60 前王側室マリーシア――来ない返事
陛下からのお返事は、朝になっても来ませんでした。
夜のうちに来ると思っていました。遅くても、朝の診察の前には。
だって、わたくしは泣きながら書いたのです。
最近、皆が変です。わたくしには何も教えていただけません。
――陛下だけは、本当のことを教えてくださいませ。
そう書きました。
セレスタ夫人は、確かに持っていきました。侍従長室へ届ける、と言いました。陛下へ取り次ぐ、とも言いました。
なのに、返事が来ない。陛下も来ない。
朝のお茶は、いつもより薄く淹れられていました。
王宮医がそう言ったのでしょう。最近は、わたくしの好みよりも王宮医の言葉の方が先に来ます。
白い茶碗。薄い茶。甘さのない小さな焼き菓子。
部屋の窓辺には、昨日コリンナ叔母様が持ってきてくださった小さな絵皿が置かれていました。
黄色い花の絵です。明るいでしょう、と叔母様は言いました。
確かに、明るい色でした。
でも、欲しかったのは絵皿ではありません。黄色い封筒でもありません。
陛下の言葉です。
「セレスタ夫人」
私は茶碗の縁に指を添えたまま、声をかけました。
セレスタ夫人は文机のそばに立っていました。朝から何度も書面を見て、何度も扉の外へ目を向けています。
「陛下から、まだ?」
「まだでございます」
「届いてはいるのよね?」
「はい」
「読んでくださったのよね?」
「そのように伺っております」
そのように。また、そのように。
王宮の人は、どうして言葉を少しずつ遠くへ置くのでしょう。
「では、どうしてお返事がないの?」
セレスタ夫人は、すぐには答えませんでした。
その時、廊下の向こうで足音がしました。女官の足ではありません。もっと重い。
侍従か、護衛か。私は顔を上げました。
「陛下?」
セレスタ夫人が扉の方へ動きました。扉の外で、小さく声が交わされます。
陛下の声ではありません。入ってきたのは、王太后陛下付きの女官でした。
その後ろに、コリンナ叔母様。さらにその後ろに、年配の侍従が二人。
私は立ち上がろうとしました。
お腹が重く、手が椅子の肘にかかります。セレスタ夫人がすぐに近づきました。
「そのままでいらしてくださいませ」
「誰が来たの?」
訊くと、王太后陛下付きの女官が深く礼をしました。
「王太后陛下より、御言葉をお預かりしております」
陛下ではない。王太后陛下。
私は椅子の肘を握ったまま、少しだけ背を伸ばしました。
「陛下は?」
誰もすぐに答えませんでした。コリンナ叔母様の表情が、ひどく硬い。絵皿を持ってきた時より、ずっと。
「陛下は、どうなさいましたの」
王太后付き女官が、もう一度礼をしました。
「本日をもって、エルヴィス陛下は御退位なさいました」
何を言われたのか、分かりませんでした。
――御退位。
言葉だけが、耳の中で止まります。
退位。陛下が。
「……何ですって?」
「エルヴィス陛下は御退位なさいました。今後は、前王陛下として北の離宮へお移りになります」
「北の離宮?」
声が細く出ました。
北の離宮。聞いたことはあります。
古い離宮。湖のそば。寒いところ。使われていないところ。
「どうして」
私はセレスタ夫人を見ました。彼女は目を伏せていました。
「どうして、陛下が北の離宮へ?」
女官は、決められた言葉を言うように続けました。
「御静養のためでございます」
「静養?」
私は笑いそうになりました。でも、声は出ませんでした。
「陛下はお元気でしたわ。昨日も、一昨日も。わたくしのところへもいらして。疲れてはおいででしたけれど、静養なさるほどでは」
「決定でございます」
――決定。
その言葉が、部屋の中に落ちました。
私はお腹に手を当てました。中の子が動いたわけではありません。
でも、そこに手を置かずにはいられませんでした。
「それで、わたくしは?」
私の声は、自分で思ったより落ち着いていました。
「わたくしは、陛下と一緒に北の離宮へ行くのですか?」
