66 前王妃付き侍女リーナ――窓辺の白い花
わたくしが一刻の休みを命じられたのは、フレイア様が昼の粥を召し上がった後でございました。
旦那様は、一刻、とおっしゃいました。奥様も、一刻、と重ねられました。
フレイア様は長椅子で雨を見ておられ、わたくしの方へ顔を向けました。
「リーナ、休むの?」
「はい。旦那様と奥様からのご命令でございます」
「疲れていたの?」
そう訊ねられて、わたくしはすぐに返事ができませんでした。
疲れていたかどうか?
そんなことをフレイア様に考えさせてはいけない。
けれど、疲れていないと言えば、彼女はまた、ではなぜ、と考えてしまいます。
「少し、足を伸ばしてまいります」
わたくしがそう答えると、フレイア様は膝の上の掛け布を指で撫でました。
「一刻だけ?」
「はい。一刻だけでございます」
「では、戻ってきたら、白い花をもう一度見せて」
「もちろんでございます」
そこで年配の侍女が交代に入りました。
フレイア様はその侍女の顔を見て、ゆっくりとうなずきました。
知らない相手ではありません。公爵家の古い侍女で、フレイア様が幼い頃にも部屋へ出入りしていた者です。
それでも、わたくしが部屋を出る時、フレイア様の指が掛け布を少し強く押さえました。
――一刻だけ。
それでも、今のあの方にとっては長いのでしょう。
わたくしは部屋を出て、廊下の角を曲がり、そこまで来て、やっと息を吐きました。
……ああ、休むように命じられたのに、休み方が分かりません。
少しだけおかしくなって、口元が上がりました。フレイア様のことを言えません。
ともかく、少しでも身体を休ませましょう。
侍女部屋へ戻れば、誰かが湯を出してくれる。靴を脱ぎ、椅子に座り、目を閉じればよいのでしょう。
……けれど、目を閉じれば王宮が浮かびます。
南の離宮。北の離宮。新王府の仮印。前王陛下。マリーシア様。まだ生まれていない御子。
そして、フレイア様に見せていない手紙の数々。
わたくしは侍女部屋へは行かず、花を置いている小部屋へ向かいました。
白い花は、あと四本残っています。
香りのないもの。茎が細く、花びらも薄い。
王宮の礼拝堂の王妃席に置かれていたという花と、似ているかもしれません。
けれど別の花です。もしも同じ種類であったしても、意味は違います。王妃席の空位を示すためではありません。
これはフレイア様が窓辺で見るための花。それだけでよいのです。
わたくしは水を替え、茎を少し切りました。刃が茎を斜めに落とす音は小さく、雨の音に混じります。
一本ずつ、器へ戻す。白い花が、水の中で少し揺れます。
その揺れを見ているうちに、一刻のうち半分が過ぎました。
*
部屋へ戻ると、フレイア様は窓の方を向いていました。年配の侍女が椅子から立ち上がり、静かに礼をします。
雨はまだ細く降っています。
皿には、焼き林檎が半分。もう三分の一ほど減っていました。
「リーナ」
フレイア様がこちらを向きました。
「戻ったのね」
「はい。戻りました」
わたくしは花瓶を窓辺へ置きます。フレイア様がその白い花を見ました。ほんの少しだけ柔らかい表情で。
「……水が変わったのね」
「はい。茎も少し切りました」
「長く持つ?」
「持たせるために」
「リーナは、そういうことを言う時、少し怖い顔をするわ」
わたくしは手を止めました。年配の侍女が、部屋の隅で少しだけ目を伏せます。
「怖い顔でございましたか」
「ええ。でも、頼もしい顔」
フレイア様はそう言って、皿の方へ目を落としました。焼き林檎が、匙の端で小さく崩れています。
「これも、持たせようかしら?」
「林檎は、お召し上がりくださいませ。そのためのものです」
「まだ、半分だけ」
「はい。今日は半分でございます」
フレイア様は匙を取りました。
その手はまだ細い。けれど、昨日よりも少しだけ持ち方が安定しています。
匙が林檎の端をすくいました。口へ運ぶ前に、一度だけ窓を見ました。
「前はね、雨の日は、王宮の廊下が暗かったの」
わたくしは返事を急ぎませんでした。
――王宮。
その言葉が出る日もあります。出ない日もあります。
「王妃府の奥の廊下ですか」
「ええ。灯りを増やすと、書面の白さが変わって見えるでしょう。だから雨の日は、席次表を見る前に少し窓を開けたの」
そこまで言って、フレイア様の手が止まりました。匙の上の林檎が、少し冷めていきます。
「でも、今は、開けなくてよいのね」
「はい」
わたくしは静かに答えました。
「今日は、書類も手紙もございません」
「ないのね」
「はい。今はただ、花と、雨と、焼き林檎だけがございます」
フレイア様は匙を見ます。それから、林檎を口に入れ、ゆっくり噛みます。
飲み込むまで、少し時間がかかりました。
わたくしは水を差し出そうとして、やめました。フレイア様が自分で杯へ手を伸ばしたからです。
