56 王太后付き上級女官セレスタ夫人――白い封筒
白い封筒は、わたくしの手の中で少し歪んでいました。封蝋が端へ流れています。
側妃マリーシア様の手が震えたのでしょう。蝋は丸く落ちず、書面の折り目に沿って薄く伸びていました。
黄色い封筒がよい、とおっしゃった。けれど、最後には白い封筒をお取りになった。
それもまた、今の南の離宮に似合っていました。
明るい色を欲しがる方が、白い書面に閉じ込められている。
廊下へ出ると、女官が二人、壁際で頭を下げました。そのうち一人は若い子です。
「お茶を替えて。薄く、温かいものを。菓子はいりません」
「はい」
「コリンナ様へ、側妃様は少しお疲れと伝えて。お部屋へお戻りになるなら、先にわたくしへ知らせるように」
「かしこまりました」
若い女官が膝を折ります。
もう一人が、わたくしの手元を見ました。白い封筒。見ないふりをしようとして、目が止まったのでしょう。
「この文は、侍従長室へ運びます」
わたくしは先に言いました。
「側妃様から陛下への御文です。廊下で話題にしてはなりません」
「はい」
返事は揃いました。揃いすぎています。
南の離宮では最近、返事だけがよく揃うようになりました。
わたくしは廊下を歩きました。
途中、窓の外に黄色い花が見えます。花方が選んだ、香りの弱い小さな花。マリーシア様は、もっと明るく大きな花を望まれました。王宮医が香を止め、わたくしが種類を削り、コリンナ様が数を削った。
削る仕事ばかりです。
言葉も。菓子も。香も。花も。側妃様の望みも。
削って、削って、ようやく形を保っている。
その削られた分が、今、白い封筒の中に入っています。
*
侍従長室へ入ると、カレル侯爵は机に向かっていました。
広げられていたのは、陛下から公爵家へ出されるはずだった文の控えです。
公爵家へは、まだ出ていない。王太后陛下のところで止まっている。
そのことを、南の離宮ではまだ誰も知りません。
マリーシア様も、陛下の御文が止められていることを知らない。
だから、陛下へ書けば届くと思っておられる。
実際、届くでしょう。ただし、素通りでは届かない。
「セレスタ夫人」
侍従長が立ち上がりました。
「側妃様より、陛下への御文です」
白い封筒を差し出すと、侍従長はまず封を見ました。
封蝋の流れ。書面の端のわずかな歪み。宛名の字。
全部を見た後、盆を出させました。
「お急ぎとのことですか」
「今、出すようにと」
「御様子は」
「ご自身が隔てられていることに、気づき始めておいでです」
侍従長は封筒から目を上げました。わたくしは続けました。
「女官が話を止めること。陛下への文が確認されること。王妃陛下への文が届かなかったこと。王太后陛下からのお招きが減ったこと。そうしたものを、一つずつ口になさいました」
「泣かれましたか」
「はい。ただ、今日は泣いたことを陛下に知らせたい、とおっしゃいました」
侍従長の手が、封筒の手前で止まりました。
その一言の重さは、彼にも分かったのでしょう。
――泣いたことを陛下に知らせたい。
それは甘えでは済まない。助けを求める形をした、訴えです。
そして陛下は、その訴えに弱い。
「封を開けます」
侍従長が言いました。
「はい」
陛下宛の文です。本来なら、重いことです。
けれど今、南の離宮から陛下へ向かう文は、そのまま感情の火種になります。読まずに渡す方が、かえって無責任です。
侍従長は小さな刃で封蝋の横を切りました。
破らない。乱さない。元の封をできるだけ残す。そういう開け方です。
書面を取り出した時、端に小さな水の跡がありました。涙でしょう。字にはかかっていない。
マリーシア様は、それを少し安心なさったようでした。
けれど、この書面を見る者には、涙の跡の方が先に見えます。
侍従長は黙って読みました。読み終えると、文をわたくしへ渡します。
――最近、王宮の皆様の御様子が少し変です。
――わたくしには何も教えていただけません。
――王妃様へのお見舞いも、公爵夫人から冷たいお返事が来ました。
――わたくしは、悪いことをしたのでしょうか。
――この子のことも、皆様あまり口にしてくださいません。
――わたくし達は、歓迎されているのでしょうか。
