64 新王アレクシス――梁を減らすには柱を増やす
王冠は、まだ宝物庫にあった。
即位の礼の前に、私は王の机に座っている。父上の机であり、兄上の机だったものだ。
机の傷は、思ったより多い。右端に細い切り傷が二本、中央の少し奥にインクの染み。兄上は、こういうものをあまり気にしなかったのだろう。私は指先でその染みの縁をなぞり、すぐに手を離した。
机の上には、王冠より先に置かれたものがある。
――旧王妃府業務分散案。
――修道院・施療院・孤児院支援臨時評議の設置。
――外務府控え制度。
――儀典記録制度。
――地方支援必要量の秋季報告。
――前王陛下書簡管理。
――南の離宮保護規定。
――前王妃陛下接触制限。
書類は減らない。前王陛下を北の離宮へ移せば、それで王宮が静かになるわけではない。
むしろ、静かになったところから、これまで聞こえなかった軋みが聞こえてくる。
「陛下」
宰相が、臨時評議の出席者案を机に置いた。その呼びかけには、まだ慣れない。
慣れないまま、返事をする。
「読む」
宰相は一歩下がった。
出席者。宰相府より二名。王太后府より一名。旧王妃府旧記録担当より一名。
夫人方代表として、グライス夫人、ローレン侯爵夫人、カッセル伯爵夫人。
施療院代表、修道院代表。
必要に応じて、地方領主から報告書を受ける。
旧王妃府旧記録担当、という文字で手が止まった。
「旧王妃府旧記録担当とは誰だ」
「旧王妃府の下級女官で、控え棚を管理していた者です。前王妃陛下御療養後、女官長の下で記録庫へ回されております」
「その女官は、前王妃陛下の赤い書き込みを読めるか」
「読めます。ただし、判断はできません」
「判断はさせない。読めればよい」
宰相がうなずいた。私はペン記役へ目を向ける。
「旧王妃府旧記録担当の役割は、過去控えの提示のみ。新規判断は評議で行う。そう書き直せ」
ペン記役がすぐに書き留める。ペン先が書面の上を走る音がした。
「旧王妃府は空にしない」
私は言った。
「記録は残す。顔も残す。だが、旧王妃府だけで抱えさせない。赤い書き込みは尊重するが、赤い書き込みがなければ動けない形にはしない」
宰相が少しだけ目を伏せた。
「承知いたしました」
「承知で済ませるな。これは、宰相府にも返ってくる話だ」
「はい」
「寄付配分を旧王妃府に任せきりにしたのは、宰相府の怠慢でもある」
宰相の顔に、ほんの少し血の気が差した。
怒ったのではない。刺さったのだろう。
「仰せの通りです」
「責めるために言っているのではない。今後、宰相府がすべて握るのも違う。夫人方に押し返すのも違う。施療院と修道院へ丸投げするのも違う」
私は机の上の案を指で押さえた。
「梁を外すなら、柱を増やすしかない」
宰相は、その言葉を少し反芻するように黙った。
「梁、でございますか」
「イルマ殿下が、前王妃陛下を梁にしていたと言った。私は、それを聞いて忘れられなかった」
梁は、見えにくい。見上げなければ、あることにも気づかない。けれど重みは受けている。
それが折れかけて、初めて家中が騒ぐ。
兄上は、梁を戻せば家が元通りになると思った。
私は、梁を減らさねばならない。いや、一本に寄せていた重みを、いくつもの柱へ分ける。それだけだ。
言葉にすれば簡単なことが、書面の上では何枚にもなる。
*
最初に来たのは、グライス夫人だった。新王への挨拶ではない。臨時評議の事前確認である。
彼女は淡い緑のドレスを着ていた。茶会へ出る時より飾りが少ない。
「陛下」
礼は深かった。私は立ったまま迎えた。
「急な呼び出しを詫びる」
「急がねばならない御用と存じます」
この夫人は、よく見ている。前王陛下の名で招かれた茶会へ出席し、茶を飲み、礼をして、そのまま修道院へ向かった方だ。
王宮が何を欲しがり、何を見ていなかったか、おそらく誰より早く察していた。
「夫人方の代表という形は、重すぎるか」
私が訊くと、グライス夫人は扇の骨を指で押さえた。
「軽くはございません。ただ、前王妃陛下が御一人で背負われていたものに比べれば、分け合えるだけ軽うございます」
まっすぐな返事だった。
「前王妃陛下の名を、評議の前面には出さない」
私は言う。
「御快癒祈願の名で動いた寄付を、王宮が吸い上げる形にもしたくない。夫人方の善意は、夫人方の名で残す。ただし、重複と不足が出ないよう、写しを共有したい」
「それならば、夫人方も受け入れやすいでしょう」
「王宮を信用してくれるか」
グライス夫人は、少しだけ間を置いた。この間に、ごまかしを入れないところがよい。
「今すぐには」
「そうだろうな」