女官は頭を下げたまま言いました。
「マリーシア様は、御出産まで南の離宮にて御身をお守りいたします」
「ここに?」
「はい」
「陛下は北へ。わたくしはここに?」
「はい」
「会えますの?」
また、沈黙。
私は茶碗を見ました。薄い茶が、まだ半分残っています。湯気はもうありません。
「会えるのかと聞いています」
「医師ならびに王太后府の判断により、御身に障りのない範囲で」
「それは、会えないということではありませんの?」
「必要な手順を経て」
「手順!」
声が跳ねました。お腹に当てた手に力が入ります。セレスタ夫人が、少し近づきました。
「マリーシア様」
「触らないで!」
言ってしまってから、セレスタ夫人の手が止まりました。
私はその手を見ました。いつも支える手です。立つ時も、座る時も、歩く時も、菓子を取る時も、手紙を書く時も。
守ると言って、止める手。
「陛下は、わたくしの手紙を読んでくださったのよね」
「はい」
「それなのに、返事もなく退位なさったの?」
コリンナ叔母様が、一歩前へ出ました。
「マリーシア」
「叔母様は知っていたの?」
叔母様の唇が、少しだけ動きました。
「今朝、聞きました」
「本当に?」
「本当です」
「では、どうしてそんな顔をしているの」
叔母様は答えません。
私は椅子の背に身を預けました。背中が冷たい。部屋は暖かいはずなのに。
「この子は?」
私はお腹を押さえたまま言いました。
「この子は、どうなるの?」
王太后付き女官は、用意してきた言葉を持っています。それが分かりました。
彼女の目が、一瞬だけ書面へ落ちたからです。
「御子は、前王陛下の御子として保護されます」
「前王陛下の御子」
「はい」
「王子ではないの?」
「御出生後、しかるべき扶持と御身分を整えます。ただし、王位継承線にはお載せいたしません」
――王位継承線。
その言葉は、いつも遠いところにあるものだと思っていました。 王宮の人達が、席順や家格と同じように、難しい顔で扱うもの。
でも今、その言葉が私のお腹の上に置かれました。
「まだ生まれていないだけですわ」
私は言いました。
「男の子かもしれません」
女官は答えません。
「男の子だったら、陛下の御子です。陛下の血を引くのです。王子でしょう?」
自分の声が、だんだん高くなっていくのが分かりました。でも止まりません。
「まだ生まれていないだけなのに。どうして、生まれる前から決めるの」
コリンナ叔母様が近づきました。
「マリーシア、落ち着いて」
「落ち着けるわけがありません!」
膝の上の掛け布を握りました。布が指の間でくしゃりと寄ります。
「わたくし、何か悪いことをしましたの? 茶会で上手にできなかったから? 王妃様へお見舞いを書いたから? 陛下に本当のことを教えてくださいと書いたから?」
「あなたを罰する話ではありません」
叔母様が言いました。
「では、何ですの」
「王家の決定です」
「王家って誰?」
言葉が出た瞬間、部屋が静まりました。でも、私は止まれませんでした。
「陛下は王家ではないの? わたくしは側妃ではないの? この子は陛下の子ではないの? なのに、誰が決めたの?」
王太后陛下。イルマ殿下。公爵家。侍従長。宰相。アレクシス殿下。
名前が頭の中で並びます。
皆、私の知らないところで何かを決めていた。
最近、皆が変だった。廊下で話をやめた。文を検めた。
黄色い封筒は出されなかった。陛下は来なかった。
……その間に、全部決まっていた。
「アレクシス殿下が王になるの?」
私が訊くと、女官は深く頭を下げました。
「新王陛下として御即位の手続きが進みます」
新王陛下。アレクシス殿下が。
陛下ではなく。エルヴィスではなく。
「それでは、この子は」
言葉が喉で止まりました。この子は、何になるのか。
王子ではない。王位継承には載らない。前王の子として保護される。
――保護。
また、保護。
私は目の前の絵皿を見ました。黄色い花の絵。小さな皿。部屋に置ける明るいもの。
