイアへ。十日後。南の離宮。王宮医の診断もなし。王太后陛下は世継ぎのためなら仕方ないと」
私は扇を持ってくればよかったと思いました。手の中に折るものがない。
仕方なく、卓の端に指を置きました。爪が木に当たります。
「仕方ない、ですって」
声が、そこで少し崩れました。
「何が、仕方ないのですか」
ユストが、今度は咳をしませんでした。よろしい。