杯を持つ。一口飲む。戻す。年配の侍女も、奥様も、わたくしもそれをただじっと見ていました。
フレイア様は杯を戻した後、白い花に目をやりました。
「王宮は、本当に遠くなったのね」
フレイア様は、その言葉をまだ手の中で転がしておられるのでしょう。
「はい」
わたくしは答えました。
「遠くなりました」
「リーナも?」
「わたくしは、いつもこちらにおります。フレイア様のおそばに」
フレイア様は少しだけ笑いました。
「そうね。あなたは、ここにいる」
「はい」
「でも、リーナの中にも王宮が残っているでしょう?」
それは、痛いところでした。残っています。
鍵の束。香袋。王妃府の扉。儀典長補佐の声。女官の手。
南の離宮へ流されかけた品々。陛下、と呼ばなくなった方の足音。
止めた文。通さなかった文。写しを取られた文。
……全部、残っています。
「残っては、おります」
嘘は申しませんでした。
「でも、持って帰ってきたものもございます」
「何を?」
「フレイア様の香袋を。銀の小箱を。灰青の外出着を。白い手袋を。あの日、持ち出せたものを」
フレイア様の手が、掛け布の上で少し動きました。
「あの香袋、ここにあるの?」
「はい。香は抜いてございます。布だけ、箱に」
「そう」
フレイア様は、雨の方へ目を向けました。
「香は、まだいらないわ」
「はい。まだ入れません」
「いつか、少しなら」
「セヴラン先生に確認いたします」
フレイア様の口元が、少し緩みました。
「確認?」
「はい。確認でございます」
「王宮みたい」
「公爵家の確認は、フレイア様を休ませるための確認でございます」
言ってから、少し強かったかと思いました。
けれどフレイア様は、ただ花を見ていました。
「そういう確認も、あるのね」
「ございます」
しばらく、雨の音だけがしました。
*
夕方前、奥様が部屋へいらっしゃいました。
手には薄い書面を一枚だけ。わたくしはすぐに見ました。
王宮からの書面ではありません。公爵家の台所からの献立控えです。
奥様はそれをフレイア様へ見せるためではなく、自分が確認するために持っておられました。
「明日の林檎ですが」
奥様は椅子に座りながら言いました。
「セヴラン先生がよいと言ったら、丸ごとにしましょう」
「はい」
フレイア様は匙を持ちました。皿には、まだ小さく林檎が残っています。
それをすくう。崩れたところを、匙の背で少し寄せる。口へ運ぶ。飲み込む。
皿には、ほんの少しだけ蜜が残りました。
「終わりました」
フレイア様は淡い笑顔を見せました。
奥様は「ええ」と答えただけです。決してそこで褒めたりは致しません。そう言ってしまうと、次を無理に食べようとします。
「では、明日、先生に訊きましょう」
「はい」
わたくしは皿を下げました。銀の匙が、皿の縁で小さく鳴ります。
その音で、フレイア様が少しだけ目を細めました。
「その音、好き」
「匙の音ですか」
「ええ。王宮の銀器は、もっと硬い音がしたのよ」
「こちらの皿は、少し厚いのでございます」
「そう」
フレイア様は、納得したように頷きました。
銀器の音。皿の厚み。雨の細さ。白い花の水。
今のこの方が見るものは、そのくらいでよいのです。
――王が退位したこと。
――前王が北の離宮へ移ったこと。
――新王陛下が王妃陛下を求めないと文に書いたこと。
それらは、まだこの部屋の外にあります。
外に置いておくために、旦那様も奥様も私も、書面を受け取り、畳み、鍵をかけています。
フレイア様は花を見ながら、
「明日、雨がやんだら」
そこで言葉を切りました。
奥様が続きを待ちます。わたくしも待ちました。
「廊下を―― いえ、外を、少し、歩けるかしら」
奥様の手が、膝の上で止まりました。わたくしも、皿を持ったまま動きを止めました。
――廊下。
部屋の中ではなく。窓辺でもなく。扉の外へ。
「セヴラン先生に確認しましょう」
奥様が言いました。声は落ち着いています。けれど、少しだけ明るいものが混じっていました。
「短い距離でございますよ」
わたくしが言うと、フレイア様はすぐに頷きました。
「白い花のあるところまで」
廊下の角に、小さな台があります。今朝、そこにも香りのない白い花を置きました。
部屋から出て、十数歩。フレイア様が歩くには、今はまだ長い道です。
「そこまで行って、戻りましょう」
わたくしは言いました。
「はい」
フレイア様は、少しだけ背を伸ばしました。すぐに疲れたのか、また長椅子の背へ戻ります。
けれど、目は廊下の方へ向いていました。
わたくしは皿を盆に載せ、匙を横へ置きました。
白い花の水を、明日の朝もう一度替えなければなりません。廊下の角の花も。
フレイア様がそこまで歩くなら、水の濁った花ではいけません。
雨はまだ降っていました。
窓辺の白い花が、細い茎の先で少し揺れました。




