67 前王妃フレイア――石畳の先
あれから、白い花は、何度か替わった。
*
最初は三本だった。次は五本になった。雨の日には窓辺だけに置かれ、晴れた日には廊下の角にも置かれた。
その廊下の角まで歩いた日、私はリーナの腕を借りた。
扉を出て、石畳ではなく絨毯の上を十数歩。廊下の角の小さな台に置かれた白い花を見て、戻った。
そして戻った後、半日眠った。
寝たきりだった私の足は、こんなにも弱っていた。
足だけではない。動いた時の息が切れる。身体の重みを感じる。
けれど、セヴラン先生は、よい疲れです、と言った。
王宮にいた頃は、そんなことすら忘れていた。
*
それから少しずつ、歩く距離が伸びた。
扉の前。廊下の角。階段の手前。庭へ出る扉の内側。庭へ出る扉の外側。石畳の一枚目。
そして今日は、石畳の三枚目まで来ている。
外は、日差しの柔らかい日だった。
まぶしいほどではない。目を細めずにいられるくらいの薄い陽が、庭の草と石畳の上に落ちていた。
雨の匂いが抜け、土が少し乾いている。白い花の鉢は、庭師が石畳の脇へ移してくれていた。
香りはなく、葉だけが少し青い。
私はリーナの腕から、少しだけ手を離した。
「大丈夫ですか?」
リーナが訊いた。
「たぶん……」
「フレイア様、たぶん、では足りません」
「では、大丈夫」
「まあ、無理をなさる時の声ではございませんね」
「リーナは、そういうところだけ厳しい」
「わたくしは、そういうところ以外も厳しゅうございます」
私は少し笑った。
笑うと、肋骨のあたりがまだ頼りない。でも、以前のように息が途切れるほどではない。
リーナは私の肘の少し下に手を添えていた。彼女のそれは、支えるのではなく、いざという時に受けるための手だ。
それもようやく、この頃は分かるようになった。
「椅子まで行けそう」
石畳の先に、白い木の椅子が置かれている。昨日までは、扉のすぐそばにあった。
今日は、庭師が三歩ぶん遠くへ動かした。誰が頼んだのかは知らない。たぶんお母様だ。リーナも知っていただろう。お父様も、何も言わずに窓から見ているかもしれない。
「では、椅子まで」
リーナが言う。私は一歩進む。
石畳は決して平らではない。王宮の廊下よりも、足の裏に凹凸が伝わる。
二歩目―― 三歩目――
椅子の背に手が届く。リーナが先に座面へ手を置き、冷たくないか確かめた。
「大丈夫でございます」
座ると途端に、肩から力が抜けた。
庭の向こうで、お母様がこちらを見ていた。庭師と何か話している《《ふりをしている》》。お父様の姿は見えない。けど、たぶん書斎の窓から見ている。
「ねえリーナ、私、ここまで来たわ」
私が言うと、リーナが少しだけ口元を緩めた。
「はい。ここまで来られました」
「明日は、もう一枚先?」
「セヴラン先生次第でございます」
「みんな、先生次第?」
「お体のことは、先生次第でございます」
「王宮のことは?」
リーナの手が、椅子の背で少し止まった。私は白い花を見たまま続けた。
「そろそろ、聞いてもいいと言われたわ」
「……はい」
「でも、聞いたら歩けなくなるかもしれないと、皆が思っているのね?」
リーナはすぐには答えなかった。風が、白い花の葉を少し揺らした。
「皆、フレイア様が歩けなくなることは、避けたいのでございます」
「ええ」
膝の上に手を置く。前よりも、指の骨が目立たなくなってきた。それでも、王宮にいた頃の手とは違う。
あの頃の手は、いつも何かを持っていた。書類。扇。封蝋のついた文。誰かの不満。誰かの失敗。まだ起きてもいない揉め事の芽。
何でも先に拾っていた。何でも先に数えていた。
――誰かが困る前に、私が困っておけばよいと思っていた。
けれど、私がいなくとも、困っても、王宮は動いているらしい。
「昨日、お父様が話してくれたの」
リーナは目を伏せた。知っていたのだ。
「陛下が退位したこと。今は前王陛下となって、北の離宮にいること。弟君のアレクシス殿下が新王になったこと。マリーシア様は南の離宮にいて、出産までは保護されること。お腹の子は、王位継承には載らないこと……」
口にしても、庭は変わらない。
白い花は揺れている。石畳は足元にある。リーナの手は、椅子の背にある。日差しは相変わらず柔らかく、私の膝に置いた手を少しだけ温めていた。