「ですが、前王妃陛下へ戻さないための仕組みであるなら、協力する方は多いはずです」
「前王妃陛下のために、という名目になるか」
「名目ではなく、事実でしょう」
彼女は静かに言った。
「ただし、前王妃陛下御快癒祈願を王宮が便利な札として使えば、また閉じます」
「便利な札」
「はい。あの方の御名を掲げれば夫人方が動く、という扱いをなさらないでくださいませ」
私は頷いた。痛いところだった。
新王になったばかりの私も、フレイア前王妃陛下の名を使えば、離れた夫人方が戻るのではないかとどこかで考えていた。
その考え自体が、すでに危うい。
「評議の名に、前王妃陛下を入れない」
私はペン記役へ言った。
「臨時慈善配分評議。旧王妃府は構成の一部として入るが、名には出さない」
ペン記役が書く。グライス夫人は、そこで初めてほんの少し肩を下ろした。
「それならば、話せます」
「話せるだけか」
「最初は、それで充分では」
その通りだった。いきなり信頼など戻らない。話せる場を作る。今は、そこからだ。
*
午後、外務官フェリクスが来た。
彼は灰青の布の写しと、ルブラン公国使節の私的控えを持っていた。
控えには、赤い布、双鳥文様、婚礼菓子の件が細かく記されていた。外した時刻、倉庫担当者、代替品、山岳修道院色の確認先。
細かすぎるほどだった。
だが、次に同じことを起こさないには、これが要る。
「外務府の正式控えとする」
私が言うと、フェリクスはすぐには頷かなかった。
「私的控えには、相手方の表情や、こちらの失敗に近いものも含まれます」
「だから正式控えにする」
「陛下」
「成功した記録だけ残すな。次に見る者は、何を避けたのか分からない。赤い布を使わなかった、では足りない。使いかけて外した、と残す」
フェリクスは、少しだけ目を伏せた。
「承知いたしました」
「旧王妃府にも写しを送る。ただし、前王妃陛下へではない。旧王妃府記録へ」
「はい」
「前王妃陛下の赤い字がない年も、外務府で更新する。相手国の喪、婚約、病、修道院関係、贈答の好み。外務府の仕事として持つ」
「それを、旧王妃府へ共有する」
「そうだ。旧王妃府だけが知るのではなく、旧王妃府も知る形にする」
フェリクスの顔に、疲れたような安堵が出た。
この男も、二月でずいぶん消耗した。
兄上の言葉を遮った男。そのせいで責められた男。
だが、遮らなければ、ルブラン公国はこちらの王宮をもっと深く読んだ。
「公国へは、どう出す」
私が訊くと、フェリクスは別の書面を出した。
「前王陛下御退位と新王御即位については、正式な挨拶文を準備しております。内政上の安定措置、王太后陛下の御補佐、新王陛下の即位礼日程、山道税協議継続の確認を入れます」
「マリーシア殿と腹の子については」
「触れません」
「公国は読むだろう」
「読みます。ですが、こちらが触れなければ、向こうも正式には触れません」
「なら、それで」
フェリクスは一礼した。それから、少し迷ったように口を開いた。
「陛下。前王陛下の御退位について、公国側は王宮の乱れと読むでしょう」
「読ませない文は作れないな」
「はい」
「なら、乱れを処理できる王宮だと読ませるしかない」
フェリクスは、今度はすぐに頷いた。
「その方向で整えます」
*
儀典長が来たのは、夕方近くだった。
彼は、前王の正妃席と側妃席、前王席、新王席の扱いを記した分厚い書面束を持っていた。
いかにも儀典長らしい。席が変わると、世界が変わる。彼らは、それを書面で支える。
「即位礼では、前王妃席をどうする」
私が訊くと、儀典長は書面束の一枚を開いた。
「前王妃陛下は御療養中により御欠席。御席は設けますが、白い小花を置き、空位を示します」
「前王陛下は」
「北の離宮にて御静養中により御欠席」
「マリーシア殿は」
「御身を理由に御欠席。席は設けません」
「設けないのか」
「はい。席を設けて空けますと、腹の子と継承について余計な視線が集まります」
その判断は正しい。冷たいが、正しい。
「フレイア殿の席だけが空く」
「はい」
「それは、あの方を呼び戻す圧にならないか」
儀典長は、そこまで考えていたらしい。別の書面を出した。
「前王妃席は、御療養中の象徴としてではなく、ひとまずは敬意を表す位が存続していることを示すために置きます。式次第には、王太后陛下が女主人役を務めると明記します」
「あくまで実務は求めない」
「その一文も、式次第控えに入れます」
「入れてくれ」
私は書類束を見た。
席一つ。花一つ。書き方一つ。それだけで、人は何かを読む。
兄上は、それを面倒だと感じていただろう。私も、少し前なら面倒だと思ったかもしれない。
