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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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59 国王エルヴィス――たった二月

 一晩、と言われた。


 一晩で何を考えろというのか。

 王でなくなること。北の離宮へ移ること。マリーシアに会えなくなること。

 まだ生まれてもいない子が、王子にも王女にもならぬこと。

 私は自室の長椅子に座り、机の上に置かれた書面を見ていた。

 侍従長は、扉の側にいる。下がれと言っても、下がらなかった。


「王太后陛下より、今夜はお側に控えるようにと」


 そう言ったきりである。

 母上の命か。それとも、私が南の離宮へ行かぬように見張っているのか。

 どちらでも同じだ。


 窓の外には、南の離宮の灯りが見えた。小さな灯りだった。

 マリーシアの部屋かどうかは分からない。だが、あのあたりだ。

 あそこに、彼女がいる。白い封筒の文を出して、私の返事を待っている。


 ――陛下だけは、本当のことを教えてくださいませ。


 本当のこと。本当のことなら、私にも知らされていなかった。

 母上も、イルマ叔母上も、宰相も、アレクシスも、皆で様々な紙を集めていた。

 公爵家の手紙。国境伯の地図。外務府の控え。施療院や修道院の照会。

 私の前には、最後に出してきた。

 退位の勧告として。


「侍従長」

「はい」

「南の離宮へ、使いを出す」

「内容を伺います」

「私からの返事だ」

「文面は」

「まだ書いていない」

「では、書かれたのち、王太后陛下へ」

「またか」


 私は彼を見た。侍従長は動かない。

 今夜だけで、この男の顔を何度見たか分からない。


「マリーシアは待っている」

「セレスタ夫人がついております」

「セレスタ夫人では足りないから、あの文が来たのだ」

「はい」


 はい、ではない。認めるなら、通せばよい。

 私は机へ向かった。書面を引き寄せる。


 ――マリーシアへ。


 そう書こうとして、ペン先が止まった。


 ――マリーシア。


 その名を書くと、侍従長が見る。王太后が見る。写しが取られる。

 涙の跡まで文書状態とされる。

 私はペンを置いた。


「下がれ」

「できません」

「私は王だ」

「今夜まで、と王太后陛下が」


 ――今夜まで。


 またそれだ。私は笑った。だが笑いはすぐに消えた。


「明朝になれば、王でなくなるとでも?」


 侍従長は答えなかった。答えないことが答えだった。


 *


 眠れない。

 寝台には入らなかった。上着だけ脱ぎ、椅子に座ったまま、何度も窓の外を見た。

 南の離宮の灯りは、夜半に消えた。その少し後、北側の空が曇り、月が隠れた。


 ――北の離宮。


 その名が頭に残る。

 あそこは寒い。父がまだ元気だった頃、二度ほど狩猟で行った。湖があり、古い石壁があり、風が強い。夏でも夜は冷える。

 静養。母上はそう言った。

 だが誰も否定しなかった。幽閉ではないか、と私が言った時。誰も。

 王であった者を、北の離宮へ。

 書簡は検める。面会も許可制。王都への出入りも、新王と王太后の許可。

 新王。アレクシス。弟は、王冠など欲しくないと言った。

 だが、欲しくないと言いながら、結局そこに立つのではないか。

 王太后とイルマ叔母上に支えられ、宰相に手順を整えられ、ディート公爵に認められ、国境伯に文を出される。

 それで王冠が頭に載る。

 欲しくないと言えば、きれいに見える。

 私は椅子の肘を強く握った。


 ――違う。そうではない。


 アレクシスが奪おうとしているのではない。皆が私から離れ、あいつの方へ流れている。それが腹立たしい。

 私が何をした。

 側妃を迎えた。子ができた。王妃が疲れたから休ませた。王宮が困っているから、戻ればよいと言った。

 それだけだ。それだけのことで、退位か。北の離宮か。

 生まれる前の子から、王位を外すのか。

 私は机の上に置かれていた資料の一部を取った。母上の部屋から持ち帰らされたものだ。

 いや、持ち帰らされたのではない。侍従長が置いたのだ。読め、と。


 ――北区施療院。薬代遅延。西の修道院。麦不足。ルブラン公国。赤い布、双鳥文様、婚礼菓子。北東国境伯。返書五日遅延。街道警備費。国境修道院への薬草支援。


 どれも、小さい。小さいが、数が多い。

 王妃がいないだけで、なぜこれほど書類が増える?

