表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
67/67

67 前王妃フレイア――石畳の先

 あれから、白い花は、何度か替わった。


 *


 最初は三本だった。次は五本になった。雨の日には窓辺だけに置かれ、晴れた日には廊下の角にも置かれた。

 その廊下の角まで歩いた日、私はリーナの腕を借りた。

 扉を出て、石畳ではなく絨毯の上を十数歩。廊下の角の小さな台に置かれた白い花を見て、戻った。

 そして戻った後、半日眠った。

 寝たきりだった私の足は、こんなにも弱っていた。

 足だけではない。動いた時の息が切れる。身体の重みを感じる。

 けれど、セヴラン先生は、よい疲れです、と言った。

 王宮にいた頃は、そんなことすら忘れていた。


 *


 それから少しずつ、歩く距離が伸びた。

 扉の前。廊下の角。階段の手前。庭へ出る扉の内側。庭へ出る扉の外側。石畳の一枚目。

 そして今日は、石畳の三枚目まで来ている。


 外は、日差しの柔らかい日だった。

 まぶしいほどではない。目を細めずにいられるくらいの薄い陽が、庭の草と石畳の上に落ちていた。

 雨の匂いが抜け、土が少し乾いている。白い花の鉢は、庭師が石畳の脇へ移してくれていた。

 香りはなく、葉だけが少し青い。

 私はリーナの腕から、少しだけ手を離した。


「大丈夫ですか?」


 リーナが訊いた。


「たぶん……」

「フレイア様、たぶん、では足りません」

「では、大丈夫」

「まあ、無理をなさる時の声ではございませんね」

「リーナは、そういうところだけ厳しい」

「わたくしは、そういうところ以外も厳しゅうございます」


 私は少し笑った。

 笑うと、肋骨のあたりがまだ頼りない。でも、以前のように息が途切れるほどではない。

 リーナは私の肘の少し下に手を添えていた。彼女のそれは、支えるのではなく、いざという時に受けるための手だ。

 それもようやく、この頃は分かるようになった。


「椅子まで行けそう」


 石畳の先に、白い木の椅子が置かれている。昨日までは、扉のすぐそばにあった。

 今日は、庭師が三歩ぶん遠くへ動かした。誰が頼んだのかは知らない。たぶんお母様だ。リーナも知っていただろう。お父様も、何も言わずに窓から見ているかもしれない。


「では、椅子まで」


 リーナが言う。私は一歩進む。

 石畳は決して平らではない。王宮の廊下よりも、足の裏に凹凸が伝わる。

 二歩目―― 三歩目――

 椅子の背に手が届く。リーナが先に座面へ手を置き、冷たくないか確かめた。


「大丈夫でございます」


 座ると途端に、肩から力が抜けた。

 庭の向こうで、お母様がこちらを見ていた。庭師と何か話している《《ふりをしている》》。お父様の姿は見えない。けど、たぶん書斎の窓から見ている。


「ねえリーナ、私、ここまで来たわ」


 私が言うと、リーナが少しだけ口元を緩めた。


「はい。ここまで来られました」

「明日は、もう一枚先?」

「セヴラン先生次第でございます」

「みんな、先生次第?」

「お体のことは、先生次第でございます」

「王宮のことは?」


 リーナの手が、椅子の背で少し止まった。私は白い花を見たまま続けた。


「そろそろ、聞いてもいいと言われたわ」

「……はい」

「でも、聞いたら歩けなくなるかもしれないと、皆が思っているのね?」


 リーナはすぐには答えなかった。風が、白い花の葉を少し揺らした。


「皆、フレイア様が歩けなくなることは、避けたいのでございます」

「ええ」


 膝の上に手を置く。前よりも、指の骨が目立たなくなってきた。それでも、王宮にいた頃の手とは違う。

 あの頃の手は、いつも何かを持っていた。書類。扇。封蝋のついた文。誰かの不満。誰かの失敗。まだ起きてもいない揉め事の芽。

 何でも先に拾っていた。何でも先に数えていた。


 ――誰かが困る前に、私が困っておけばよいと思っていた。


 けれど、私がいなくとも、困っても、王宮は動いているらしい。


「昨日、お父様が話してくれたの」


 リーナは目を伏せた。知っていたのだ。


「陛下が退位したこと。今は前王陛下となって、北の離宮にいること。弟君のアレクシス殿下が新王になったこと。マリーシア様は南の離宮にいて、出産までは保護されること。お腹の子は、王位継承には載らないこと……」


