61 新王アレクシス――最初の署名
王冠は、まだ頭に載っていない。即位の礼は後日と決まった。だが、署名は済んだ。
兄上は退位状に名を書き、王太后陛下がそれを受け取り、宰相が控えを作った。
その時から、私は王弟ではなくなった。
――新王。
そう呼ばれるには、あまりに早すぎる。
それでも、朝の三つ目の鐘が鳴る頃には、机の上へ書類が積まれていた。
北の離宮の整備。前王陛下の従者名簿。前王陛下の書簡管理。南の離宮の警備。
側妃マリーシア殿の出産までの保護。王妃フレイア陛下への接触禁止。
修道院、施療院支援の臨時評議。外務府控えの写し制度。儀典記録の整備。国境伯への返書。
私の名前を書く場所が、どの書面にも空けられている。
――アレクシス。
その名を書くだけで、何かが動く。昨日までなら、兄上の名があった場所だ。
「陛下」
侍従長が言った。
――陛下。
まだ、その呼びかけに振り向くのが遅れる。
「何だ」
「南の離宮より、前王陛下宛の御文が届いております」
――前王陛下。
その言葉も、まだ固い。
侍従長の手には、薄い黄色の封筒があった。封蝋はきれいだった。
昨日、マリーシア殿が私の兄へ出した文は、白い封筒で、封蝋が流れていたと聞いている。
今度は黄色。封蝋は丸い。中身の方が荒れているのだろう。
「誰が読んだ」
「セレスタ夫人、侍従長室、王太后府にて写しを」
「前王陛下へは」
「まだでございます」
私は封筒を見た。黄色い花の色。
南の離宮の窓掛けや、小さな庭の花を思わせる色だ。
兄上は、この色を見れば心を動かすだろう。マリーシア殿の字を見れば、さらに。
「読む」
侍従長が封筒を盆に載せたまま差し出した。
私は小刀で封を切り、手紙を開く。
――陛下。
最初の文字は、そう始まっていた。
前王陛下、ではない。ただ、陛下。
――本当のことを教えてくださいとお願いしました。
――なのに、今日、王太后陛下の女官から、御退位とうかがいました。
――北の離宮へお移りになると。
――わたくしは、どうして何も知らされなかったのですか。
――この子は、どうして王位継承に載らないのですか。
――まだ生まれていないだけです。
――男の子かもしれません。
――陛下の御子です。
――会いに来てください。
――無理なら、わたくしを北の離宮へ連れていってください。
――ここに一人で残さないでください。
私は最後まで読んだ。
涙の跡はない。字は少し歪んでいるが、最後まで読める。
泣きながらではなく、泣くのをこらえて書いた字だ。
それは、それで重い。
「これを前王陛下へ渡せば、どうなる」
訊ねると、侍従長は少し目を伏せた。
「北の離宮への御移りに支障が出るかと」
「支障」
「前王陛下は、南の離宮へ向かおうとなさるでしょう」
「だろうな」
兄上は行く。行こうとする。止められれば怒る。
マリーシア殿を連れていくと言うかもしれない。
腹の子を盾にしたのは周囲の方だ、と言うかもしれない。
自分の子に会えないのか、とも。
そうなれば、また一日が書類と怒りで潰れる。北の離宮への移動は遅れる。南の離宮は荒れる。
王太后府はさらに文を止める。そして、マリーシア殿はまた書く。
黄色い封筒が、次の書面を呼ぶ。
「渡せない」
侍従長が言ったのではない。私が言った。
口にした後、封筒の黄色が少しだけ暗く見えた。
「ただし、隠した形にもできない」
「では」
「写しを前王陛下の書簡記録に入れる。原本は王太后府で保管。前王陛下へは、南の離宮より御文があったことのみ知らせる。内容は、御移り後、医師および王太后府の判断で閲覧可とする」
言いながら、私は自分が兄上をどのように扱っているか分かっていた。
書簡を検める。文を渡さない。面会を制限する。
昨日、兄上が怒ったことを、今日の私は命じている。
――必要だから。
その言葉は便利だ。便利すぎて、怖い。
「マリーシア殿へは、返事を出す」
私は続けた。
「私の名で」
侍従長の目が上がった。
「新王陛下の御名で、でございますか」
「そうだ。前王陛下からの返事ではない。私からだ」