――陛下だけは、どうか本当のことを教えてくださいませ。
最後の、本当のこと、の字が太い。インクが濃く出ています。
涙の跡は、その少し下にありました。
よくできた訴えのように見えます。もちろん、マリーシア様が計算してそうしたのではありません。
けど、計算ではないからこそ、強いのです。
「止めれば、南の離宮は崩れます」
わたくしが言うと、侍従長は文をもう一度見ました。
「届けば、陛下が荒れます」
「はい」
「では、正式に届かせるしかありませんね」
「そう思います」
わたくし達は、同じ結論を前にしていました。
止めれば、側妃様は閉じ込められたと思う。届けば、陛下は側妃様を守るために動こうとする。
どちらも危ない。
ただ、止めた危うさは、南の離宮の中で膨らむ。届いた危うさは、王太后陛下の机の上に置ける。
今は、机の上に置ける方を選ぶしかない。
「写しを二部」
侍従長が書記官へ言いました。
「一部は王太后陛下へ。もう一部は侍従長室控え。原本は陛下へ」
「かしこまりました」
「封は」
「新しい封を添えて。元の封筒も一緒に」
わたくしは言いました。侍従長がこちらを見ます。
「涙の跡を見せるのですか」
「陛下は、見れば分かります。見せなくても、マリーシア様は書いたとおっしゃるでしょう」
「では隠す意味がない」
「はい」
隠せば、後で別の火になる。
陛下に涙を見せたいと望んだ文。その意図まで含めて、届ける。ただし、写しも残す。
それが、今の王宮の礼儀になっていました。
……嫌な礼儀です。
*
王太后陛下のお部屋へ写しを届けると、陛下はすぐに読まれました。
窓の薄絹は開いていました。朝より光が強い。
机の上には、別の手紙がいくつも並んでいます。王弟アレクシス殿下の件でしょう。
イルマ殿下の字もありました。ディート公爵の封蝋も見えました。
そこへ、白い封筒の写しが加わります。
王太后陛下は、最後まで読まれても、それを開いたまま、机に置かれました。
「あれは泣いたか」
「はい」
「この文は、陛下へ」
「原本を侍従長室よりお届けします」
「止めなかったのだな」
「止めれば、側妃様はさらに隔てられたとお感じになります」
「届ければ、陛下が騒ぐな」
「はい」
王太后陛下は、椅子の肘に手を置かれました。
指先が、少し強く沈みます。
「騒がせた方がよいのかもしれぬ」
静かな声でした。わたくしは返事をしませんでした。
この方は、もう母として息子の怒りを恐れているのではありません。
王として何を言うか、見ようとしておられる。
「側妃様は、ご自身が隔てられていることに気づき始めました」
わたくしは報告しました。
「ただ、その理由はご理解になっていません。守られているとは思っておられません。遠ざけられていると感じています」
「実際、遠ざけている」
「はい」
「御身を理由に」
「はい」
「腹の子を理由に」
「はい」
王太后陛下は、そこで文の最後の行を指で押さえました。
――陛下だけは、どうか本当のことを教えてくださいませ。
「本当のこと、か」
陛下はその言葉を、声には出されませんでしたが、唇だけが少し動きました。
「あれに本当のことを教えれば、何が起きると思う」
「マリーシア様は、まず泣かれるでしょう」
「その次は」
「陛下へ訴えます」
「その次は」
「陛下が、誰かを責めます」
王太后陛下は、わずかに頷かれました。その通りだ、と。
「では、本当のことはまだ言えぬ」
「はい」
「だが、何も知らせぬままでは、南の離宮が内側から割れる」
「はい」
「セレスタ」
「はい」
「そなたは、まだ保つか」
急にそう訊かれました。喉の奥が少し乾きました。
保つ。保たせる。保つしかない。
そういう返事なら、いくらでもできます。
けれど王太后陛下は、そういう返事を望んでおられない顔でした。
「半日ずつ、交代を入れてくださいませ」
わたくしは言いました。
「誰を」
「コリンナ様がいらっしゃる時間は、そちらへ一部お任せできます。女官長から年長の者を一人、南の離宮専属でなく、王太后府からの補佐として入れてください。側妃様には、監視ではなく、御身回りの負担軽減とお伝えします」
「分かった」
「それから、マリーシア様へは、何も知らせないのではなく、知らせる範囲を作った方がよろしゅうございます」
