53 前王弟妃イルマ――見えてしまった方にだけ
その言葉の後、部屋の中に少しだけ別の静けさが生まれました。
――フレイアが戻らなくても。
その可能性を、王宮側が口にしたのです。
お兄様は何も言いませんでした。ただ、机の上に置かれたマリーシア殿の手紙を見ていました。
「では」
私は扇を膝の上に置きました。
「次に、王の問題です」
王太后陛下の表情が険しくなりました。
母の顔ではありません。王太后の顔です。
「陛下は、王妃を戻せば済むとお考えです」
私が言うと、誰も否定しませんでした。
「側妃殿を守りたい。腹の子を明るい知らせとして扱いたい。王宮の穴は王妃が戻れば塞がる。夫人方も王命で呼べば来る。国境の遅れは命じれば処理される。外交は、外務府が少し難しく考えすぎている」
言葉を並べるほど、部屋の中の空気が重くなります。
ですが、並べねばなりません。散らしたままでは、また誰かが一つずつ処理してしまう。
「一つずつなら、まだ叱れます。止められます。文を直せます。席を動かせます。香を変えられます。ですが、全部の根が同じなら」
私は、王太后陛下を見ました。
「王を替えねばなりません」
宰相が目を伏せました。侍従長は動きません。儀典長の指が椅子の背で少し白くなりました。フェリクス殿は、外務府控えを膝の上で握っています。
アレクシス殿下は、地図を見ていました。逃げ道を探しているようには見えません。
ただ、地図から目を離せないのです。
「兄上を、退位させるということですね」
アレクシス殿下が言いました。
「はい」
私は答えました。
「殿下を立てるということでもあります」
殿下は、目を上げました。
「私は、王位を望んだことはありません」
「存じています」
「兄上を退けたいとも、思ったことはありません」
「存じています」
「では、なぜ」
その問いは、私へ向けられたものではないのでしょう。それでも、私は答えました。
「望んでいた者なら、この場には呼びませんでした」
殿下の表情が、少し動きました。
「王冠を欲しがる者に、この王宮の痩せたところは見えません。地図の上の遅れも、薬棚の底も、王妃の粥半椀も、見えません」
私は静かに扇を開きました。
「《《見えてしまった方》》にしか、頼めないのです」
アレクシス殿下は、すくには返事をしませんでした。簡単にできる話ではありません。
それでよいのです。
「王太后陛下」
私は向き直りました。
「退位を進めるなら、出産前です」
王太后陛下の目が、こちらへ来ました。
「理由は」
「側妃殿の腹の子に罪はありません」
「もちろんだ」
「だからこそ、旗にならないようにすべきです」
部屋の中で、誰かの呼吸が少し深くなりました。
「生まれてからでは、洗礼、名付け、王子か王女か、認知、継承、側妃母子を担ぐ者。すべてが絡みます。男児であれば、なおさらです。陛下は必ず、その子を盾にします」
「私の子だ、と」
王太后陛下が言いました。
「はい。世継ぎかもしれない、とも」
「まだ生まれていない」
「だからです」
私は扇を閉じました。
「まだ生まれていないから、王位継承線に載る前に整理できます。《《前王の子として》》保護することはできる。扶持も与えられる。身分も、王家の名誉を損なわぬ範囲で整えられる。ですが、《《現王の御子として》》王子登録を待つ形にしてはなりません」
アレクシス殿下の顔が少し曇りました。
優しい方です。胎の子のことを思ったのでしょう。それは、悪いことではありません。
「その子を罰するのではありません」
私は殿下へ向けて言いました。
「その子に、大人達の旗を持たせないためです」
殿下は、ゆっくり頷きました。
「分かります」
重たい声です。分かりたくないことを、分かってしまった時のものでした。
「マリーシア殿は、泣くでしょう」
宰相が言いました。
「泣きます」
私は即答しました。
「陛下も怒るでしょう」