「それから、旧王妃府の仕事を分けること」
「はい」
「施療院や修道院の支援は、評議で見る。外務府は外務府で控えを持つ。儀典長は赤い書き込みを黒で写す。地方からの必要量は秋に上げる」
そこで少しだけ大きく息を吸った。
言葉を並べると、頭の奥に書面の白さが戻りそうになる。
でも、今日は庭にいる。机ではない。膝の上に席次表はない。誰かのために先回りして空けておく欄もない。
「赤い書き込みを、黒で」
私は言った。
「はい」
「いいことだと思うの」
リーナがこちらを見る。
「よろしいのですか」
「だって、私の字が、いつまでも王宮の書面で目立っていたら、誰かがまた私を探すもの」
リーナの目のふちが少し赤くなった。
「黒で写して、次はその人が考えればいいのよね」
「はい」
「間違えるかもしれないけれど」
「間違えたら、直す方が困るだけです」
前にリーナが言ったことに似ていた。
――困るべき者が困っております。
あの言葉は、まだ私の中にある。
「困るのは、悪いことではなかったのね」
「はい」
「私は、先に困りすぎていたのかもしれないわ」
リーナは何も言わなかった。
風がまた葉を揺らす。庭の奥で、母がこちらへ歩き出そうとして、足を止めた。たぶん、私達の話がまだ続いているのを見たのだろう。
「昔は、何でも自分で持たなくてはいけないと思っていたわ」
口にしてから、少し驚いた。
思っていた、という言い方になったことに。
「陛下がなさらないことも、重臣達の不満も、地方から来る施療院の文も、修道院の冬支度も、儀典長の赤い書き込みも。誰かが落としたものを、全部、《《私が拾わないといけない気がしていた》》の」
「……はい」
「でも、私の手は二つしかない」
リーナは小さく息を吸う。
私は自分の手を軽く上げる。細くなって、まだ力が戻りきらない。
けれど、今日は椅子の背を掴んだし、杯も持った。白い花の葉が揺れるのも、こうして待てる。
「王宮にいた時は、それも忘れていたみたい」
「フレイア様」
「大丈夫よリーナ。悲しい話をしているのではないの」
そう言うと、リーナは唇を結んだ。
「今ね、何となく気持ちが軽いの。変ね。解決していないことだって、まだたくさんあるのに」
「フレイア様が解決なさることではございません」
「そうね」
その言葉は、前なら怖かったかもしれない。私が解決しなくてもよい、ということは。
「マリーシア様は」
少し迷って、その名を出した。
結局私は、あの方を知らない。姿も顔も知らない。そもそも、前王陛下の言葉が出るまでは全く知らなかった。
だからあれは、青天の霹靂のような出来事だった。
そして知らないまま、あの方は私の世界を通り過ぎて、今はもう、交わることはない。
「お聞きになりますか」
リーナの表情が強ばる。
「少しだけ。今度のことで、どうなさったかだけ」
「泣かれたそうです。怒りもなさったと」
「そう」
「御子のことを、まだ生まれていないだけです、と」
その言葉は、少し痛かった。
結局私には子はできなかった。でもそれはそれで、良かったのかもしれない。
――子に罪はない。
それは、お父様もお母様も、そして新王陛下も言っていた。
子に罪がないからこそ、周りの大人が一線を引く。その線の冷たさも、今なら少し分かる。
「私が戻っていたら、その子の洗礼も名付けも、私が考えていたのかしら」
リーナの手が、今度ははっきり止まった。
「フレイア様」
「考えない方がいい?」
「いえ、考えても、もうそこには戻らなくてよろしゅうございます」
それは答えになっているようで、なっていない。けれど、今はそれでよかった。
「戻らない、のよね」
声は思っていたより小さかった。
でも、リーナには聞こえたようだった。
「はい」
「そう、王宮へは、もう戻らないわ」
「そうです」
「尊号の話がある、ってお父様が言ってらしたけど」
新王府から来た文の中に、私へ王太后に準じる尊号を、という話があったらしい。
名目は王家への五年の奉仕と、前王妃としての礼遇。それは決して、王宮に戻すためではない、とも書かれていたと。
お父様はそれを読んで、まだ受けるとも断るとも言っていない。まず私の体、と言った。
お母様は、名前より粥です、と言った。私は少し笑った。あの時のお母様の顔を思い出すと、今でもおかしくなってしまう。