「内容は」
「前王陛下は北の離宮へ御移りの準備中。御文は王太后府にて確かに受領。御身と御子の保護は王家が責任を持つ。面会は医師の判断を待つ。南の離宮で静養するように」
「御子の継承については」
私は書面の下に置いた手を少し押さえた。
「書かない」
「書かない、でございますか」
「今この文の返事に、それを書けば、また次の文が来る。王位継承については、正式な告知を別に出す。王太后府、宰相府、儀典長、医師同席で」
侍従長は深く頭を下げた。
「かしこまりました」
――かしこまりました。
その言葉で、また紙が一枚増える。
*
私は最初の署名を、南の離宮への返書ではなく、先の王妃フレイア陛下への接触制限の文にした。
順としては、退位状の告示が先かもしれない。
北の離宮の整備命令が先かもしれない。
だが、私が最初に名を書くべきものは、それだと思った。
――フレイア陛下へ、王宮関連の文書、見舞い、報告を送る場合は、当面、公爵家および王太后府の確認を経る。
――前王妃陛下の療養を、王宮運営、側妃教育、儀礼、寄付、外交、継承その他の都合により妨げてはならない。
――前王妃陛下の御帰還については、医師の診断と御本人の回復を最優先とし、王宮側から求めてはならない。
文面は、昨夜の会合でほぼきちんとしていたが、私は最後に一行を足した。
――この命は、新王府の最初の命として記録すること。
宰相が、少しだけこちらを見た。
まだ部屋にはいないか。いや、いた。いつの間に入ってきたのか。
王太后陛下の部屋から、そのままこちらへ来たのだろう。手には退位状の控えを持っている。
「最初の命とされるのですか」
「そうする」
「前王妃陛下を戻さないことを、最初に」
「違う」
私はペンを置いた。
「戻さないことではなく、王宮の穴を一人へ戻さないことだ」
宰相は頭を下げた。
「失礼いたしました」
「いや、文の表題が悪いのかもしれない」
私は書面を見た。
――接触制限。
冷たい言葉だ。
だが、今は冷たくしなければならない。温かい言葉で包むと、誰かが隙間を作る。
――お見舞いです。
――励ましです。
――ご相談だけです。
それで、フレイア前王妃陛下の寝台へ手紙が届く。
「この文は、ディート公爵へも写しを」
「はい」
「公爵夫人へも」
「はい」
「リーナ殿へは」
宰相が少し迷った。侍女へ王命の写しを送るのは、普通ではない。
だが、普通では足りない。
「王妃付き侍女リーナ殿へも、王妃陛下の身辺管理上必要な範囲で写しを出す。公爵家経由でよい」
「承知いたしました」
私は署名した。アレクシス。新しい王としての、最初の名。
ペン先が書面を少し引っかいた。吸い取り紙を乗せる。外す。
私の名は、兄上の退位状の名より薄く見えた。
*
次に、南の離宮への返書を書いた。
文面は短くした。長く書けば、説明が増える。
説明が増えれば、そこに縋るところができる。
――側妃マリーシア殿。
――御文は、王太后府ならびに新王府にて確かに受け取りました。
――前王陛下は、北の離宮への御移りの準備に入られました。
――御身と御子につきましては、王家が責任をもって保護いたします。
――御面会につきましては、医師の判断と王太后府の手順に従うこととなります。
――今は御身を第一に、南の離宮にてお休みください。
そこまで書いて、私は止まった。
あまりに冷たい。だが、温かくすれば嘘になる。
私は何を足すか少し考えた。
そして最後に一行だけ書いた。
――御不安は、セレスタ夫人およびコリンナ殿を通じて、王太后府へお伝えください。
陛下へ、とは書かない。前王陛下へ、とも書かない。私へ、とも書かない。
王太后府へ。
その一線を、ここで引く。
ペンを置くと、指先が少し冷えていた。
「これを読んで、マリーシア殿は泣くだろうな」
思わず言うと、宰相も侍従長も答えなかった。答えようがない。
「泣かせたいわけではない」
私は言った。誰に言ったのか分からない。
自分にか。兄上にか。まだ生まれていない子にか。