 口にしても、庭は変わらない。

 白い花は揺れている。石畳は足元にある。リーナの手は、椅子の背にある。日差しは相変わらず柔らかく、私の膝に置いた手を少しだけ温めていた。


「それから、旧王妃府の仕事を分けること」

「はい」

「施療院や修道院の支援は、評議で見る。外務府は外務府で控えを持つ。儀典長は赤い書き込みを黒で写す。地方からの必要量は秋に上げる」


 そこで少しだけ大きく息を吸った。

 言葉を並べると、頭の奥に書面の白さが戻りそうになる。

 でも、今日は庭にいる。机ではない。膝の上に席次表はない。誰かのために先回りして空けておく欄もない。


「赤い書き込みを、黒で」


 私は言った。


「はい」

「いいことだと思うの」


 リーナがこちらを見る。


「よろしいのですか」

「だって、私の字が、いつまでも王宮の書面で目立っていたら、誰かがまた私を探すもの」


 リーナの目のふちが少し赤くなった。


「黒で写して、次はその人が考えればいいのよね」

「はい」

「間違えるかもしれないけれど」

「間違えたら、直す方が困るだけです」


 前にリーナが言ったことに似ていた。


 ――困るべき者が困っております。


 あの言葉は、まだ私の中にある。


「困るのは、悪いことではなかったのね」

「はい」

「私は、先に困りすぎていたのかもしれないわ」


 リーナは何も言わなかった。

 風がまた葉を揺らす。庭の奥で、母がこちらへ歩き出そうとして、足を止めた。たぶん、私達の話がまだ続いているのを見たのだろう。


「昔は、何でも自分で持たなくてはいけないと思っていたわ」


 口にしてから、少し驚いた。

 思っていた、という言い方になったことに。


「陛下がなさらないことも、重臣達の不満も、地方から来る施療院の文も、修道院の冬支度も、儀典長の赤い書き込みも。誰かが落としたものを、全部、《《私が拾わないといけない気がしていた》》の」

