65 ディート公爵――新王からの手紙
新王からの文は、午後の薄い雨の中で届いた。
王宮の使者は、門前で馬を降りた。
馬の腹は濡れていたが、泡は少ない。急ぎすぎぬよう、しかし遅れぬよう、道を選ばせたのだろう。
やがて、家令が銀盆に封書を載せて持ってきた。
封蝋は新しく、王冠の印もまだ正式なものではない。即位礼の前に使う、新王府の仮印である。
私はしばらく、その印を見ていた。軽い。まだ国の重みを吸っていない。
だが、軽いからこそ、これから何を押すかが見える。
「妻を呼んでくれ」
家令に言うと、彼は一礼して下がった。
私は妻が来るまで封を切るのを待つ。
こういう文は、一人で読まない方がよい。怒りで読み落とすことがある。期待で読み違えることもある。
やがて妻が来た。薄い藤色のドレスだ。襟元には飾りがない。フレイアの部屋へ行く時の服装だ。
「あなた、それは王宮からですか」
「新王からだ」
妻の目が封蝋へ落ちる。
「もう、その印なのですね」
「そうだ」
「《《陛下》》ではなく?」
「《《新王陛下》》だ」
言ってから、喉の奥に少し重いものが残った。
昨夜まで王だった男でも、もう王とは呼ばない。当然だ。
当然だが、国はこういうところで音を立てずに変わる。
封を切ると、出てきた手紙は厚い。香はない。よい。今の王宮は、少なくともそこは覚えている。
文面の最初に、短い挨拶がある。私の目はすぐその一行へ行った。
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
私はその行を、二度読んだ。妻も横から見ていた。息を吸う音が、ほんの少しだけ聞こえた。
文は続く。
――御療養を、王宮の都合により妨げることはありません。
――旧王妃府の旧務については、王太后府、宰相府、夫人方代表、外務府、儀典長、地方報告制度に分け、御一人に戻さぬ形へ改めます。
――前王妃陛下の御名を、制度改変の名目として用いることも避けます。
――前王妃陛下には、御身の回復を第一にお過ごしいただきたく存じます。
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
そして最後。
――疑いを解くことを急がず、行いにて示します。
私は手紙を机の上に置く。窓の外で、雨粒が枝にゆっくりと落ちかけていた。細い雨だ。
庭師は今日、外へ出ていない。
「貴方は、どう思いますか?」
妻が訊いた。
「まあ、よく書けている」
「お信じになりますか?」
「無論、すぐには信じない」
「ええ」
妻は椅子に座った。背筋はしゃんとしていたが、その肩のあたりの肉が少しだけ落ちている。疲れが出たのだろう。
この二月、妻はずっと立っていた。娘の寝台の横。医師の前。家令への指示。王宮からの文の前。
泣かないように、折れないように、言葉を選びながら。
「けれど、これはこれまでと違う。残せる文だ」
私は言った。
「口約束ではない。新王の名で、フレイアをもはや求めはしないと書いてある」
「求めはしない」
妻はその言葉を小さく繰り返した。
「ようやく、そこからなのですね」
「そこからだ」
私は文の端を押さえた。
「我々は、フレイアを王宮へ戻さない。その方針は変わらない。新王がこの文を出したことで、王宮側にも同じ一線が引かれた」
「それは守られるでしょうか」
「守らせるのだ」
妻がこちらを見た。その目に、少しだけ火が戻っていた。
「では、写しを」
「三部取る。公爵家控え、医師控え、リーナ用」
「フレイアには」
「まだ見せない」
妻はすぐに頷いた。迷うことはない。私達は、同じところに立っているのだ。
「見せれば、あの子は読むでしょうね」
「ああ、必ず読む」
「そして、旧王妃府の旧務を分ける、というところで止まるでしょう」
「そうだ」
「外務府、儀典長、夫人代表、地方報告制度―― 頭の中で並べるでしょうね」
「そして、その中で、自分が何を覚えているか無意識に探してしまう」
「……ええ」
妻の手が、膝の上で重なった。
「でも、まだ、そこへ戻してはいけません」
「ああ、決して戻さない」
私は文を広げたまま置く。折ってしまってしまえば、また同じ行を見るために開くことになる。
今は開いたままがよい。
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
この一行を、私はしばらく机の上に出しておくことにした。
*
医師セヴランは、雨で濡れた外套を脱ぎ、手を温めてから執務室へ入ってきた。
公爵家の医師だ。フレイアを診る前には必ず手を温める。
そういう男である。
「お呼びで」
「新王陛下より文が来た」
私は写しを渡す。セヴランは立ったまま読んだ。医師らしく、感情の動きは少ない。
だが、前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません、の行で、一度だけ瞬きをした。