 ……いや。そこが問題だと言われたのだ。


 ――王妃がいないだけで、二月ももたなかった。


 そのような言い方を、誰かがした。イルマ叔母上だったか。アレクシスだったか。

 私は書面を机に戻した。

 二月。たった二月だ。ならば、なおさら、もう少し待てばよいではないか。

 半年、一年と続いたわけではない。たった二月の混乱で、なぜ王を退ける。

 たった二月なら、直せる。フレイアが戻れば。

 そこまで考えて、イルマ叔母上の声が頭に戻った。


 ――今の一言を、もう一度おっしゃいますか。

 ――王妃として働かせるのですね。


 ――当然だろう。


 私は言った。確かに言った。

 何が悪い。

 王妃として働くことが、王妃の務めではないのか。

 それを誰も、言い返してくれない。私を責める顔だけが並ぶ。


 *


 朝になった。侍従が湯を運んできた。いつもより静かだった。

 着替えの時も、誰も余計なことを言わない。

 冠は出されなかった。いつもの朝の謁見ではないから、と侍従長が言った。

 いつもの朝ではないことくらい、私にも分かる。

 母上の部屋へ行く途中、南の離宮へ続く回廊の前を通った。

 侍従が二人、立っている。昨夜と同じ。たまたまではない。

 私は足を止めた。


「どけ」


 二人は頭を下げた。どかない。侍従長が後ろから言った。


「陛下。王太后陛下がお待ちです」

「マリーシアへ一言だけ」

「お控えください」

「命令だ」

「王太后陛下より、南の離宮への御成りは本日お控えいただくようにと」

「私の命令より、母上の命令を取るのか」


 侍従長は、静かに頭を下げた。


「本日は」


 ――本日は。


 その言葉で、分かった。今、王宮は私の命令を測っている。

 どちらに従うか。王か。王太后か。

 昨日までなら、迷うことなどなかったはずだ。今朝は、侍従がどかない。

 私は回廊の奥を見た。遠くに、黄色い花が少し見える。

 マリーシアは、もう起きているだろうか。私が来ないことを、どう思っているのか。


 ――本当のことを教えてくださいませ。


 教えに行くことすらできない。私は回廊から目を離した。


「行くぞ」


 侍従長が一礼した。


 *


 母上の部屋には、昨日と同じ者がいた。


 いや、一人増えていた。イルマ叔母上の後ろに、書記官が控えている。

 記録を取るためか。

 退位の勧告にも、記録が要るのか。

 机の上には、昨日の書面に加え、別の文が置かれていた。

 南の離宮への制限案。北の離宮の整備案。前王の待遇。側妃マリーシア殿および出生予定の子の扱い。


 ――出生予定。


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


「一晩、考えましたか」


 母上が言った。


「考えました」

「では、お返事を」

「断る」


 部屋の空気は、動かなかった。誰も驚かない。それがまた腹立たしい。


「私は退位しない。私の子が生まれるまで、少なくとも待つべきだ」


 マリーシアの名を出そうとして、やめた。

 ここで彼女の名を出せば、また側妃を盾にしたと言われる。だから子と言った。

 それでも、イルマ叔母上がすぐにこちらを見た。


「その子を待てない理由は、昨日申し上げました」

「生まれてみなければ分からない」

「だからです」

「男児なら世継ぎだ」

「退位後に生まれれば、前王の子です」

「私が退位しなければよい」

「廃位審理へ進みます」


 宰相が言った。昨日と同じ声。昨日より、少し硬い。


「公爵家も国境伯も巻き込むつもりか」

「すでに関わっています」

「王家の恥を外へ出すのか」

「陛下が拒まれれば、出ます」


 宰相は逃げなかった。

 この男も、もう私を恐れていないのか。

 いや、恐れてはいる。恐れていても、退かないのだ。


「たった二月だ」


 私は言った。その言葉は、夜の間ずっと胸にあった。


「フレイアが療養に出て、まだ二月だ。半年でも一年でもない。王妃府が止まって混乱したなら、仕組みを直せばよい。私を退けるほどではない」

「たった二月です」


 イルマ叔母上が言った。待っていたような声だった。


「陛下、たった二月なのです」

「だから」