「怒ります」
「公爵家は」
そこで宰相は、お兄様を見ました。お兄様は静かに返しました。
「フレイアを巻き込まぬなら、王家の処理に口は挟まない。だが、フレイアの名を使うなら、即座に動く」
「国境伯は」
「返書で察します」
私が答えました。
「ただし、正式な退位の道筋が出るまでは、彼を前へ出さない方がよいでしょう。国境が動いたように見えると、話が大きくなりすぎます」
「外務府は」
フェリクス殿が、すぐに言いました。
「ルブラン公国へは、内政上の安定措置として、発表後に整えた文を出します。発表前に漏れれば、公国側は山道税の交渉で様子を見ます」
「漏らさないことですね」
「はい」
王太后陛下は、一枚ずつ書面を見、最後に、マリーシア殿の文を取られます。
――この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います。
その行に、陛下の指が触れました。
「この子は、まだ何も知らぬ」
「はい」
「その子のためにも、急がねばならぬのだな」
「はい」
王太后陛下は手紙を置き、アレクシス殿下を見ました。
「アレクシス」
「はい」
「そなたに、重いものを渡すことになる」
「母上」
殿下は一度、そう呼びました。王太后陛下の目が少しだけ揺れます。
それでも、殿下は続けました。
「私は、兄上を退けるために王都へ戻ったのではありません」
「分かっている」
「ですが、国境で地図を見ました。見てしまいました」
その一言で、もう充分でした。
殿下は、王冠を見たのではない。地図を見たのです。
赤い印と、青い印と、黒い印。遅れた返書。空に近い薬棚。先に切り出された橋の材木。
「王都へ戻れば、話を聞くだけで済ませるつもりでした」
殿下は言いました。
「けれど、戻す場所が王妃陛下の背中なら、それはできません」
ディートお兄様が、初めてアレクシス殿下をまっすぐ見ました。
「その言葉を、覚えておきます」
「はい」
殿下は頭を下げました。公爵へ、王弟が。
奇妙な礼だったかもしれません。ですが、この場では、それが正しいのです。
「では」
私は、王太后陛下へ向き直りました。
「まず、陛下へ退位の可能性を告げる前に、道を固めましょう」
宰相が紙を取りました。今度は書くためです。
「手順を」
「一つ目。王妃陛下への接触禁止を明文化。二つ目。側妃マリーシア殿の公的儀礼出席を、出産まで御身を理由に大幅に制限。三つ目。王弟殿下を王太后陛下の相談役として王宮中枢に置く。四つ目。修道院・施療院・外務・儀典の分散案を、王太后府名で準備」
私は紙の上に置かれているものを、順に動かします。
「五つ目。王に、王妃を戻す命令を出させない。六つ目。側妃の出産前に、王位継承についての内議を終える」
宰相のペンが、そこで止まりました。
「退位勧告は」
「最後です」
私は言いました。
「最後にしなければ、陛下は子を盾にします。側妃を盾にします。王妃を戻せば済む、とまた言います。その前に、戻す場所をなくしておく」
王太后陛下が深く息を吐かれました。
疲れた息ではありません。決めた後のものです。
「イルマ」
「はい」
「そなたは、私のそばに」
「もちろんでございます」
「兄を呼びつけた形にはしたくないが」
王太后陛下は、ディートお兄様を見ました。お兄様は短く答えました。
「私は既に呼ばれております。形式は後で整えればよろしい」
「助かる」
「娘を守るためです」
まっすぐな返事でした。それでいい。
皆、それぞれの持ち場を守るためにここにいるのです。
王太后は王家を。公爵は娘を。宰相は国政を。儀典長は礼を。外務官は外を。国境伯は国境を。
アレクシス殿下は、まだ自分の持ち場を持っていません。
だからこそ、次の王冠がその人の前へ置かれているのです。
ですがまだ、誰も、その言葉をまだ口にしません。
机の上の地図だけが、広げられたまま残っていました。




