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「側妃を迎える。準備は王妃府で」そう告げた王は、二ヶ月後、王座を失いました。  作者: さんけい


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55/67

55 側妃マリーシア――何か変ですわ

 ……最近、南の離宮の廊下が静かです。


 前から静かだったのかもしれません。でも、今の静けさは少し違います。

 女官達は走りません。それは前からセレスタ夫人が何度も注意していました。

 歩きなさい。声を落として。扉の前で立ち話をしない。

 そう言われて、皆、きちんと歩きます。

 でも今は、歩くだけではありません。

 わたくしが部屋から出ようとすると、廊下の先で話していた女官が、話をやめます。

 茶器を運ぶ侍女は、盆を少し高く持ち直します。侍従は、こちらを見ないようにして礼をします。

 見ないようにする方が、見られている気がするのだと、最近知りました。


「セレスタ夫人」


 私は窓辺の椅子で、膝掛けの端を指で撫でていました。

 外は明るい。南の離宮の庭には、黄色い花が少し増えました。

 香りの強いものは駄目だと言われたので、花方が選んだものです。思っていたより小さくて、少し寂しい花。


「はい、マリーシア様」

「最近、何か変ではありません?」


 セレスタ夫人は、私の横の文机にあった手紙をそろえていました。彼女は手を止めません。

 手紙をそろえ、端を合わせ、封のないものと封じたものを分けます。


「何か、とは」

「皆ですわ」


 私は少し身を乗り出しました。そうすると、セレスタ夫人の視線がすぐ私のお腹へ来ます。

 またです。


「気分は悪くありません」

「それならようございました」

「そうではなくて。皆が、前よりも静かなのです。わたくしが近づくと、話をやめるでしょう?」

「側妃様に失礼のないよう、控えているのでしょう」

「それなら前からです」


 セレスタ夫人は、書面の上に吸い取り紙を置きました。

 何か書いていたのでしょうか。私は文机の方を見ました。

 そこには、わたくしが王妃様へ書いた文への返事が置かれています。公爵夫人からのものです。


 ――王妃陛下は医師の指示により、王宮に関わる文書を拝読できる状態にはございません。

 ――したがって、御文は王妃陛下にはお見せしておりません。


 その言葉を読んだ時、私はしばらく何も言えませんでした。

 お見舞いだったのに。王妃様には見せてもらえなかった。

 それだけでも悲しかったのに、最後の一行がもっと冷たかったのです。


 ――王妃陛下の療養は、王宮の不足を補うための猶予ではございません。


 わたくしは、王宮の不足を補ってほしいなんて書いたつもりはありません。

 ただ、戻ってくださったら、教えていただきたいと……

 皆が安心するのではないかと……

 そう思っただけです。


「セレスタ夫人」

「はい」

「公爵夫人は、わたくしのことをお嫌いなのかしら」


 手紙をそろえる音が止まりました。


「公爵夫人は、王妃陛下の御療養を守っておいでです」

「嫌いではない、とは言ってくださいませんのね」

「お会いになった回数も少のうございます」

「でも、あの文は冷たいですわ」


 言ってから、目が熱くなりました。

 泣きたいわけではありません。けれど、思い出すだけで胸が詰まります。


「わたくし、王妃様にお戻りくださいと書いたのは、悪いことだったの?」


 セレスタ夫人は、今度はすぐに答えませんでした。答えない時は、たいてい、私にとって良くないことです。


「王妃陛下は、御療養中でいらっしゃいます」

「それは知っています」

「御帰還については、医師、公爵家、王太后陛下の御判断がございます」

「わたくしは命じたのではありません」

「はい」

「ただ、お見舞いに書いただけです」

「はい」

「なのに、まるでわたくしが王妃様を無理に連れ戻そうとしたみたい」


 声が少し震えました。私はお腹に手を当てました。

 最近、こうすると落ち着くこともあります。落ち着かないこともあります。

 今日は、落ち着きません。


「この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います、と書いたのです。それもいけませんの?」


 セレスタ夫人の顔が、少しだけ硬くなりました。


「まだ御子はお生まれではございません」

「分かっています」

「公の御披露、洗礼、名付けなどは、順に」

「また順ですわ」


 私は膝掛けを握りました。柔らかい布が、指の中で寄ります。


「皆、最近そればかり。順。医師。王太后陛下。公爵家。外務。儀典。陛下も前よりお忙しいし、いらしてもすぐお帰りになる日が増えました。わたくしへのお文も、前より遅いの」

「陛下には、御政務がございます」

「前からありましたわ」

「このところ、使節対応、国境伯からの報告、春祭礼の後始末などが」

「それを、なぜわたくしには教えてくださらないの?」


 セレスタ夫人は口を閉じました。

 ほら。またです。


「わたくし、側妃ですわよね」

「はい」

「陛下の御子を宿しているのですよね」

「はい」

「なのに、王宮のことを何も知らない。茶会のことも、夫人達のことも、王妃様のことも、使節のことも、国境伯のことも。皆が何かを知っていて、わたくしだけが知らないみたい」