「名前だけなら、受けてもよかったのかもしれない」
私は言った。
「でも、実務がついてくるならもう、したくないわ」
「旦那様も奥様も、同じことをおっしゃいます」
「リーナは?」
「わたくしも同じでございます」
「三人もいるなら、私は楽ね」
「四人でございます」
「四人?」
「セヴラン先生も、実務の匂いがするものは通すなと」
今度こそ笑って、少し咳き込んだ。リーナがすぐ水を差し出したので飲む。
庭で飲む水は、部屋で飲むものより少し冷たい。すっと喉を通っていくのが心地よい。杯を返すと、リーナは布で縁を拭いた。
「ねえ、リーナ」
「はい」
「変なことを言ってもいい?」
「変なことの程度によります」
「前王さまの顔が、思い出せないの」
リーナは私を見て動きを止めた。
私は白い花に視線を移す。葉の青さ。鉢の縁についた土。石畳の隙間に入り込んだ小さな草。それらは見えるのに、彼の顔は出てこない。
冠。黒い礼服の襟。机の向こうに置かれた手。赤い封蝋。謁見の間の金の縁取り。そういうものは思い出せる。
けれど、その真ん中にあったはずの顔だけが、薄い布の向こうにあるようにぼやけている。
「怒っていた顔も、笑っていた顔も、困っていた顔も、きっとあったはずなのに、もうよく分からないの」
「……はい」
「薄情かしら? 五年も連れ添っていたのに」
「いいえ―― 決して!」
「ほんとう?」
「はい」
顔を上げたリーナの返事は早かった。早すぎて、少し笑ってしまう。
「リーナは、そういうところは迷わないのね」
「迷いません」
「そう」
そしてもう一度、思い出そうとしてみた。やはり出てこない。
嫌いではなかったはずだ。待つ夜も確かにあった。それが数えるくらいのものであったしても、彼にはその義務があったはずだから。
でも、やがて待つのを止めた。
彼は私のところへは来ない。他の女のところに行ったという声も聞かなかった訳ではない。
……ああ、考えないようにするために、仕事をしていたのかもしれない。
そして私はきっと、彼の顔を《《見なくなった》》。
目は彼を映してはいただろう。だがもう、そこに焦点を合わせてはいなかったのだ。
今はもう、彼などより、粥の匙を持って固まっていたお父様の顔や、肩掛けを選びながら泣きそうになっていたお母様の顔や、水差しの蓋を乱暴に閉めた時のリーナの手がすぐに浮かぶ。
セヴラン先生が脈を取りながら、今日は庭を見るだけにしましょう、と言った声も。
「そうね、なら、いいのかもしれない」
「はい」
「今は、そちらを思い出せる方がいい」
リーナは何も言わず、杯を膝の上の布に戻した。
「椅子まで来たのですから、今日はもう戻りますか?」
「もう少しだけ、いいかしら?」
「どのくらいでございますか」
「白い花が、もう一回揺れるまで」
リーナは花を見る。風は止まっていた。
「風が吹かなければ、長くなります」
「そうね」
「では、葉が一枚動くまでにいたしましょう」
「リーナ、厳しいわ」
「はい、リーナは厳しゅうございます。フレイア様のためでしたら」
私達は花を見た。
葉はすぐに動く気配はない。日差しは白い花の鉢の片側だけを照らし、影になった方の土はまだ少し湿っていた。
庭の向こうからお母様が、今度こそこちらへ歩いてきた。手には薄い肩掛けがある。
お父様も書斎の窓の向こうに立っていた。本当に、見ていないふりをするのが下手だった。
「明日も、ここまで来られるかしら」
「セヴラン先生次第でございます」
「では、明日は先生が機嫌よく起きるといいわ」
「先生の機嫌より、フレイア様のお体でございます」
「それはそうね」
葉が一枚、少しだけ揺れた。
「動きました」
リーナが言った。
「……そう? 見ていた?」
「見ておりました」
「では、戻ります」
立ち上がる前に、椅子の背を握る。急に立つと、まだ少しふらついたら、リーナの手が肘へ来る。お母様が肩掛けを持ったまま近づいてくた。
石畳を見る。来る時より、戻る方が少し短く見える。
――一歩。二歩。三歩。
扉の前まで来た時、白い花の鉢がまた風で揺れた。
リーナが扉を開ける。部屋の中には、夕方の焼き林檎の匂いがした。もう丸ごと一つ食べられる。
明日は、今日より少し楽しいといい。
少しずつ。
――そう思っても、もう、誰も困らない。
END




