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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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58 国王エルヴィス――これが本当のこと

 ――退位の勧告。


 イルマ叔母上の言葉は、しばらく意味を持たなかった。


 ――退位。誰が。私が。この国の王である私が。


 マリーシアの文を持ったまま、私は母上とイルマ叔母上を見ていた。

 侍従長は扉の側にいる。目を伏せているが、下がらない。まるで、私がここから南の離宮へ行くのを止めるために置かれた門番のようだった。


「……馬鹿なことを」


 ようやく出た声は、自分でも少し低く聞こえた。


「馬鹿なことではありません」


 イルマ叔母上が答えた。その声は、まったく揺れていない。


「側妃からの文一通で、王を退けるのか」

「いいえ」


 母上が言った。


「その文一通で、陛下が《《どう動くかを見ました》》」

「マリーシアは泣いている」

「ええ」

「私が行かずに、誰が慰める」

「セレスタがいます。コリンナ殿もいます。王宮医も、女官長も」

「夫でもない者ばかりだ」

「陛下は夫である前に、王です」


 またそれだ。王だから。

 王だから、見舞いにも行けない。文も見られる。側妃の涙をすぐ抱きしめることもできない。

 なら、王とは何だ?

 人の前に座り、書面を読み、母や叔母や侍従長に止められるだけのものか。


「王太后陛下のお部屋へ」


 イルマ叔母上が言った。


「お話は、そちらで」

「私は行くとは言っていない」

「では、ここへ皆を呼びますか」


 ――皆。


 その言葉で、私は侍従長を見た。彼は何も言わない。

 だが、もう揃っているのだろう。母上の部屋に。

 宰相。儀典長。外務官。アレクシス。……ディート公爵もいるのか? いるのだろう。

 皆、私の知らないところで様々な紙を並べ、話を進め、私へ最後の一枚だけを持ってきた。


「……わかった」


 私はマリーシアの文を折る。折り目が少しずれた。

 涙の跡のあるところを、内側へ隠す。隠したところで、もう写しは取られている。

 そう思うと、また腹の底が熱くなった。


 *


 母上の部屋には、本当に皆がいた。

 宰相。儀典長。外務官フェリクス。アレクシス。ディート公爵。

 そして、机の上には様々な紙。

 見覚えのあるものも、ないものもあった。

 マリーシアの文の写し。公爵からの文。ルブラン公国使節の控え。国境伯からの文。地図。

 赤い印と青い印と黒い印がついた地図。

 私は部屋の入口で足を止めた。


「これは何だ」


 誰もすぐには答えなかった。その沈黙が、腹立たしいほど整然としている。


「私抜きの会議か」

「陛下を止めるための準備です」


 イルマ叔母上が言った。


「言葉を飾る気はありません」

「止める?」

「はい。王妃陛下を戻そうとなさること。側妃殿の涙で政務を動かそうとなさること。腹の子を、王位継承の旗にしようとなさること。そのすべてを」

「旗?」


 私は笑った。今度は、声に出た。


「まだ生まれてもいない子を、そなた達は旗などと言うのか」

「生まれてからでは遅いからです」


 叔母上はすぐに返した。あまりにすぐだった。


「私の子だぞ」

「その可能性があるからこそです」

「可能性ではない。私の子だ」

「出生前です。洗礼も、名付けも、王子または王女としての登録も済んでおりません」

「事務の話をしているのではない!」


 声が大きくなった。部屋の隅にいた女官が、肩を動かした。

 母上は動かない。


「私の血を引く子だ」

「その子に罪はありません」


 母上が言った。


「ではなぜ、その子から王位を奪う」

「まだ与えていないからです」


 その言葉は、冷たかった。母上が、腹の子にそんな言い方をするなんて。


「ひどいことを言う」

「ひどいことを言わせているのは、陛下です」


 イルマ叔母上だった。


「生まれる前なら、前王の子として保護できます。扶持も、住まいも、教育も、王家の体面を損なわぬ範囲で整えられる。けれど、現王の御子として洗礼を受け、名付けられ、王子として登録されれば、その子を担ぐ者が出ます」

「担げばよい。世継ぎかもしれない」

()()()()()()()()()()