そんなものでは足りません。
「陛下に会わせて」
私は言いました。
「今すぐ」
「本日は」
「本日は、ではありません。会わせて。陛下に直接聞きます。退位なんて、そんな、きっと何かの間違いです。陛下は、わたくしに何も言っていません。わたくしの文も読んでくださったなら、まずわたくしのところへ」
「マリーシア様」
セレスタ夫人が、今度は私のそばに膝を折りました。
触れはしません。少し距離を置いて。
「前王陛下は、本日、北の離宮への御移りの準備に入られます。御面会は、王太后府の許可が下りてからでございます」
「許可」
私は笑いました。今度は、声が出ました。少しだけ。
「夫に会うのに、許可が要るの」
誰も答えませんでした。この沈黙が答えです。
私は側妃です。正妃ではありません。妻ではなく、側妃。
それを、今日ほど強く感じたことはありませんでした。
「では、手紙を」
私は言いました。
「前王陛下へ手紙を書きます」
前王陛下。自分で言って、喉が痛くなりました。
「今は、お休みになられた方が」
「書きます」
セレスタ夫人は、もう止めませんでした。女官へ目配せします。文机が整えられます。
紙。ペン。インク壺。吸い取り紙。封筒。
今度は、黄色い封筒がありました。薄い黄色。昨夜はなかったのに今はある。
私はそれを見て、胸が苦しくなりました。
「今さら」
小さく言うと、セレスタ夫人の手が止まりました。
聞こえたのでしょう。聞こえても、何も言いませんでした。
私はペンを取りました。
――陛下。
そこで止まりました。
もう、陛下ではない。前王陛下。
でも、私には陛下です。昨日まで陛下でした。お腹の子の父です。
私は、陛下、と書いたまま続けました。
――本当のことを教えてくださいとお願いしました。
――なのに、今日、王太后陛下の女官から、御退位とうかがいました。
――北の離宮へお移りになると。
――わたくしは、どうして何も知らされなかったのですか。
――この子は、どうして王位継承に載らないのですか。
――まだ生まれていないだけです。
――男の子かもしれません。
――陛下の御子です。
ペン先が震えました。字が少し歪みます。
涙はまだ落ちていません。落としたくありません。
この文まで、また侍従長室で読まれるのでしょう。王太后陛下の机に置かれるのでしょう。涙の跡一箇所、と書かれるのでしょう。
私は、目を大きく開けました。涙を落とさないように。
――会いに来てください。
――無理なら、わたくしを北の離宮へ連れていってください。
――ここに一人で残さないでください。
そこまで書いて、手が止まりました。
――一人。
私は一人なのでしょうか。
セレスタ夫人はいる。コリンナ叔母様もいる。女官も医師もいる。
でも、私が欲しい人はここにいない。
陛下は北へ。王妃様は公爵家へ。
新しい王は、アレクシス殿下。
私は、南の離宮。
お腹に手を当てました。この子がいる。いるけれど、まだ声はしません。
「マリーシア様」
セレスタ夫人の声がしました。
「少し、お休みを挟まれては」
「出します」
「このまま?」
「ええ」
私は文を折りました。インクが少し乾いていませんでした。でも構いません。
封筒に入れようとして、字が少し内側に写りました。
黄色い封筒。私は封蝋を垂らしました。今度は、丸く落ちました、きれいに。
それが、また嫌でした。
「これを、陛下へ」
言ってから、訂正しませんでした。セレスタ夫人も訂正しませんでした。
ただ、封書を受け取り、両手で持ちました。
「お取り次ぎいたします」
「必ず」
「はい」
必ず、と言ってほしかった。でもセレスタ夫人は言いませんでした。
私は椅子に戻りました。お腹が重い。足元も、少し冷えています。
コリンナ叔母様が、膝掛けを拾ってかけてくれました。
その手は温かかった。私は振り払えませんでした。
窓辺の黄色い絵皿に、朝の光が当たっていました。
花の絵は、少しも動きませんでした。




