63 前王エルヴィス――北の離宮
北の離宮へ移る日は、二日後の朝になった。
侍従長補佐が、前夜のうちに告げに来た。
「道の状態がよく、明朝の御移りが最も穏当との判断でございます」
――穏当。
その言葉を、彼らは本当に好む。
私は長椅子に座ったまま、彼を見た。侍従長ではない。補佐だ。カレル侯爵は、もう私のそばに常に立つ役から外れたらしい。新王のそばへ移ったのだろう。
当然か。王の侍従長なのだから。私はもう王ではない。
「南の離宮へは」
「本日は、御移りの準備がございますので」
「マリーシアへ会わずに行けと言うのか」
侍従長補佐は、一礼したまま、顔を上げなかった。
「側妃マリーシア様には、王太后府より御説明が入っております」
「私からは」
「手紙はお出しいただけます。ただし、北の離宮へ御到着後、御体調が落ち着かれてから、王太后府の確認を経て」
「私の体調か」
「前王陛下の御静養のためでございます」
――静養。
――北の離宮。
――確認を経た文。
私は笑いそうになったが、声は出なかった。
「下がれ」
侍従長補佐は深く礼を取り、部屋を出た。扉の外には、二人の侍従と、二人の近衛が。
――近衛。
護衛と呼ぶには立ち位置が近い。監視と呼ぶには礼がきっちりしすぎている。
私が扉を開ければ、彼らは一礼する。だが、その後ろの廊下は空いていない。どこへ向かうにも、先に誰かが立つ。
王宮は、急に狭くなった。
*
出立の朝、冠は出されなかった。
濃紺の上着と、銀の留め具。前王としての装いだという。
侍従が留め具を合わせる時、手が少し震えていた。若い男だ。私の即位後に入った者だろう。私の目を見ない。
「怯えているのか」
侍従の指が止まった。
「恐れ多いことでございます」
「何が」
「前王陛下の御前で、不手際を」
――前王陛下。
言い慣れていない呼び方だった。彼自身も、言ってからほんの少し唇を引き結んだ。
「王ではないから、不手際をしても首は飛ばぬ」
侍従はさらに青くなった。冗談のつもりだった。
いや、冗談ではない。以前なら、私はそんなことを言わなかったかもしれない。
言ったとして、周囲は笑ったかもしれない。
今は笑わない。
「もうよい」
私が言うと、侍従は留め具を整え、下がった。
鏡の中の私は、王ではなかった。前王という衣装を着せられた男だった。
部屋の机には、荷の目録が置かれている。
――北の離宮へ運ぶもの。衣類。祈祷書。寝具。医師の箱。
私物として認められた小箱。認められなかったものは別に積まれていた。
――印章。公文用の封蝋。王宮内で使っていた短剣。父の代からあった小さな金時計。
金時計はなぜ駄目なのかと訊くと、侍従長補佐は「確認中」と答えた。
あれも、確認。
私は自分の机の上にあった花柄の封筒を探した。
マリーシアからの白い封筒は、もうない。黄色い封筒も見せられていない。
南の離宮から文があったことだけは聞かされた。内容は、北の離宮へ着いてから。医師と王太后府の判断で。
彼女はどんな字を書いたのだろう。
泣いたのか。怒ったのか。会いたいと書いたのか。子のことを書いたのか。
私は何も知らないまま、王宮を出る。
*
馬車は、正門ではなく西門から出た。
王宮の正門を前王の馬車が通れば、外で待つ者に見られる。それを避けたのだろう。
西門は、物資の搬入や、夜間の医師の出入りに使う門だ。石畳は正門より狭く、馬車の車輪が少し跳ねた。
窓には薄い布が下ろされている。外が見えないほどではない。しかし、外から中は見えにくい。
私は布を上げようとした。向かいに座る侍従長補佐が、すぐに声をかけた。
「前王陛下、お風に障ります」
「風ではない」
「王太后府より、道中は御身を休めるようにと」
「王太后府は、窓の布まで決めるのか」
「御静養の手順でございます」
私は布から手を離した。
馬車が動く。王宮の壁が、布越しに流れていく。
南の離宮の屋根は、見えなかった。西門から出るなら、見えない。
わざとだろうか。たぶん、わざとだ。