「王妃が療養に出て、まだ二月。半年でも一年でもありません。その間に、施療院は薬を薄め、修道院は麦を求め、隣国には内情を読まれ、国境伯は王都を待たずに動きました」


 叔母上は机の上の書面を一枚ずつ指した。

 薬代。麦。外務府控え。国境伯の文。


「たった二月で、です」


 私は返事をしなかった。叔母上は続ける。


「これを、王妃が戻れば済む、とおっしゃるなら、陛下は王妃陛下を王宮の梁にしていたことを認めるのと同じです」

「梁?」

「家を支えるものです。見えないところで、重みを受けるもの。折れるまで、誰も見上げないもの」

「私は、フレイアをそんなふうに」

「扱いました」


 母上が言った。短く。逃げ場のない声だった。


「王妃陛下が優れていたことは確かです」


 アレクシスが口を開いた。


「ですが、それに寄りかかり続けた王宮を作ったのは、兄上です。二月ももたなかったことが、何よりの証です」

「王宮はもっている」

「迂回路で、です」


 アレクシスは地図を出した。また地図だ。


「公爵家が王妃陛下を守り、王太后府が文を止め、夫人方が現場に直接寄付し、国境伯が王都を待たず、外務府が贈答を直し、儀典長が穴を塞いだ。王宮がもっているのではありません。皆が王を迂回して、国をもたせています」


 ――王を迂回。


 その言葉に、腹の底が冷えた。怒りより先に、ぞっとした。


「不敬だな」


 私は言った。


「はい」


 アレクシスは認めた。


「ですが、事実です」


 ――事実。


 また。事実、事実、事実。王に向かって、皆が事実を積む。


「ならば、その迂回路を正式にすればよい」


 私は言った。


「私が王のままで」


 沈黙。

 これなら、どうだ?

 仕組みを直す。王妃府へ戻さない。宰相府や王太后府や夫人代表を入れる。

 アレクシスが言っていたことを、私が王として命じればよい。

 そうすれば退位などいらない。


「それを、陛下は本当に許されますか」


 儀典長が静かに言った。


「何を」

「夫人方が王宮を通さず現場と話すこと。外務府が王妃府を待たず相手国の事情を控えること。国境伯が王都の返書を待たず橋を直すこと。侍従長室が南の離宮からの文を検めること。王太后府が陛下の文を止めること」

「最後は違う」

「そうです」


 儀典長は頭を下げた。


「陛下は、最後の一つを許されません。おそらく、前のものもいずれお許しにならない」

「決めつけるな」

「昨日から今朝にかけて、陛下は何度も南の離宮へ向かおうとなさいました」


 侍従長が言った。


「止められたからだ」

「止められた理由をご理解いただけませんでした」

「泣いている側妃を慰めることが、そんなに悪いのか」

「悪くありません」


 イルマ叔母上が言った。


「ですが、王が側妃の涙で動くことを、今の王宮はもう支えられません」


 私は拳を握った。


「私を人でなしにするつもりか」

「いいえ。()()()()()()()だと申し上げています」


 はっきり言った。叔母上が。

 母上の前で。弟の前で。家臣の前で。


「不適格」


 私はその言葉を繰り返した。


「私が」

「はい」

「世継ぎを得ようとしただけで」

「いいえ」

「側妃を守ろうとしただけで」

「いいえ」

「王妃を必要だと言っただけで」

「いいえ」


 叔母上は、一つずつ否定した。そして、書類を一枚取った。

 公爵家からの文だった。


「陛下は、王妃陛下を必要な時だけ必要と言い、側妃殿を守るために王妃陛下を戻そうとし、腹の子を理由に王位継承を待たせようとし、周囲が止めると、なぜ難しくする、とおっしゃる。国は、その単純さでは持ちません」


 ――単純。


 それは、馬鹿と言われるより腹が立った。


「私は王だ」

「はい」

「王の言葉を、そなた達がここまで」

「王の言葉だからです」


 母上が言った。


「そなたが王だから、もう止めるのです」


 母上の声は、少しだけ揺れていた。初めてだった。今朝、初めて。


「母としてなら、もっと早く泣いて止めればよかった。もっと早く、強く、そなたを叱ればよかった。どれだけそなたが逃げても捕まえてでも! 悔やんでも悔やみきれぬ。そして王太后としては、今止めねばならぬ。これ以上遅れれば、そなたの子も、側妃殿も、王妃も、公爵家も、王弟も、皆が傷を深くする」