「閣下、これは、前王妃陛下へお知らせに?」
「まだだ」
「それは賢明かと」
「医師としてのお前の見解を聞きたい」
「今のフレイア様には、王宮の制度改変という言葉だけでも重うございます。御自身の仕事が分けられると聞けば、安心より先に、どの記録がどこへ行くかを考えられるでしょう」
その通りだった。セヴランは文をもう一度見た。
「ただ、安心材料として、公爵閣下と奥様が穏やかであることは伝わってよろしいかと」
「どういう形で」
「今現在は王宮からの急ぎの手紙はない、と。御療養を妨げるものは通さない、と。以前より少し強く言って差し支えありません」
「前王が退位したことは」
「それはまだ早いです」
セヴランの返事は早かった。
「前王陛下、北の離宮、その側妃、御子、継承。そのあたりは、一つ聞けば次は次は、とあの方は考えられます」
「考えるなと言っても、考える」
「はい。あの方は考えてしまうのです」
医師は、少し困ったように言った。そのように、つい考えてしまう、それ自体が今は危ういのだ。
以前ならそれは美点だった。思慮深い王妃。それは素晴らしいことだ。美徳だ。
だがそのフレイアの美徳に、王宮はいつの間にか寄りかかった。ぶら下がった。
そしてその存在に、いつの間にか気付かなくなってしまった。
あれはよく出来た娘だった。
子供の頃から、一つ教えればその次の次まで先を読んだ。先回りして、私達を驚かせたり喜ばせたこともあった。
私達はそれを褒めた。ごく当然に。すると次はもっと上手くやろうとしてきた。
意欲のある娘。自慢の娘。
だからこそ、教えられたことは素直にそつなくこなすが、どこか危なっかしい王を補佐するに相応しいと期待された。
だが、それだけにあの子は、期待に応えすぎてしまった。自分の能力を出し惜しみすることなく、ただ素直に。
そして周囲は――私も含めて――それを褒めはしても、抑えることをしなかった。
私達はそれを悔いた。
真面目な娘が、自分の限界を超えてまでやりかねないことにどうして気付かなかったのか。
ピンと張り詰めた糸はどこかで切れる。
そのことを娘に教えていなかったことを、私達はどれだけ悔いたことか。
だからこそ、前王に対しては、長い長い年月をかけて、己が平気で享受した安楽を、怠惰を、無為な時間を死ぬまで味わわせてやりたい。
何、ただ一人の男を閉じ込めて警護するだけなら大したものではない。そのくらいは我が公爵家の僅かな私費でも充分だ。広い離宮で、ただ生かすだけならば。
そしてまだあの男に、少しでも誇りや意欲というものが残っていたならば、何者にも必要とされず、ただ生かされているだけの状態は、じわじわとその精神をむしばむことだろう。
あのお花畑の女から生まれるはずの子供の消息も聞かせない。女とも連絡は取らせない。あの男はただ一人になればいい。
そして年月が経って、世話をする者達を、道具ではなく、同じ人間と見なせるようになった時。
その時こそ、自分が何をしたのか、五年間も、至らぬ自分の責務の隙間を黙々と埋め続けた我が娘のことを思い返して、繰り返し悔やめばいい。
無論それでも許す訳にはいかないが。
「……それでは、今日も焼き林檎で?」
妻がセヴランに問いかけた。
「昼は粥を少し増やしてもよろしいでしょう。焼き林檎は夕方に半分。まだ、昨日より多くなさらず」
「一つ丸ごとは……?」
「明後日まで待ちましょう」
妻は真剣に頷いた。
王宮では王が退位し、新王が制度を改めているが、この家では、焼き林檎を半分から丸ごとへ増やす日を医師と真剣相談している。
どちらも必要な話だった。
私はその差を、以前なら滑稽と思ったかもしれない。だが今は思わない。
半分の林檎を食べられるようにする方が、少なくともこの家では、王位より重いのだ。
*
「お呼びでございますか」
リーナはフレイアの部屋からそのまま来たらしく、手に白い花の茎を一本持っていた。
途中で気づいたのだろう。部屋へ入る前に、花を背後の侍女へ預けた。
「新王陛下から文が来た」
彼女の表情は変わらなかったが、その指先が前掛けの端を一度だけ強く押さえる。
私は写しを渡した。リーナは、声に出さずに読む。
相変わらず目が速い。王妃付き侍女として、王宮の書面を読み慣れている。
彼女は最後まで読み、最初の一行へ戻り――
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
――そこに視線を止めた。
「……フレイアには、今はまだ、見せない」
「はい」
すぐに返してくる。
「しかし、身辺管理上、そなたには写しを持たせる。王宮からの文が来た時、判断の基準にしなさい」
「承知いたしました」
「今のフレイアは何か察することがあるだろうか?」
リーナは少し考えた。
「ございます」
「何で」
「旦那様と奥様のお顔で。家令達の動きで。わたくしが部屋へ戻る時の歩き方で。フレイア様は自然に、空気をお読みになります」
私は少し苦笑した。その通りだ。あの子は、寝台の上にいても、《《つい人の足音を聞いてしまう》》。
