6 ディート公爵――父の怒り
昼前、厩の方が騒がしくなった。
私は執務室で、北の牧場から届いた報告を読んでいた。春先に生まれた仔馬のうち、一頭の脚が弱い。牧場主は売り物にはならないと書いていたが、血筋は悪くない。無理に走らせるな、と返事を書くつもりでいた。
その時、廊下を家令の足音が近づいてきた。
家令のユストは、足音で用件の重さが分かる男である。茶を替える時は軽い。客を通す時は少し重い。
家の者が怪我をした時は、途中で一度止まる。
……今日は止まらなかった。
「旦那様」
「入れ」
扉が開く。ユストの後ろに、馬丁のマルクが立っていた。王宮へ付けた者だ。
外套の裾に泥が跳ね、肩口に白い泡がついている。馬の汗だ。人間の汗なら首元に出る。馬を飛ばした者の外套には、肩と袖に飛ぶ。
マルクは片膝をついた。
「フレイア様より、旦那様へ」
胸の内側から封書を出す。赤い封蝋。うちの紋だ。
王妃府の公文ではない。王宮の封でもない。王妃陛下としての文ではなく、娘から父へ出す私信である。
それを、王宮に残している公爵家の馬丁が、馬を飛ばして持ってきた。
私はペンを置いた。ペン先に残ったインクが、報告書の余白に小さな点を作った。
「馬は」
「南門を出て二つ目の宿場で替えました。今の馬は、西の厩へ」
「水を少しずつ飲ませろ。一度に飲ませるな。脚を洗わせ、膝を見るように」
「はい」
「お前も水を飲め。厨房へ行け」
マルクは封書を両手で差し出した。
手は洗われていた。爪の間の土が少し残っているが、手の甲に水の跡がある。受け取る前に拭いたのだろう。よし。
私は封書を受け取る。ユストが銀の盆を差し出す。そこへ置いて、封蝋を見る。割れていない。途中で誰かが開けた跡もない。
折り方は、公爵家の私信のものだ。フレイアが嫁ぐ日に、王宮へ持たせた紙である。厚みが少し違う。王妃府の紙はもっと滑る。これは、指にわずかに引っかかる。
娘は、この紙をまだ持っていた。
ユストが封切りの小刀を差し出した。私は受け取る。刃を入れる前に、封蝋の端へ爪を当てた。
蝋は固まっている。しかし、紙にまだわずかな香が残っていた。王宮の香ではない。フレイアの部屋に置いていた、白い花の香だ。嫁ぐ前から使っていたものに近い。
刃を入れる。封蝋が、ぱきりと割れた。
中には、短い文が入っていた。
――お父様。
私はその一行で、まず身構えた。
フレイアは私信でも、よほどのことがない限り余計な飾りを入れない。
幼い頃からそうだった。菓子が欲しい時も、犬を飼いたい時も、叱られたくない時も、まず事実を並べる。
甘えるのが下手な娘だった。下手にしたのは、私かもしれない。
そう考える間もなく、次の行が目に入った。
――陛下が、側妃を迎えられます。
私は紙を持つ指を替えた。
ユストが一歩下がる。マルクはまだ膝をついている。読んだ。
――十日後。
――マリーシア。
――レーヴェ伯爵家分家の子爵家の令嬢。
――すでに王の子を宿していると、王より聞いた。
――王宮医の診断はまだ。
――南の離宮。
――準備は王妃府へ一任。
――イルマ叔母様に前例を確認してほしい。
最後まで読んで、私はもう一度、最初から読んだ。文字は細い。
フレイアの字は、もともと細い方だ。だがこれは、ペン圧が途中で変わっている。最初の三行は薄く、四行目から少し戻り、最後の一行でまた細くなっている。
手紙を書く途中で、一度、ペンを置いたのだろう。
机の前に座り、あの子はこれを書いた。王宮の机で。おそらく、仕事の途中で。
私は文を机に置いた。ユストが、息を吸った。
「旦那様」
「扉を閉めろ」
ユストがすぐ動く。扉が閉じる。廊下の音が遠くなった。
「マルク」
「はい」
「この文は、誰から受け取った」
「リーナです」
「どこで」
「王宮西の小厩です」
「王妃府ではなく」
「はい」
「リーナは何と言った」
マルクは背を伸ばした。
「公爵閣下へ直接。途中で誰にも渡すな。王妃府からの公文書ではない。フレイア様からディート公爵閣下への私信だ、と」
リーナらしい。
あの娘は鋭い針のような侍女だ。細いが、布の目を間違えない。通すところを通し、余計なところを破らない。
そのリーナが、王妃府を通さず、西の小厩で馬丁に渡した。
王妃府を通せば、宰相府に寄ると読んだのだ。
「他には」
「宰相府の使いに会っても止まるな、と」
ユストの指が、銀盆の縁を押した。盆が少し鳴る。私は手紙をもう一度取った。
――十日後。南の離宮。王宮医の診断なし。孕んだ女を、あとから側妃にする。
――その準備を、正妃にさせる。
五年、娘を王宮へ置いていた。
五年だ。
私はフレイアを王妃として送り出した。王家に差し出したつもりはない。国のために、王宮のために、王の隣に立つ者として送り出した。あの子が十八の時である。
王は二十五だった。
若い娘を迎えるなら、守るのは年長の王の役目だ。妻にするなら、王妃にするなら、国の母にするなら、なおさらだ。
それを何だ。子がない。だから側妃。
すでに腹に子がいる。だから急ぐ。
――十日後。準備は王妃府。
私は椅子から立ち、机の横に置いていた杖を取る。
これは歩くためのものではない。亡き父が使っていたものだ。先端に銀が巻いてある。床に突くと、音がよく通る。
こつ、と床を打った。マルクの肩が少し下がる。ユストは顔を上げた。