馬車の前後には騎馬がついている。護衛の数としては多すぎない。しかし、逃げるには多い。
――逃げる。
そんな言葉を、自分に使う日が来るとは思わなかった。
「北の離宮には、誰がいる」
「管理官と、女官長補佐、医師、祈祷司、従者一式でございます。近衛も常駐いたします」
「近衛」
「御身の安全のためでございます」
「私が外へ出る時も?」
「庭は自由にお歩きいただけます。湖畔へは、医師の判断と警備の同行が必要でございます」
「王都へは」
侍従長補佐は、用意していた答えを出す顔になった。
「新王陛下ならびに王太后陛下の許可を得て、必要な場合に」
「必要とは」
「御弔事、御祭礼、その他王家の判断により」
「マリーシアの出産は」
初めて、彼の顔がわずかに固まった。
「側妃マリーシア様の御出産につきましては、王太后府より北の離宮へ御報告が入ります」
「立ち会えないのか」
「前王陛下」
「訊いている」
「御出産の場に、前王陛下がお入りになることはできません」
「生まれた後は」
「御子の御身が落ち着き、医師と王太后府が認めた後に」
「また、それか」
私は窓の布を見た。外は、もう王都の外れだろう。
馬車の揺れが変わっている。石畳から土の道へ。
王宮が遠ざかる。マリーシアも。フレイアも。
いや、フレイアは王宮にはいない。公爵家だ。
私はどちらからも遠ざかっている。
*
昼前、馬車は一度だけ止まった。小さな宿駅ではなく、王家の休憩所だった。
外へ出ると、風が冷たかった。
北へ向かっている。まだ春だというのに、王都より空気が硬い。
休憩所の中には、温めたスープと柔らかいパンが用意されていた。
食べる気はなかった。だが、医師が皿を置いた。
「少しでも」
「いらぬ」
「道中、空腹のままでは御気分が悪くなります」
「私を病人扱いするな」
「静養へ向かわれる御身でございます」
医師は若くない。父の晩年にも出入りしていた男だ。私に怯えない。
スープの表面に、薄く油が浮いている。
私は匙を取った。一口。味は薄い。王宮の食事よりも。
北の離宮で出されるものも、このような味になるのだろうか。
医師は、私が二口目を取るまで、皿の横に立っていた。それも腹立たしかった。
見張られている。食事まで。
「下がれ」
「御気分に変わりがなければ」
「下がれと言った」
医師は礼をして下がった。だが、部屋からは出ない。扉の近くで、薬箱の留め金を直している。
わざとではないのだろう。それが、さらに腹立たしい。
皆、自分の仕事をしている。誰も私を憎んでいるわけではない。
それなのに、私の周りの空気だけが、閉じていく。
*
北の離宮が見えたのは、夕方近くだった。湖の向こうに、石造りの屋根が見える。
灰色。王宮の南の離宮とはまったく違う。
南の離宮は明るい。窓が広く、壁も淡い色で、庭に花が置かれていた。
北の離宮は、湖の風を受ける石の箱だ。
庭は広い。しかし、花は少ない。常緑の木と、低い垣根。
道はきれいに掃かれているが、人が住んでいる温かさは薄い。
門の前には、管理官と従者が並んでいた。深く礼をしてくる。
その礼は丁寧だった。丁寧すぎた。
「前王陛下、御到着をお待ちしておりました」
管理官が言った。年配の男で、顔に表情を出さない。王宮で長く勤めた者だろう。
「待つよう命じられたからだろう」
管理官は一拍置いて答えた。
「御静養に不足なきよう、整えました」
――不足。
私は門の中へ入った。近衛が後ろにつく。
門は閉じられた。重い音がした。
庭を抜け、玄関へ向かう。湖の風が背中に当たる。広い。逃げ場がないほど広い。
建物に入ると、空気がさらに冷えた。
石の床。厚い敷物。壁には古い狩猟画。
父が若い頃に好んだ場所だ。今は、狩猟用の槍は外されている。
飾り棚の中も、空いているところがある。危険なものを外したのだろう。
そこまで整えてある。
「御居間はこちらでございます」
管理官が案内した部屋は、湖に面していた。
窓は大きい。ただし、外側に細い格子がある。
飾り格子だと言われればそう見える。開けても、人は通れない。