「もう傷ついている」

「だから、ここでその流れを断つのだ」


 ――断つ。


 私は母上を見た。母上も私を見ている。

 その目に、母の色が全くないわけではない。

 いや、ある。あるから、余計に厄介だった。


「署名を」


 宰相が書面を出した。


 ――退位状。


 本当に用意してあった。

 それを見る。私の名を書く場所が空いている。


 ――エルヴィス。


 その下に、


 ――王位を弟アレクシスへ譲る旨。

 ――退位後は北の離宮にて静養。

 ――王太后府および新王府の管理下。

 ――書簡、面会、王都出入りについての制限。

 ――側妃マリーシア殿は、出産まで南の離宮にて保護。

 ――出生した子は前王の子として保護し、王位継承線には載せない。


 文字が整いすぎている。昨日の今日で、これほどきちんとした文が出るわけがない。

 前から作っていたのだ。

 どこからだ。マリーシアの手紙か。公爵家の抗議か。公国使節か。国境伯の文か。もっと前か。

 ……フレイアが馬車で王宮を出た日からか。


「いつからだ」


 私は訊いた。誰も答えなかった。


「いつから、いつから私を退けるつもりでいた?」


 アレクシスが、静かに言った。


「退けるつもりでいた者はいません」

「――嘘だ……」

「……退けなければならないところまで、兄上が来たのです」


 その言葉は、ひどく静かだった。

 私は退位状を見た。

 署名欄。ペン。インク壺。吸い取り紙。全部が揃っている。まるで、書けば済むように。


「もう一晩」

「もう与えられません」


 母上が言った。


「マリーシアに会わせろ」

「できません」

「アレクシスと二人で話したい」

「ここでなさい」

「母上」

「ここで」


 扉の外で、鐘が鳴った。朝の二つ目の鐘。

 いつもなら、王宮が動き始める時刻だ。

 今日は、この部屋の中だけで王宮が止まっている。


「署名を拒めば」


 私は言った。宰相が答えた。


「廃位審理へ」

「その場合、マリーシアと子は」

「より厳しい扱いになります」


 その言葉は、初めて効いた。


「どういう意味だ」

「退位を受け入れられれば、側妃殿と御子は()()()()()()()礼遇を整えます。廃位となれば、王権に混乱を持ち込んだ側妃として、調査と隔離が先に立ちます」

「脅しだ」

「はい」


 宰相は認めた。認めた上で、続けた。


「ですが、事実です」


 私は退位状を見た。マリーシア。泣いていた。


 ――本当のことを教えてくださいませ。


 これが本当のことだと、どう教える。


 ――私は王でなくなる。

 ――そなたの子は王子ではない。

 ――そなたは南の離宮から出産まで出られない。

 ――私も北の離宮へ行く。

 ――会うにも許可が要る。


 そんなことを、どう言えば。


「署名すれば、マリーシアは守られるのか」


 声が、少し違って聞こえた。母上が答える。


「守ります」

「子も」

「守ります」

「王位には」

「載せません」


 そこは譲らない。最後まで。

 私は椅子に座った。座らされたのではない。自分で座った。

 ペンを取る。手が少し重い。

 インクをつける。壺の縁で、余分なインクを落とす。

 署名欄を見る。エルヴィス。その名を書く。

 一文字目が、少し太くなった。途中で止まりそうになった。止めなかった。最後まで書いた。

 ペンを置く。吸い取り紙が出された。誰の手か分からない。

 書面の上に置かれる。外される。私の名は、少しだけ滲んでいた。

 王太后が、退位状を受け取った。イルマ叔母上が、目を伏せた。

 アレクシスは、署名を見なかった。地図を見ていた。

 私はその横顔を見た。弟の顔ではなく、王になる男の顔だった。

 南の離宮へ続く回廊の方から、遠くで扉の開く音がした。

 マリーシアではない。誰か女官だろう。

 それでも私は、そちらを見た。

 ……誰も何も言わなかった。



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