「……はい」

「でも、私の手は二つしかない」


 リーナは小さく息を吸う。

 私は自分の手を軽く上げる。細くなって、まだ力が戻りきらない。

 けれど、今日は椅子の背を掴んだし、杯も持った。白い花の葉が揺れるのも、こうして待てる。


「王宮にいた時は、それも忘れていたみたい」

「フレイア様」

「大丈夫よリーナ。悲しい話をしているのではないの」


 そう言うと、リーナは唇を結んだ。


「今ね、何となく気持ちが軽いの。変ね。解決していないことだって、まだたくさんあるのに」

「フレイア様が解決なさることではございません」

「そうね」


 その言葉は、前なら怖かったかもしれない。私が解決しなくてもよい、ということは。


「マリーシア様は」


 少し迷って、その名を出した。

 結局私は、あの方を知らない。姿も顔も知らない。そもそも、前王陛下の言葉が出るまでは全く知らなかった。

 だからあれは、青天の霹靂のような出来事だった。

 そして知らないまま、あの方は私の世界を通り過ぎて、今はもう、交わることはない。


「お聞きになりますか」


 リーナの表情が強ばる。


「少しだけ。今度のことで、どうなさったかだけ」

「泣かれたそうです。怒りもなさったと」

「そう」

「御子のことを、まだ生まれていないだけです、と」


 その言葉は、少し痛かった。

 結局私には子はできなかった。でもそれはそれで、良かったのかもしれない。


 ――子に罪はない。


 それは、お父様もお母様も、そして新王陛下も言っていた。

 子に罪がないからこそ、周りの大人が一線を引く。その線の冷たさも、今なら少し分かる。


「私が戻っていたら、その子の洗礼も名付けも、私が考えていたのかしら」


 リーナの手が、今度ははっきり止まった。


「フレイア様」

「考えない方がいい?」

「いえ、考えても、もうそこには戻らなくてよろしゅうございます」


 それは答えになっているようで、なっていない。けれど、今はそれでよかった。


「戻らない、のよね」


 声は思っていたより小さかった。

 でも、リーナには聞こえたようだった。


「はい」

「そう、王宮へは、もう戻らないわ」

「そうです」

「尊号の話がある、ってお父様が言ってらしたけど」


 新王府から来た文の中に、私へ王太后に準じる尊号を、という話があったらしい。

 名目は王家への五年の奉仕と、前王妃としての礼遇。それは決して、王宮に戻すためではない、とも書かれていたと。

 お父様はそれを読んで、まだ受けるとも断るとも言っていない。まず私の体、と言った。

 お母様は、名前より粥です、と言った。私は少し笑った。あの時のお母様の顔を思い出すと、今でもおかしくなってしまう。


「名前だけなら、受けてもよかったのかもしれない」


 私は言った。


「でも、実務がついてくるならもう、したくないわ」

「旦那様も奥様も、同じことをおっしゃいます」

「リーナは?」

「わたくしも同じでございます」

「三人もいるなら、私は楽ね」

「四人でございます」

「四人?」

「セヴラン先生も、実務の匂いがするものは通すなと」


 今度こそ笑って、少し咳き込んだ。リーナがすぐ水を差し出したので飲む。

 庭で飲む水は、部屋で飲むものより少し冷たい。すっと喉を通っていくのが心地よい。杯を返すと、リーナは布で縁を拭いた。


「ねえ、リーナ」

「はい」

「変なことを言ってもいい?」

「変なことの程度によります」

「前王さまの顔が、思い出せないの」


 リーナは私を見て動きを止めた。

 私は白い花に視線を移す。葉の青さ。鉢の縁についた土。石畳の隙間に入り込んだ小さな草。それらは見えるのに、彼の顔は出てこない。

 冠。黒い礼服の襟。机の向こうに置かれた手。赤い封蝋。謁見の間の金の縁取り。そういうものは思い出せる。

 けれど、その真ん中にあったはずの顔だけが、薄い布の向こうにあるようにぼやけている。


「怒っていた顔も、笑っていた顔も、困っていた顔も、きっとあったはずなのに、もうよく分からないの」

「……はい」

「薄情かしら? 五年も連れ添っていたのに」

「いいえ―― 決して!」

「ほんとう?」

「はい」


 顔を上げたリーナの返事は早かった。早すぎて、少し笑ってしまう。


「リーナは、そういうところは迷わないのね」

「迷いません」

「そう」


 そしてもう一度、思い出そうとしてみた。やはり出てこない。

 嫌いではなかったはずだ。待つ夜も確かにあった。それが数えるくらいのものであったしても、彼にはその義務があったはずだから。

 でも、やがて待つのを止めた。

 彼は私のところへは来ない。他の女のところに行ったという声も聞かなかった訳ではない。

 ……ああ、考えないようにするために、仕事をしていたのかもしれない。

 そして私はきっと、彼の顔を《《見なくなった》》。

 目は彼を映してはいただろう。だがもう、そこに焦点を合わせてはいなかったのだ。


 今はもう、彼などより、粥の匙を持って固まっていたお父様の顔や、肩掛けを選びながら泣きそうになっていたお母様の顔や、水差しの蓋を乱暴に閉めた時のリーナの手がすぐに浮かぶ。

 セヴラン先生が脈を取りながら、今日は庭を見るだけにしましょう、と言った声も。


「そうね、なら、いいのかもしれない」

「はい」

「今は、そちらを思い出せる方がいい」


 リーナは何も言わず、杯を膝の上の布に戻した。


「椅子まで来たのですから、今日はもう戻りますか?」

「もう少しだけ、いいかしら?」

「どのくらいでございますか」

「白い花が、もう一回揺れるまで」


 リーナは花を見る。風は止まっていた。


「風が吹かなければ、長くなります」

「そうね」

「では、葉が一枚動くまでにいたしましょう」

「リーナ、厳しいわ」

「はい、リーナは厳しゅうございます。フレイア様のためでしたら」


 私達は花を見た。

 葉はすぐに動く気配はない。日差しは白い花の鉢の片側だけを照らし、影になった方の土はまだ少し湿っていた。

 庭の向こうからお母様が、今度こそこちらへ歩いてきた。手には薄い肩掛けがある。

 お父様も書斎の窓の向こうに立っていた。本当に、見ていないふりをするのが下手だった。


「明日も、ここまで来られるかしら」

「セヴラン先生次第でございます」

「では、明日は先生が機嫌よく起きるといいわ」

「先生の機嫌より、フレイア様のお体でございます」

「それはそうね」


 葉が一枚、少しだけ揺れた。


「動きました」


 リーナが言った。


「……そう? 見ていた?」

「見ておりました」

「では、戻ります」


 立ち上がる前に、椅子の背を握る。急に立つと、まだ少しふらついたら、リーナの手が肘へ来る。お母様が肩掛けを持ったまま近づいてくた。

 石畳を見る。来る時より、戻る方が少し短く見える。

 ――一歩。二歩。三歩。

 扉の前まで来た時、白い花の鉢がまた風で揺れた。


 リーナが扉を開ける。部屋の中には、夕方の焼き林檎の匂いがした。もう丸ごと一つ食べられる。

 明日は、今日より少し楽しいといい。

 少しずつ。


 ――そう思っても、もう、誰も困らない。




 END


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