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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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62 王太后付き上級女官セレスタ夫人――あなたには見分けられない

 新王陛下からの返書は、白い封筒で届きました。


 南の離宮の小広間には、黄色い絵皿がまだ窓辺に置かれていました。朝の光はもう高く、皿の花は明るく見えます。

 けれど、その前に置かれた白い封筒は、光を受けても少し冷たい色をしていました。

 マリーシア様は、封筒を見た瞬間に顔を上げました。


「陛下から?」


 わたくしは盆を持ったまま、少しだけ息を整えました。


「新王陛下よりでございます」


 その一言で、マリーシア様の手が止まりました。椅子の肘に置かれた指が、布張りの上で少しだけ沈みます。


「……新王陛下」

「はい」

「前王陛下からではないの」

「前王陛下は、北の離宮への御移りの準備に入られております」


 コリンナ様が、マリーシア様の斜め後ろに立っておいででした。扇は持っていません。

 最近は、手に何かを持たないことが増えました。何かあれば、すぐマリーシア様を支えられるようにしているのでしょう。

 マリーシア様は白い封筒を見つめたまま、しばらく動きませんでした。

 それから、ゆっくり手を伸ばされました。


「読みます」

「はい」


 封蝋は新王府のものです。

 まだ新しい印。王冠を戴く前の、新しい王の印。

 マリーシア様は封を切るのに少し手間取りました。刃を差し込む位置がずれて、書面の端が小さく裂けました。

 わたくしが手を出そうとすると、彼女は首を横に振りました。


「自分で開けます」


 声を震えないようにしているようです。書面を開く音が、部屋の中で大きく聞こえました。

 マリーシア様は読み始めました。

 最初の数行で、唇の色が少し薄くなりました。


 ――御文は、王太后府ならびに新王府にて確かに受け取りました。

 ――前王陛下は、北の離宮への御移りの準備に入られました。

 ――御身と御子につきましては、王家が責任をもって保護いたします。

 ――御面会につきましては、医師の判断と王太后府の手順に従うこととなります。

 ――今は御身を第一に、南の離宮にてお休みください。

 ――御不安は、セレスタ夫人およびコリンナ殿を通じて、王太后府へお伝えください。


 読み終えた後、マリーシア様は手紙を膝の上に置きました。何もおっしゃいません。

 泣くより先に、言葉がなくなったのでしょう。その沈黙の方が、わたくしには怖く感じられました。


「王家が責任をもって保護」


 やがて、マリーシア様はその一行だけを読み上げました。


「保護、保護、保護。皆様、本当にその言葉がお好きですのね」


 書面の端が、彼女の指の下で折れました。


「わたくしは、牢に入る罪人ではありません」

「そのような意味ではございません」

「では、どういう意味ですの。会いたい人には会えない。文は読まれる。どこへ行くにも医師と王太后府の手順。子のことも、わたくしには決められない。それを保護と言うの?」


 コリンナ様が、一歩近づかれました。


「マリーシア、今は御身を荒立ててはいけません。言葉が強くなるほど、あなたの疲れが増します」

「叔母様も同じことをおっしゃるのね」


 マリーシア様は、コリンナ様を見ました。


「御身。御子。疲れ。静養。保護。皆、その言葉でわたくしを椅子に座らせるだけです」

「座っていてほしいのです」


 コリンナ様は、逃げずに言いました。


「今のあなたは、立って走って何かを変えられるお体ではありません」

「何かを変えたいわけではありません。陛下に会いたいだけです」

「前王陛下です」


 言ったのは、わたくしでした。マリーシア様の目が、こちらへ向きました。

 痛いほどまっすぐに。


「セレスタ夫人まで」

「ここは、正さなければならないところでございます」

「わたくしにとっては陛下です」

「お気持ちは、そうでしょう」

「では、そう呼ばせてください」

「お部屋の中で、御心のままにお呼びになることまで、わたくしは止めません。ですが、公の文、取次、御面会願いでは、前王陛下とお書きくださいませ」


 マリーシア様は、返書を膝の上で握りました。紙がくしゃりと鳴りました。


「公、公、公。わたくしが陛下に会いたいだけなのに、どうして公になるの」

「前王陛下にお会いになることだからでございます」

「《《夫に会いたいのです》》」

「マリーシア様」


 わたくしは、ゆっくり膝を折りました。目の高さを、少し下げます。


「前王陛下は、今、北の離宮へお移りになる準備の中におられます。その御移りが乱れれば、前王陛下の御立場も、マリーシア様の御立場も、御子の御立場も、さらに厳しくなります」

「厳しく?」

「はい」

「これ以上、どう厳しくなるのですか」


 マリーシア様の声は細くなりました。怒りの奥で、不安がようやく顔を出したのです。


「今は、王家が御身と御子を保護すると定めています。前王陛下も、前王としての礼遇を整えられます。けれど、前王陛下が南の離宮へ御無理においでになり、御移りを乱し、御子の継承を求めて声を上げれば」