 口にすると、それは本当にそうなのではないかと思えました。

 廊下が静か。女官が話をやめる。セレスタ夫人が紙をすぐ片付ける。

 コリンナ叔母様が最近、私に会う前にセレスタ夫人と長く話す。

 陛下がいらしても、少し疲れている。

 そして、王太后陛下からのお招きが減った。

 前は、体調がよければ礼拝へ、茶へ、と言われていました。今は、御身を大切に、とばかり。


「わたくし、何か外されているのではありません?」


 セレスタ夫人は、ようやく書面から手を離しました。

 こちらへ向き直ります。そして、ゆっくり膝を折りました。

 その丁寧さが、嫌でした。丁寧な時ほど、遠く感じます。


「マリーシア様。今は、御身を第一にお考えくださいませ」

「それは答えではありません」

「御身と御子をお守りすることが、何より大切でございます」

「守ると言って、何も知らせないの?」

「不安になることを、わざわざお耳へ入れる必要はございません」

「不安になることがあるのですね」


 言ってから、自分でも少し怖くなりました。

 セレスタ夫人の顔は変わりません。でも、変わらなさすぎます。


「王宮では、日々さまざまなことがございます」

「そういう言い方、嫌いです」


 私は立ち上がろうとしました。セレスタ夫人がすぐ手を伸ばします。


「急にお立ちにならないでくださいませ」

「座ってばかりいられません」

「マリーシア様」

「陛下に会います」


 言うと、セレスタ夫人の手が、ほんの少し止まりました。

 やっぱり。止めたいのです。


「陛下は、ただいま御政務中で」

「いつまで?」

「本日は、王太后陛下との御面会が」

「王太后陛下と?」

「はい」

「何のお話?」

「そこまでは」

「知らないの? それとも言えないの?」


 セレスタ夫人は答えません。

 私は椅子の肘をつかみました。立ち上がるつもりだったのに、お腹が少し重くて、すぐには動けません。

 それも嫌でした。自分の身体まで、私を椅子に縫いつけているようです。


「陛下へ手紙を書きます」


 私は言いました。


「文机を」


 セレスタ夫人は止めません。それも嫌でした。

 止められると思ったのに、すぐに女官へ目配せします。書面とペン、インク壺、吸い取り紙が用意されます。

 私はペンを取りました。


 ――陛下。

 ――最近、王宮の皆様の御様子が少し変です。

 ――わたくしには何も教えていただけません。

 ――王妃様へのお見舞いも、公爵夫人から冷たいお返事が来ました。

 ――わたくしは、悪いことをしたのでしょうか。


 そこまで書いて、手が止まりました。


 ――悪いことをしたのでしょうか。


 本当に知りたい。でも、陛下が「違う」と言ってくださるのも分かっています。


 ――違う。そなたは悪くない。


 そう言ってほしい。私は続きを書きました。


 ――この子のことも、皆様あまり口にしてくださいません。

 ――わたくし達は、歓迎されているのでしょうか。

 ――陛下だけは、どうか本当のことを教えてくださいませ。


 インクが少し濃く出ました。


 ――本当のこと。


 その字が太く見えます。セレスタ夫人が、吸い取り紙を差し出しました。

 私はそれを取らず、彼女を見ました。


「これは、陛下へ届きますわよね」

「侍従長室を通して、陛下へ」

「その途中で、誰かが読むの?」

「陛下へお取り次ぎする文は、必要に応じて確認されます」

「誰が」

「侍従長室でございます」

「……前は、そんなこと」

「以前から必要な確認はございました」

「――嘘」


 声が小さく出ました。セレスタ夫人の顔が、少しだけ痛そうになりました。

 初めて、そう見えました。


「嘘ではございません」

「でも、今は違う。今は、皆がわたくしの言葉を見ています。陛下へ届く前に。王妃様へは届かなかった。陛下へも、届く前に見られる。わたくし、側妃なのに」


 涙が落ちました。書面の端に一滴。字にはかかりませんでした。

 よかったのか、悪かったのか分かりません。

 セレスタ夫人が、すぐに新しい吸い取り紙を取ります。


「そのままでは滲みます」

「滲めばいいのです」

「マリーシア様」

「泣いたことも、陛下に分かるでしょう」


 セレスタ夫人の手が止まりました。今度は、私も目をそらしませんでした。

 分かっていました。今の言葉は、よくない。

 でも、泣いたことを陛下に知らせたい。そう思ったのです。

 本当に泣いているのです。嘘ではありません。


「その文は、少しお時間を置いてから」

「今、出します」

「お気持ちが高ぶっておられます」

「高ぶっていない文だけが、正しいのですか」


 セレスタ夫人は、ゆっくり吸い取り書面を机に置きました。


「正しいかどうかではございません。後で、御自身がつらくならないように」

「《《今が》》つらいのです」


 私は紙を折ろうとしました。

 インクはまだ乾ききっていません。端が少し汚れました。

 セレスタ夫人も今度は止めません。ただ、封筒を差し出しました。

 淡い黄色ではなく、白い封筒でした。


「黄色いものはないの?」


 自分でも、なぜ今それを言ったのか分かりません。

 セレスタ夫人は、少しだけ目を伏せました。


「本日は、こちらを」

「黄色がいいわ」

「では、用意させます」

「……もういい!」


 私は白い封筒を取りました。手紙を入れる。封をする。

 封蝋を垂らす手が少し震えました。蝋が丸くならず、端が流れました。

 それも嫌でした。


「これを、陛下へ」

「かしこまりました」


 セレスタ夫人は封書を受け取りました。すぐに女官へ渡さず、自分の手に持ったままです。


「今、持って行って」

「侍従長室へ届けます」

「セレスタ夫人が?」

「はい」

「その前に読むの?」


 セレスタ夫人は、今度ははっきり言いました。


「必要があれば」


 ――必要。


 その言葉が、胸に刺さりました。

 私は椅子に戻りました。膝掛けが床に半分落ちています。

 誰かが拾おうとしましたが、私は手で止めました。


「……もういいです」


 セレスタ夫人は封書を持って部屋を出ました。

 扉が閉まる。廊下で、声はしません。

 静かです。やはり、南の離宮は静かすぎます。

 私はお腹に手を当てました。


「大丈夫よ」


 小さく言いました。

 誰に言ったのか、自分でも分かりません。

 子供にか。自分にか。それとも、陛下に届くはずの文にか。

 窓の外では、小さな黄色い花が風に揺れていました。



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