書き物机。長椅子。暖炉。小さな祈祷台。書棚。
棚には祈祷書と歴史書、狩猟記録、詩集が並んでいる。政務に関わるものはない。
机の上には、紙とペンとインク壺があった。だが、封蝋は置かれていない。
「封蝋は」
「御文をお出しになる際に、係が用意いたします」
「常に置かないのか」
「王太后府の御指示でございます」
王太后府。ここにも。
私は机の引き出しを開けた。中は空だ。二段目も。
三段目には、吸い取り紙だけが入っていた。
「見事だな」
管理官は答えなかった。
「私が何を書くか、そこまで恐れるか」
「御文は、すべて滞りなくお取り次ぎいたします」
「検めてから」
「手順に従いまして」
手順。
北の離宮は、その言葉でできているらしい。
*
夕食の前に、医師の診察があった。
脈。顔色。睡眠。食欲。
私は答えた。答えなければ終わらない。
その後、祈祷司が挨拶に来た。毎朝の祈りは、小礼拝室で行えるという。
希望すれば、庭を歩くこともできる。湖畔は、風が強いので午後の短い時間がよい。すべて、静養に必要な範囲で。
――静養。
この言葉を何度聞いただろう。
夕食は温かかった。薄味。消化のよいもの。酒は出ない。
「酒は」
私が訊くと、給仕役は丁寧に答えた。
「医師の御判断が下りるまで、控えるようにとのことでございます」
「私は病人ではない」
その言葉を、今日だけで何度言ったか。
給仕役は、皿を置くだけだった。反論しない。同意もしない。ただ、酒を出さない。
*
食後、机に向かった。紙を取る。
――マリーシアへ。
そう書いた。
だが、その先が、しばらく出てこなかった。何を書けばよい?
――私は北の離宮へ着いた。
――会えない。
――君の文は、まだ読んでいない。
――子のことは、私も知らされていないわけではない。いや、知らされている。王位には載せないと言われた。
それを、どう書く?
私は、マリーシア、と書いた書面を見る。その名だけが、少し浮いていた。
ふと、扉を叩く音がした。
「何だ」
管理官が入ってきた。
「御文をお書きの場合は、封じる前に係へ」
「まだ書いていない」
管理官の目が、机の上へ一瞬落ちる。見た。マリーシアの名を。
「失礼いたしました」
「待て」
私は彼を呼び止めた。
「南の離宮からの手紙は」
「王太后府より、御体調が落ち着かれてからとのことでございます」
「いつだ」
「明日、医師の診察後に問い合わせます」
「問い合わせる相手は」
「王太后府でございます」
「新王府ではないのか」
「書簡管理は、王太后府と新王府の共同確認となっております」
――共同確認。
私の手書面は、二つの府を通る。前王の手書面として。
いや、幽閉された男の手書面として。
「下がれ」
管理官は礼をして、扉が閉まる。
鍵の音はしなかった。しなかったが、扉の外には誰かが立っている。足音の気配で分かる。
私は紙を丸めようとして、やめた。
丸めれば、また記録されるのだろうか。書き損じ一枚。前王陛下、南の離宮宛の文を書きかける。
そんなふうに。
紙を裏返す。マリーシアの名は見えなくなった。
*
夜、湖の風が窓を鳴らした。格子の影が、床に細く落ちている。
暖炉は燃えている。寒くはない。
だが、王宮の部屋とは違う。南の離宮とも。
私は長椅子に座った。手元には、祈祷書が置かれている。
誰が置いたのか。
祈れということか。何を。私の子のためにか。マリーシアのためにか。フレイアのためにか。国のためにか。
扉の外で、近衛の靴音が一度だけ動いた。交代かもしれない。
王宮では、近衛の靴音を気にしたことなどなかった。今は、一つ鳴るだけで分かる。
ここは広い。庭もある。湖もある。部屋もきちんとしている。
食事も出る。医師もいる。祈祷司もいる。従者もいる。
……そして、私はどこへも行けない。
机の上の裏返した書面が、暖炉の風で少し浮いた。角がめくれる。
マリーシア、の字が一部だけ見えた。
私は立ち上がり、書面の上に吸い取り紙を置いた。
軽い書面で押さえただけなのに、もう動かなくなった。




