10 前王弟妃イルマ――「王は、馬鹿ですか」
「お兄様!」
馬車の扉が開く前に、声が出ていました。
御者が踏み台を置きます。侍女が手を差し出します。私はその手を取り、裾を持ち上げ、石畳へ下りました。
公爵家の玄関前に、家令が待っております。ユストです。昔から変わりません。
白髪が増えましたが、頭の下げ方は同じ。背筋も同じ。こういう家令がいる家は、まだ家として息をしております。
「イルマ殿下。ようこそお越しくださいました」
「挨拶はあとです。お兄様は」
「青の間に」
「分かりました」
分かりました、ではありません。
知っています。この家で青の間へ通されるということが、どういう意味か。
王宮が絡む。婚姻が絡む。家の中だけでは閉じない話になる。
王弟家にいた頃、私は何度も青の間へ呼ばれました。王家の文を見せられ、兄と父に意見を求められ、時には泣く妹ではなく、王家に嫁いだ女として答えました。
今度は、姪のためです。フレイアのため。王妃陛下のため。
玄関広間を抜ける間に、使用人たちが壁際へ寄ります。誰も騒ぎません。けれど、目がこちらへ集まっている。
王宮からの知らせは、まだ家じゅうに言葉として流れていないのでしょう。ですが、家は先に気配で知ります。
女主人の刺繍枠が片づけられた。公爵の馬車が用意された。王宮付きの馬丁が昼前に飛び込んできた。青の間が開いた。
それだけで、使用人は察します。王宮より、公爵家の方がよほど早いではありませんか。
私は青の間の扉の前で足を止めました。扉の取っ手に手をかける前に、手袋の指先を少し引き直します。
怒鳴るなら、指先くらいきちんとさせてからです。
「お兄様」
扉を開けると、兄は窓の前に立っておりました。
杖を持っています。亡き父の杖です。ああ、怒っていますね。いいですわ。大変素晴らしい。
義姉上は卓のそばにいらっしゃいました。目録の箱が開いております。嫁入り支度の控えでしょう。こちらも、すでに動いている。
「イルマ」
「文を」
私は手を出しました。
兄が、卓の上の紙を取ります。封蝋の欠片は銀盆に残してありました。
さすがお兄様。怒っていても、物を残す。どこで誰が開けたか、後で言えるようにしている。
受け取った紙は、公爵家の私信の紙でした。
王妃府の紙ではない。王宮の封ではない。フレイアが家へ戻すために使う紙です。
私はそこから読みました。
――お父様。
そこだけで、歯を噛みました。
あの子は、まず父へ書いた。王妃陛下としてではなく、娘として。
そうさせたのは誰ですか。
次の行へ進みます。
――陛下が、側妃を迎えられる。
――入内は十日後。
――マリーシア。
――レーヴェ伯爵家分家の男爵家の娘。
――すでに陛下の御子を宿している。
――王宮医の診断はまだ。
――南の離宮。
――準備は王妃府へ一任。
――イルマ叔母様に前例を確認してほしい。
私は最後の一行で、紙を少し下ろしました。
「《《前例》》」
声が出ました。
「この子は、まだ前例を探しておりますのね」
義姉上が、唇を結びました。
ああ、義姉上も怒っている。いいですわ。本当に素晴らしい。怒るべき者が怒っている家は、まだ救えるというものです!
私は紙をもう一度見ます。文字が、細い。
フレイアの字は、幼い頃から細く整っていました。けれど、これは整っているのではありません。絞った糸のような線です。
途中でペン圧が変わる。最後の、イルマ叔母様、のあたりで、また細くなる。
誰かが横にいたのでしょう。おそらくリーナです。
あの侍女なら、事実だけを書かせたはずです。泣き言より先に事実。助けてより先に経緯。フレイアには、それが書きやすい。
……だから腹が立つ。
助けて、と書ける姪であってほしかった!