 そこまで言って、わたくしは一度言葉を切りました。

 コリンナ様が、手袋の指先を握っています。マリーシア様は、わたくしを見ています。

 逃がしてはいけない。ここは、白い返書の冷たさを、そのまま伝えるところです。


「その時は、保護ではなく、調査が先に立ちます」


 マリーシア様の顔から、色が引きました。


「調査」

「前王陛下の退位に関わる混乱を、側妃様と御子が広げたと見なされることを、わたくし達は避けねばなりません」

「わたくし、何もしていません」

「はい」

「何もしていません。文を書いただけです。会いたいと書いただけです。この子は陛下の子だと書いただけです」

「その文が、前王陛下を動かします」

「動いてくださればいいのに!」


 声が跳ねました。

 次の瞬間、マリーシア様はお腹に手を当てました。

 痛みではないでしょう。けれど、自分の声に驚いたのです。

 わたくしは近づきすぎず、離れすぎず、膝をついたまま待ちました。

 コリンナ様が水を差し出します。マリーシア様は最初、受け取りませんでした。

 けれど唇が乾いていたのでしょう。しばらくして、杯を取りました。一口だけ。

 水面が小さく揺れています。


「……この子は、王子になれないの?」


 小さな声でした。昨日までの怒りとは違いました。

 ようやく、その一点に届いたようです。

 わたくしは、すぐには答えませんでした。これは、わたくし一人が断定してよい話ではありません。

 けれど、曖昧にすれば、また期待を残します。


「王位継承には、お載せしないと伺っております」


 マリーシア様は杯を見ました。


「男の子でも?」

「はい」

「陛下の血を引いても?」

「はい」

「どうして?」


 問いは、わたくしへ向けられていました。けれど、本当は誰にも向けられないものです。

 王太后陛下へ。新王陛下へ。前王陛下へ。まだ生まれていない子へ。王妃陛下へ。自分へ。

 全部へ向いている問い。


「御子を、争いの旗にしないためでございます」


 わたくしは言いました。マリーシア様の眉が寄ります。


「旗?」

「御子に罪はございません。だからこそ、その御子を掲げて誰かが争うことのないように、先に線を引くのです」

「線を引く」

「はい」

「わたくしと、この子の前に?」

「王位との間に、です」


 マリーシア様は、返書を見ました。そこには、そのことは書かれていません。

 新王陛下は、白い封筒にそれを入れませんでした。

 それでも、もう知らないままにはできない。


「では、この子は何になるの」


 マリーシア様が訊きました。コリンナ様が、少し息を吸いました。

 前日に聞いたその答えを、この方もまた聞くのがつらいのでしょう。


「前王陛下の御子として、王家が扶持と御身分を整えます」

「王子ではなく」

「はい」

「王女でもなく」

「はい」

「ただ、前王陛下の子」

「軽んじるという意味ではございません」

「軽いわ」


 マリーシア様は言いました。


「王子でも王女でもないなら、軽いわ。わたくしは側妃なのに。この子は陛下の子なのに。まだ生まれていないだけなのに」


 最後の言葉は、何度も聞いたものです。ですが、今は少し違いました。

 怒りではなく、何かを抱きしめるように言っていました。


 ――まだ生まれていないだけ。


 その「だけ」が、今この方にとって一番大きいものになっている。


「マリーシア」


 コリンナ様が、初めて呼び捨てにしました。身内の声でした。


「この子を守りたいなら、今は静かにしなさい」

「叔母様」

「悔しいでしょう。納得できないでしょう。けれど、今あなたが前王陛下に会いたい、北の離宮へ行きたい、この子は王子だと声を上げるほど、この子の周りに人が集まります。味方の顔をした人も、敵の顔をした人も。けど、《《あなたには見分けられません》》」


 コリンナ様の声は、少し震えていました。それでも続けます。


「私にも、全部は見分けられません。だから、今は王太后府と新王府の線の内側にいなさい。嫌でも、腹が立っても、ここにいなさい」

「閉じ込めるのね」

「そう感じてもかまいません」


 コリンナ様は言いました。


「あなたがそう感じて私を恨むなら、それでいい。けれど、この子を誰かの旗にするよりはいい」


 マリーシア様の唇が震えました。

 今度は涙が落ちました。一滴。返書ではなく、膝掛けの上へ。

 布が小さく濃くなりました。


「わたくし、何も知らなかった」


 小さな声でした。


「はい」


 コリンナ様が答えました。


「誰も教えてくれなかった」

「教えようとしました」

「止めるばかりでした」

「あなたが止まらなかったからです」


 その言葉は、少し強かった。でも、マリーシア様は怒りませんでした。もう怒る力が一度切れたのでしょう。

 彼女は杯を机に置きました。手が少し震えています。


「前王陛下には、会えないのね」

「今すぐには」


 わたくしが答えました。


「手紙は」

「それはお取り次ぎできます。ただし、王太后府と新王府の確認を経ます」

「全部読まれるのね」

「はい」

「それでも出したければ、出せるのね」

「はい」


 マリーシア様は、窓辺の黄色い絵皿を見ました。白い返書は、膝の上で折れたままです。


「今日は、もう書きません」


 そう言ったあと、彼女は目を閉じました。

 眠るのではありません。言葉を閉じたのです。

 わたくしは立ち上がり、女官へ薄い茶を替えるよう目で伝えました。

 コリンナ様が、マリーシア様の膝から白い返書をそっと取ろうとしました。

 マリーシア様の指が、書面の端を押さえました。


「置いて」


 目を閉じたまま言います。


「そこに置いておいて」


 コリンナ様は手を離しました。返書は膝の上に残りました。

 白い書面の角が、くしゃりと折れています。

 窓辺では、黄色い絵皿の花に光が当たっていました。

 その花は、絵の中で咲いたまま、少しも揺れませんでした。



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