 アレクシスが口を開いた。それまで黙っていた弟が。

 私は彼を見た。


「お前まで」

「兄上」

「王冠が欲しいのか」


 言った瞬間、部屋の空気が少しだけ揺れる。ディート公爵の眉が動く。宰相が目を伏せる。

 アレクシスは、すぐには答えなかった。答えないのが、また腹立たしい。


「欲しいのだろう?! 皆がそう言っているのだろう! 私を退かせれば、お前が王だ」

「欲しくはありません」


 アレクシスは言った。声は低い。


「なら黙っていろ!」

「黙っていられなくなりました」

「誰に言わされた?」

「地図にです」


 意味が分からなかった。


「地図?」


 アレクシスは、机の上の地図へ手を置いた。


「北東国境伯領の地図です。返書が五日遅れた橋。王都を待たずに切り出された材木。薬草支援が遅れた修道院。王妃府が止まったことでできた遅れです」

「そんなもの、処理すればよい」

「兄上は、そうおっしゃる」

「実際、処理したのだろう」

「処理されました。国境伯が王都を待てなかったからです」


 ――王都を待てない。


 その言葉は、引っかかった。


「国境伯が()()()動いたのか」

()()()()()()()()動きました」

「勝手ではないか」

「待っていれば、橋が落ちました」

「誇張だ」

「……兄上は地図を見ていません」


 アレクシスの声が、そこで少しだけ変わる。初めて、弟の中に怒りが見えた。


「兄上は、橋も、薬棚も、外務府が外した赤い布も、施療院の空き瓶も、王妃陛下の焼き林檎半分も、見ていません」

「それが王に必要なものというのか?」

「必要です!」


 即答だった。

 なぜ、皆こんなに即答する。私だけが、答えを間違えているように。


「王は、全部を見る必要はありません」


 アレクシスは続けた。


「ですが、見ている者の言葉を聞く必要があります。兄上は聞きません。聞かずに、フレイア王妃陛下が戻ればよいと言う」

「戻れば、実際に多くが戻る」

()()()戻してはならないのです」


 意味が分からない。戻るなら、戻せばよいではないか。なぜ、戻してはならない?


「王妃府の仕事を、王妃陛下一人に戻してはなりません」


 アレクシスは言った。


「修道院、施療院、外務、儀典、地方支援。それぞれに迂回路ができました。反抗ではありません。国を止めないための支えです。その支えを潰して、王妃陛下の背へ戻すなら、同じことがまた起きます」

「起きないように、今度は周りが支えればよい」

「兄上は、今まさに支えている者達を疑い、止め、怒っておられます」


 言い返そうとして、言葉が出なかった。母上が静かに紙を一枚取った。


「陛下」


 王太后の声だった。母の声ではない。


「退位をお受けなさい」


 部屋が、少し遠くなったように感じた。


「……断る」


 私は言った。


「断る。誰が何と言おうと、私は王だ」

「拒まれるなら、廃位の審理へ移ります」


 宰相が、初めて口を開いた。私は彼を見た。


「宰相」

「はい」

「そなたもか」

「はい」


 短い返事。それだけ。


「廃位など、できると思っているのか」

「王太后陛下、王弟殿下、先代王弟妃イルマ殿下、ディート公爵、北東国境伯、外務府、儀典長、宰相府が証拠を揃えます。可能です」


 証拠。また紙の上の話だ。私の周りには、それしかない。

 私の言葉を、皆が紙の上のものにする。マリーシアの涙まで。


「私が何をしたと」


 声が出た。それは怒りの声だったのか、自分でも分からない。


「側妃を迎えた。子を得た。王妃は疲れたから休ませた。王宮が困っているから戻ればよいと言った。それの何が、王を退けるほどの罪だ」


 誰もすぐには答えない。だが今度の沈黙は、少し違った。呆れではない。憐れみでもない。

 皆が、《《何から言うか》》を迷っているようだった。

 イルマ叔母上が口を開く。


「何をしたかではありません。何を見なかったかです」

「見なかった?」

「王妃陛下が五年間、何を背負っていたか。側妃殿を迎える順がどれほど乱れていたか。公爵家がなぜ怒ったか。夫人達がなぜ離れたか。施療院がなぜ困ったか。隣国が何を読んだか。国境伯がなぜ王都を待たなかったか。側妃殿がなぜ今、公の重さに潰れかけているか。何も見ていません」