「ですが、泣かれます」
侍従長が静かに言った。
「分かっている」
「その文は、前王陛下へは」
「見せない」
「はい」
「ただし、記録には残す」
「はい」
こればかりだ。
見せない。残す。通さない。写す。守るために隔てる。
私は昨日まで、こういう王宮を少し冷たいと思っていた。
だが今は、その冷たさを自分が使っている。
*
王太后陛下が来られたのは、返書に封をする前だった。
――母上。
私はまだ、そう呼びそうになる。だが、今は王太后陛下だ。
「最初の命は」
陛下は机の上の書面を見た。私は前王妃陛下への接触制限の文を差し出す。
王太后陛下は黙って読み、最後の一行で、少しだけ目を伏せた。
「新王府の最初の命として記録する、と」
「はい」
「よい」
短い言葉だ。それだけで、少し肩の力が抜ける。抜けたことに、自分で気づいてしまう。
私はまだ、この方の承認を欲しがっている。王になったというのに。
「前王陛下は」
王太后陛下は机の向こうへ視線を落とした。
「お部屋に。侍従長補佐がついています。北の離宮への御移りは三日後」
「三日」
「それ以上延ばせば、南の離宮へ動こうとなさいます」
「でしょうね」
言ってから、兄へそんな言い方をした自分が嫌になった。
けれど、事実だ。兄上は動く。動けると思う限り。
「マリーシア殿から、また文が来ました」
「読みましたか」
「はい」
私は黄色い封筒を示した。王太后陛下はそれを見て、ほんの少し眉を動かした。
「黄色を選んだのね」
「はい」
「返事は」
「私の名で出します。前王陛下からではなく」
「正しい」
「継承については、まだ書いていません」
「それも正しい」
――正しい。
それが、今は重い。正しいことが、人を泣かせる。
間違ったことが、人を笑わせることもある。兄上は、マリーシア殿を笑わせることができた。
私はたぶん、泣かせる。
「アレクシス」
王太后陛下が、私の名を呼んだ。陛下ではなく。私は顔を上げた。
「はい」
「王になるとは、泣く者を減らすことではありません」
陛下は言いました。
「泣かせる場所を、間違えぬことです」
すぐには答えられなかった。その言葉を受け取るには、少し時間が要りそうだ。
「マリーシア殿は泣くでしょう」
「はい」
「前王も怒るでしょう」
「はい」
「フレイアは、何も知らずに焼き林檎を半分食べるかもしれません」
陛下の声が、そこでほんの少しだけ柔らかくなりました。
「それでよいのです」
「……はい」
「泣く場所を、間違えないことです」
私は返事をした。今度は少しだけ、まともな声が出る。
「はい」
*
午後、最初の命令が王宮内へ回った。
――前王妃陛下への接触制限。
――前王妃府の業務分散準備。
――修道院・施療院支援の臨時評議設置。
――外務府控え制度。
――儀典長記録制度。
――国境および地方支援必要量の秋季報告。
書面が王宮内を回る。書記官が走る。
いや、走らない。早足で歩く。
私は窓からそれを少しだけ見た。南の離宮へ向かう侍女も見えた。
手には、私の返書。
白い封筒にした。迷ったが、白にした。
黄色い封筒への返事だから、黄色を返すことも考えた。
けれど、それは違う。マリーシア殿が欲しい色を返すのは、兄上の役だった。今の私の役ではない。
白い封筒が南の離宮へ運ばれていく。あの部屋で、彼女はそれを開く。
きっと泣く。あるいは怒る。前王陛下へ会わせてと、また言うかもしれない。
セレスタ夫人が受け止める。コリンナ殿がそばにいる。王太后府へ報告が来る。そしてまた書面が増える。
それでも、前王陛下へ直接は届かせない。
胎の子を旗にさせない。前王妃陛下を戻さない。迂回路を潰さない。
私は机へ戻った。
国境伯への返書が残っている。ディート公爵への返書も。外務府の制度文も。
書類は減らない。王冠はまだ頭にないのに、王冠より重いものが机の上に積まれている。
私はペンを取った。
次の書面の宛名は、ディート公爵だった。
――前王妃陛下を王宮へ求めることはいたしません。
まず、そこから書き始めた。