「では、どうする」
「嘘はつきません。急ぎの御用はございません、と申し上げます。王宮からの御務めは、旦那様と奥様が止めてくださっています、と」
「前王退位のことは」
「まだ申し上げません」
「新王のことも」
「まだ」
「では、王宮に関しては?」
リーナは、文の写しを両手で持ったまま答えた。
「遠くなりました、とだけ」
それを聞いて、妻は少し目を伏せる。
――遠くなりました。
よい言い方だ、と私は思った。
王宮自体はなくなってはいない。ただ、遠く。今のフレイアには、それくらいでよい。
リーナは写しを丁寧に畳み、懐には入れず侍女用の小さな文挟みに収める。雑な扱いはしない。
「フレイアは今?」
私が訊くと、リーナの表情が少し柔らかくなった。
「白い花を見ておいでです。雨が細いので、窓を少しだけ開けました。香りはありません。雨の音だけ、少し」
「寒くは」
「膝掛けを二枚にしております」
「粥は」
「昼の分は、まだです。朝は昨日と同じ量を召し上がりました」
妻が小さく息を吐く。言葉にはしない。フレイアがまた気にしないように。
「リーナ」
「はい」
「この手紙で、そなたも少し休めるか」
リーナは一瞬、意味が分からない顔をした。自分が休むことなど、考えていなかったのだろう。
それではいけない。フレイアと同じだ。
「フレイアが眠っている間、交代を入れる」
「旦那様、わたくしは」
「命令だ」
少し強く言った。リーナは口を閉じ、深く頭を下げた。
「では、半刻だけ……」
「一刻だ」
「旦那様」
「一刻よ」
妻が横から言った。
「リーナ、あなたが倒れれば、フレイアが気にします」
その言葉で、リーナはようやく頷いた。
「承知いたしました。一刻だけ、交代を受けます」
よろしい。私は文の写しをもう一部、家令へ渡すよう命じた。
*
夕方になって私はフレイアの部屋へ行った。妻と一緒だった。
リーナは少し前に交代へ入り、代わりに年配の侍女が部屋の隅へ控えている。
フレイアは長椅子に座っていた。膝には薄い掛布が二枚。
窓は少し開いていて、雨の音が細く入っていた。
白い花が、花瓶に三本。香りはない。花びらの端に、雨の光が薄く乗っている。
「お父様」
フレイアはこちらに顔を上げる。今日は顔色が昨日よりは少しよく見えた。
だが、そういうことを軽く口にすると、本人が無理をしてしまうから、言わない。
「ああ、雨を見ていたのか」
「ええ、さあさあと落ちる音が、耳に心地よくて」
「寒くはないか?」
「リーナが、膝掛けを増やしてくれました」
「そうか」
私は椅子に座った。妻はフレイアの隣へ回り、掛け布の端を直した。
その動きで、フレイアが少し笑う。
「お母様、そこは先ほどリーナも直しました」
「私も直しますよ。温かくなさい」
「はい」
短いやりとりだったが、部屋の空気が少し柔らかくなった。
机の上には、昼の粥の器が下げられた後の盆がある。まだ少し残っている。
だが、量は昨日より多いと聞いている。
「王宮から、何かありましたか」
フレイアが言う。
やはり来た。妻の手が、掛け布の上で止まる。私はリーナの言葉を思い出した。
――遠くなりました。
「特に急ぎはない」
私は言った。
「御務めは?」
「こちらで止めている」
「止めて……」
フレイアは、その言葉を小さく繰り返した。
少し不安そうな顔になった。止めている、では強かったか。私は続けた。
「もう、王宮は、遠くなったのだよ」
フレイアの目が、こちらへ来た。
「遠く……」
「そうだ。今は、こちらへ書類や手紙が来ても、すぐそなたへは渡さない。王宮のことは、王宮で扱うのだ。そして公爵家のことは、公爵家で扱う。そなたはただ、公爵家の娘として、ここで休む」
フレイアは、しばらく私を見ていたが、やがて窓の方へ目を移した。
雨が細く降っている。
「王宮が、遠く」
もう一度、そう言った。今度は、先ほどより少し低い声だった。
「ええ」
妻が答えた。
「そうです、遠くなりました」
フレイアの手が、掛け布の上で少し動く。何かを探すような動きだった。
そこには書類はない。ペンもない。席次表もない。ただ、ふわりとした柔らかい布があるだけだ。
「では、今日は」
フレイアは言いかけて、少し止まった。言葉を選んでいる。
前王妃としてではない。病人としてでもない。今日の自分が何をするか、探している。
「……焼き林檎は、夕方でしたね」
妻の顔が、一瞬だけ崩れそうになった。
「ええ。半分です」
「半分」
「明後日、先生がよいと言ったら、丸ごとにしましょう」
フレイアは、少し考えてから頷いた。
「では、今日は半分」
「はい」
私は、机の上に手を置く。
王宮からの文は、この部屋にはない。新王の署名も。退位の話も。北の離宮も。南の離宮も。何もない。
白い花と、雨の音と、夕方の焼き林檎半分だけがある。
やがて、年配の侍女が、静かに皿を運んできた。
銀の匙が、皿の縁で小さく鳴った。