「お兄様」
「何だ」
「王は、馬鹿ですか」
兄は、そこで初めてほんの少し目を細めました。
「先ほど、妻にも同じことを言われた」
「当然でしょう」
義姉上が扇を持っていない手を卓に置きました。
「イルマ殿下。私は、馬鹿なのですか、あの王は、と申し上げました」
「正しいですわ! 義姉上」
私は手紙を卓に置きました。
「言い直すなら、馬鹿で、無作法で、王家の仕組みを何一つ分かっておりません」
ユストが部屋の隅に控えていました。
顔は動かしません。聞いていなさい。あとで必要になります。
「まず、側妃を迎えること自体は、前例がございます」
兄がうなずきます。義姉上の指が、目録の端を押さえます。
「王妃に子がない場合、側妃を迎える。それはあります。世継ぎの問題であれば、王家の血を絶やさぬため、そういう選択を取ることはございます。私はそこを否定しません」
否定はしません。ここは大事です。
怒りに任せて、制度そのものを殴ってはなりません。制度を殴れば、王宮側はそこへ逃げます。
――王家には王家の事情がある。
――世継ぎは国の問題である。
――正妃は耐えるべきである。
そう言わせてはなりません。逃げ道は先に塞ぎます!
「けれど、順番が違います」
私は指を一本立てました。
「第一に、王妃陛下に子がないことを理由にするなら、まず王と王妃が夫婦として務めを果たしていたかを見ます」
義姉上の目が、そこで一度伏せられました。兄は杖の頭に指を置いております。
「通っていないのでしょう?」
私は言いました。誰も答えません。答えがないことが答えです。
「王の訪れが五年で両手に満たないなら、子がないなど理由になりません。それは王妃の不妊ではなく、王の怠慢です」
言ってしまいました。
はい、言いました。先代王弟妃の口から。
必要なのですから!
「第二に、側妃候補がすでに妊娠している。これも、場合によってはあり得ます。王の寵を受けた女が懐妊したため、あとから身分をきちんとさせる。聞こえは悪いですが、王家にはそういう汚いきちんとさせ方もございました」
私は自分の手袋を見ました。白い手袋です。
王弟妃であった頃、私はもっと汚い話を聞きました。
女の名が消える話。生まれた子の母が入れ替わる話。正妃の名で育てられる子の話。笑顔の茶会の裏で、女官長が泣いた娘を別の部屋へ移す話。
王宮とは、そういう場所です。
だからこそ、手順がございます。汚いものを、せめて国が腐らぬ形で包むための手順です。
「ですが、その場合こそ、王宮医が最初です。王の子だと主張するなら、王宮医の記録が必要です。何月何日、誰が診たか。母体の状態はどうか。出産予定はいつか。王の子として扱うなら、王宮側の証人が要ります」
私は指を二本目にしました。
「家の医師だけでは足りません」
「当然だ」
兄が低く言いました。
「第三に、相手の身分」
ここで私は、少し笑いそうになりました。
笑いではありません。口の端が、勝手に上がりかけたのです。
怒りが突き抜けると、人は笑うのですね。嫌な発見です。
「《《レーヴェ伯爵家分家の男爵家の娘を、レーヴェ伯爵家令嬢として扱う》》。これは、伯爵家本家にも、男爵家にも、王妃陛下にも失礼です。伯爵家本家は、自分の家の娘ではない者の栄誉と責任を背負わされる。男爵家は、自家の名を消される。王妃陛下は、正確な身分を伏せられた相手を迎えさせられる」
義姉上が、そこで静かに言いました。
「そして、フレイアが間違えれば、フレイアの落ち度になります」
「そうです」
私はうなずきました。
「招待状の敬称ひとつで、誰かが怒ります。席順ひとつで、誰かが勝った負けたを言い出します。王が細かいと思っているものは、王宮では細かくございません」
ユストが、部屋の隅でペンを取っていました。いいですね。控えておきなさい。
「第四に、南の離宮」
私は卓の上の目録へ視線を移しました。義姉上が、目録の一枚を私へ差し出します。
フレイアの嫁入り支度。寝具、香炉、銀器、壁掛け。
南の離宮で映えるものばかりです。
「王族の姫君、または他国王家の賓客を置く格の部屋です。側妃に与えるなら、王はその意味を説明しなくてはなりません。説明もなく『明るいものが好きだから』などと」
そこまで言って、私は手袋の指を握りました。
「……明るいものが好き?」
兄の声が、少し変わりました。私を見ます。義姉上も。
「女を部屋の明るさで入れるな、馬鹿者」
言葉が崩れました。崩れましたが、後悔はございません。
王宮でなら飲み込んだでしょう。
けれどここは公爵家の青の間です。兄と義姉上の前です。ユストは聞かなかったことにできる男です。