「全部、説明されなければ分からないことだ」

「説明されていました」


 母上が言った。


「何度も」


 私は母上を見た。母上の顔には、疲れがあった。

 ただの疲れではない。諦める手前に見えた。


「私は」


 言葉が切れた。私は何を言おうとしたのか。


 ――私は悪くない。

 ――私は国を考えた。

 ――私は世継ぎを得ようとした。

 ――私はマリーシアを守ろうとした。

 ――私はフレイアを認めていた。


 言葉はいくつもあった。

 けれど、どれを言っても、部屋の中の紙が一枚増えるだけの気がした。


「……退位したとして」


 私は、ようやく言った。


「私はどうなるのだ」


 母上とイルマ叔母上が、目を合わせた。用意していたのだ。そこまで。


「北の離宮へ移っていただきます」


 母上が言った。


「北の離宮?」


 王都の北、古い離宮。

 父の代には狩猟の時に使われたが、今はほとんど閉じられている。冬は寒く、庭は広いが、王都からは遠い。湖に面している。道は一本。


「……あそこは、長く使っていない」

「整備します」

「私を、あそこへと?」

「前王として静養していただきます」


 ――静養。


 私は笑った。


「それは幽閉ではないか」


 誰も否定しなかった。

 否定しない。そのことに、喉の奥が冷えた。


「王家の体面上、()()と記します」


 イルマ叔母上が言った。


「実際には、政務から離れていただきます。王都への出入りは王太后府と新王の許可制。書簡はすべて検めます。面会も同じです」

「……マリーシアは」

「側妃殿は、出産まで南の離宮で王太后府の管理下に置きます」

「会えないのか?」

「医師と王太后府が認めた範囲で」

「私の子だぞ?」

「だからこそ、管理します」


 また、その言葉。


 ――だからこそ。


 何もかも、だからこそで閉じられる。


「生まれた子は」


 私は訊いた。声が少し掠れていた。


「前王の子として保護します」


 母上が答えた。


「王子ではないのか」

「退位後に出生した子です。王位継承線には載せません」

「男児でもか」

「男児でも」


 部屋の中の音が消えた。


 ――男児でも。


 その言葉は、あまりに簡単に出た。


「それを、マリーシアにどう言う」

「言わねばなりません」

「泣くぞ」

「泣くでしょう」

「彼女は耐えられない」

「だから、今のうちに王宮の中心から下げます」


 私は椅子の背に手を置いた。

 座るつもりはなかった。だが、立っている足元が少し遠くなった。


「私が署名しなければ」

「廃位審理です」


 宰相が言った。


「署名すれば」

「退位。前王としての礼遇。北の離宮での静養。年金、従者、医師、祈祷所は整えます」


 礼遇。年金。従者。医師。祈祷所。

 檻の中の家具を数えているようだった。


「……アレクシス」


 私は弟を見た。


「お前は、それでよいのか?」


 アレクシスは、地図の横に立っていた。王冠を欲しがる男なら、ここで前に出るだろう。

 だが彼は前に出なかった。


「よくはありません」

「なら」

「ですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 静かな声。それが一番、腹の底へ落ちた。


「兄上が王でいる限り、皆が兄上を迂回します。公爵家も、国境伯も、夫人達も、外務府も、儀典長も。王を中心に置けない国になります」

「私を中心から外すのか」

「もう外れ始めています」


 誰もその言葉を止めない。アレクシスも、言ってから苦しそうな顔をした。

 だが、言った。

 私は机の上のマリーシアの文を見た。白い封筒。涙の跡。


 ――本当のことを教えてくださいませ。


 本当のこと。これが本当のことなのか。

 王が退けられ、側妃は下げられ、子は継承から外され、王妃は戻らない。

 それが、皆が隠していた本当のことなのか?


「少し、考える時間を」


 私は言った。母上は頷いた。


「一晩」

「一晩?」

「それ以上は与えられません」

「私は王だ」

「今夜まで」


 母上の声は、変わらなかった。


 ――今夜まで。


 その言葉が、部屋の中に置かれた。

 私はマリーシアの手紙を手に取ろうとしたが、侍従長が動いた。


「何だ」

「その手紙は、記録としてこちらで保管します」

「私宛だ」

「写しはございます。原本は記録に」


 私は彼を見た。侍従長は退かない。

 私は手紙から手を離した。もう、私宛の手紙すら私のものではない。


「……南の離宮へは」

「本日はお控えなさい」


 母上が言った。


「マリーシアは待っている」

「セレスタがついています」

「またセレスタか」

「はい」


 私は笑った。だが笑いはすぐ消えた。

 ふらふらと部屋の扉へ向かう。誰も止めなかった。

 外へ出ると、廊下は静かだった。

 王宮の廊下。五年前から歩いている廊下。父から受け継いだ王宮。

 その王宮が、今はどこか他人の屋敷のように見えた。

 南の離宮へ続く回廊は、途中で侍従が二人立っていた。行くな、という配置だった。

 あからさまではない。だが分かる。

 私はそちらへは行かず、自分の部屋へ向かう。

 背後で、侍従長の足音がついてきた。王の後ろに。

 いや、前王になるかもしれない男の後ろに。

 窓の外では、北へ向かう空が少し曇っていた。



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