今は、その面倒を書面に残すしかない。
「儀典長」
「はい」
「旧王妃府の赤い字を、儀典記録に写す時、赤ではなく黒で写せ」
儀典長が顔を上げた。
「黒で、でございますか」
「赤い字をそのまま写せば、前王妃陛下の手がまだそこにあるように見える。今後は儀典長の記録として残す。由来には、旧王妃府旧控えより、と記せばよい」
儀典長は、しばらく黙った。そして深く頭を下げた。
「承知いたしました」
赤い字を、黒で写す。
消すのではない。残す。ただ、これから先の責任は、書き写した者が持つ。
あの方の手から、一つずつ離す。
*
夜になる前に、王太后陛下の部屋へ、今日の決定を持って行った。
陛下は礼拝前だった。薄い茶を飲んでいた。
以前、茶が濃すぎたと聞いたことがある。今は、王太后府の女官がきちんと覚えているのだろう。
陛下は私の書面を読み、何度かうなずいた。
「夫人方は」
「グライス夫人が、話せると言いました」
「信用するとは」
「言いませんでした」
「正直です」
「はい」
私は椅子に座らず、立ったまま報告した。座れば、少し長くなりそうだった。
まだ書く書類がある。
「外務府は、失敗寸前の記録も正式控えにします。儀典長は、赤い字を黒で写します。旧王妃府旧記録担当は、過去控えの提示のみ。新規判断は評議へ」
王太后陛下は、赤い字を黒で写す、のところで少しだけ目を伏せた。
「それはよい」
「はい」
「フレイアの手を、書面から離していくのですね」
「離します。ただし、消しません」
「それでよい」
その言葉を聞いて、少しだけ息が抜けた。
今日、何度目か分からない。私はまだ、王太后陛下の「よい」を必要としている。
それを恥じるには、まだ早い。必要なものは、必要なまま受け取る。
「ディート公爵への文は」
王太后陛下が訊いた。
「これから仕上げます。冒頭はもう書きました」
「何と」
「フレイア前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません、と」
王太后陛下は、茶碗を受け皿へ戻した。音は小さい。
「公爵は、それでもすぐには信じないでしょう」
「承知しています」
「公爵夫人は、さらに疑うでしょう」
「その方がよいです」
私がそう言うと、王太后陛下は少しだけこちらを見た。
「疑われる王でいるつもりですか」
「しばらくは。信用してください、とこちらが言うより、疑ったまま見ていただく方が安全です」
王太后陛下の口元が、ほんの少し動いた。
笑いではない。けれど、硬さが少しだけ抜けた。
「王としては、悪くない言葉です」
「褒められた気はしません」
「褒めています」
少しだけ、部屋の空気が軽くなった。が、すぐに戻った。
まだ軽くなりきる時ではない。
「北の離宮から、何か」
私が訊くと、王太后陛下は首を横に振った。
「到着の報告のみ。御食事を少し。南の離宮宛の文を書きかけたようですが、出してはいません」
「書きかけ」
「マリーシア、と名だけ」
目を閉じたら、その書面が見える気がした。
「渡されていない黄色い封筒のことは」
「まだ」
「いずれ求めるでしょう」
「求めます」
王太后陛下は、茶碗の蓋に指を置いた。
「その時は、その時に扱います。今夜は、ディート公爵への文を仕上げなさい」
「はい」
*
自分の執務室へ戻ると、灯りが増えていた。
机の上には、ディート公爵への文が置いたままになっている。
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
その下が、空白だった。私は椅子に座り、ペンを取った。
――御療養を、王宮の都合により妨げることはありません。
――旧王妃府の旧務については、王太后府、宰相府、夫人方代表、外務府、儀典長、地方報告制度に分け、御一人に戻さぬ形へ改めます。
――前王妃陛下の御名を、制度改変の名目として用いることも避けます。
――前王妃陛下には、御身の回復を第一にお過ごしいただきたく存じます。
そこまで書いて、手が止まった。
公爵は、これをどう読むだろう。足りないと思うか。遅いと思うか。当然だと思うか。
おそらく、全部だ。
私は最後に一行を足した。
――疑いを解くことを急がず、行いにて示します。
吸い取り紙を乗せ、外す。
行いにて示します、の字が、まだ少し光っていた。
乾くまで待つ。急いで封じれば、内側に写る。
今の王宮に、これ以上読みにくい紙を増やすわけにはいかない。
私はペンを置き、乾くのを待った。
灯りの下で、インクの艶が少しずつ消えていった。