「何を知らせる」
「御身に関わる予定のみです。診察、礼拝欠席の理由、茶会を小さくする理由。陛下の御政務、王妃陛下の療養、国境、外務については扱わない」
「それで納得するか」
「納得はなさらないでしょう」
私は正直に答えました。
「ですが、何も知らされないよりはましです」
王太后陛下は、少しだけ目を閉じられました。それから、すぐ開けられます。
「それよりはまし」
「はい」
「今の王宮は、そればかりだな」
「はい」
手紙。控え。写し。封。
止めた手紙。届かせた手紙。残された言葉。
それらがなければ、誰も後で自分の発言を認めない。
それらがありすぎれば、人の気持ちは書面の端で切れていく。
「陛下が手紙を読まれたら、すぐこちらへお知らせを」
王太后陛下が言いました。
「侍従長へ伝えております」
「よい」
わたくしは一礼し、下がりました。
*
侍従長室へ戻る途中、廊下の角でコリンナ様に会いました。
レーヴェ本家の方。マリーシア様の父方の叔母。
この二月で、ずいぶんお疲れが見えるようになりました。衣装はきちんとしています。髪も乱れていません。けれど目元の色が濃い。
「セレスタ夫人」
「コリンナ様」
互いに礼をしました。コリンナ様の視線が、わたくしの手元へ落ちます。
もう封筒はありません。それでも、何かあったことはお分かりになるのでしょう。
「マリーシアが、また何か」
「陛下へ御文を」
コリンナ様は小さく息を吐きました。
「内容は」
「ご自身が隔てられていることへの不安です」
「そうですか」
彼女は手袋の指先を軽く押さえています。
「いずれ、そうなるとは思っていました」
「はい」
「あの子は、皆が自分を避けているとは感じるでしょう。ですが自分が何故避けられるのかまでは、わからない」
「はい」
「そして陛下に泣く」
「はい」
コリンナ様は、そこでようやく少しだけ苦い顔をしました。
「本家として、あの子をどこまで守るべきか、日々分からなくなります」
「御身と御子は、守られるべきです」
「ええ。それは分かっています。でも、あの子の言葉が、王妃陛下を傷つけるなら」
言葉が止まる。王宮の廊下で、これ以上は言えません。
わたくしも言いませんでした。
「今夜、少し長めにお側へお願いできますか」
わたくしが訊くと、コリンナ様はすぐ頷きました。
「参ります」
「側妃様は、黄色い封筒を望まれました。けれど白い封筒で御文を出されました」
「……そう」
「黄色いものを、何か一つ用意して差し上げてください。食べ物ではなく、身につけるものでもなく。部屋に置ける小さなものを」
コリンナ様は少し考えました。
「小さな絵皿なら。明るい花の絵のものがあります。香もなく、身につけるものでもありません」
「よろしいかと」
「分かりました」
それで涙が止まるわけではありません。王宮の流れが戻るわけでもありません。
ただ、白い封筒しか選べなかった方の部屋に、黄色いものが一つ増える。
それくらいしか、今夜の南の離宮へできることがありません。
*
原本は、その日の夕刻、陛下へ届けられました。
侍従長室からの正式な取り次ぎ。
写しあり。封の状態記録あり。涙の跡も、文書状態として控えに残りました。
嫌な言葉です。涙の跡を、文書状態と書く。
けれど、そう書くしかありません。
わたくしは侍従長室の隅で、控えの最後に署名しました。
――南の離宮より受領。
――側妃マリーシア様より、陛下宛。
――封蝋一部流れあり。
――文面下部に水濡れ跡一箇所。
――原本、陛下へ。
――写し、王太后府および侍従長室控え。
ペンを置くと、指が少しこわばっていました。わたくしは指先を伸ばします。
侍従長が、控えの書面に吸い取り紙を乗せ、外す。水濡れ跡、の字だけが少し濃く見えました。
扉の向こうで、侍従が陛下の執務室へ向かう足音がします。
走ってはいません。けれど、遅くもありません。
南の離宮では、マリーシア様が返事を待っているはずです。陛下がすぐ来てくださると思っているかもしれません。
王太后陛下の机には、写しがもう置かれています。
白い封筒は、ようやく陛下へ向かいました。
それは救いの文ではなく、ただまた、王宮の机に増えただけのものでした。




