52 前王弟妃イルマ――迂回路を止めてはいけない
王太后陛下のお部屋に入った時、机の上には書類が並んでいました。多すぎます。
けれど、どれも余計ではありませんでした。
――側妃マリーシア殿の文。
――公爵夫人からの返答。
――ディートお兄様から陛下への抗議文。
――ルブラン公国使節に関する外務府の控え。
――国境伯エルンスト卿からの文。
――王弟アレクシス殿下が国境伯領で見た地図の写し。
それらが、一枚ずつ、机の上に置かれている。
書面がこれほど穏やかに、人を追い詰めることもあるのですね。
「イルマ」
王太后陛下が私を見ました。
陛下のお顔は、先日お会いした時よりも少し細くなっていました。お疲れなのでしょう。けれど、背筋は伸びています。
この方は、王の母です。
そして今は、母でいることをやめようとしている。そんな顔つきでした。
「お呼びにより参りました」
私は礼を取りました。
部屋には、王太后陛下、ディートお兄様、宰相、侍従長、儀典長、外務官フェリクス殿。少し遅れて、アレクシス殿下が入ってこられました。
巡察帰りの疲れが残っています。上着は王宮用に替えておられましたが、袖口の近くに、馬車の長旅の折り目がまだありました。王位を欲しがる男の装いではありません。
ですが、そこがよいのです。欲しがる者なら、この場には置けません。
「皆、揃いましたね」
王太后陛下が言いました。
その声で、宰相が書類を整えました。侍従長は扉の側に立ち、儀典長は椅子の背に手を置いています。フェリクス殿は、外務府控えを閉じたまま膝の上に置いていました。
誰も大きな声を出しません。その静けさが、もう普通ではないのです。
私は机の前に進み、まずマリーシア殿の手紙を取り、読みました。
すでに写しで読んでいましたが、ここでもう一度、声に出さず目で追いました。
――王妃様がお戻りになりましたら、茶会のこと、礼拝のこと、夫人方とのおつきあいのことなど、ぜひ教えていただきとうございます。
――陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました。
――この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います。
私は手紙を置きました。丸い字です。悪意はひとかけらもありません。
……そこが、もっと悪いのです。
「これは、側妃殿を責める話ではありません」
私が言うと、ディートお兄様の目がこちらへ来ました。
怒っていらっしゃる。当然です。
けれど、お兄様は何もおっしゃいませんでした。
「側妃殿は、おそらく本当にお見舞いのつもりで書いたのでしょう。自分が困っている。陛下も困っている。王妃陛下が戻れば、皆が助かる。そう思った。そう思えるだけの言葉を、陛下から受け取った」
そこで、王太后陛下の指が机の端に触れました。音はしません。
「問題はそこです」
私は続けました。
「側妃殿が幼いことではありません。王が、療養中の王妃を戻せば王宮が落ち着く、と側妃に語ったことです」
宰相が、わずかに目を伏せました。フェリクス殿は動きませんでした。
外務の人間は、こういう時、気取られないようにするのが上手いのです。
「そしてこれは、エルヴィスを叱る話ではありません」
私は、あえて名を出しました。王太后陛下の長男。私にとっても、甥。
小さい頃には、私の膝に乗って木馬の話をした子です。
だが、今日は違います。
「王を止める話です」
誰一人も息を飲む者はいませんでした。もう、そこまで来ているのです。驚く者がいないほどに。
私は次に、ディートお兄様の文を取りました。最後の一行。
――王妃陛下は、王宮の欠損を埋めるための備品ではありません。
「お兄様」
「何だ」
「この言葉を、陛下は侮辱と受け取るでしょう」
「受け取ればよい」
短い返事でした。
兄の声は低い。怒鳴らない。怒鳴らないからこそ、厄介なのです。
「私は娘を返さない。医師の診断も、公爵家の判断も変わらない。王妃の務め、側妃の指南、茶会、礼拝、寄付、外交。どれを理由にされても同じだ」
「承知しています」
「フレイアは、今朝、焼き林檎をやっと半分食べた」
その言葉に、部屋の空気がほんの少し変わりました。
宰相が顔を上げました。儀典長も。
アレクシス殿下は、机の上の書面からお兄様へ視線を移しました。
焼き林檎を半分。王宮の報告なら、数字にもならないでしょう。
けれど今の公爵家では、それが何より大事なことなのです。
「その娘へ、王宮が落ち着くから戻れ、と言える者がこの中にいるか」
お兄様は、ただ言っただけです。何も睨みつけたりはしていません。
ですが誰も答えませんでした。答える必要もありません。
反対する者など、元より誰もいないのです。
「公爵」
王太后陛下が言いました。
「私は王太后として、王妃を戻すことはしない」
「そのお言葉を、文にていただきたい」
「出そう」
「感謝いたします」
お兄様は深く頭を下げました。
そして私はアレクシス殿下へ目を向けました。
「アレクシス殿下。国境で何を見ましたか」
殿下は、少しだけ手元の書面を押さえました。国境伯家で写させた地図です。
「遅れです」
「何の」
「王都の返書。街道警備費の確認。修道院への薬草支援。どれも、王妃府が止まったことで遅れたものです」
「それだけですか」
「いいえ」
殿下は、地図を机の中央へ移しました。
赤い印。青い印。黒い印。王宮の書面とは違う色です。
この地図の上には、国があります。
「国境伯は、王都を待たずに橋の材木を切り出しました。薬草も領内から先に出しました。修道院は、王都便を待たずに支援を受けた。これは、王都への反抗ではありません。王都が遅れても国境を止めないための迂回路です」
――迂回路。
よい言葉です。逃げ道ではない。裏切りでもない。
本来の道が詰まった時に、人と物を止めないための道。
「その迂回路を、王宮はどう扱うべきですか」
私が訊くと、殿下はすぐには答えませんでした。言葉を選んでいるのではなく、責任の重さを持ち上げている顔でした。
「潰してはなりません」
やがて、殿下は言いました。
「王妃陛下が戻れば元に戻る、ではいけません。王妃府に全部戻せば、また同じことが起きます」
ディートお兄様が、ほんの少しだけ目を伏せました。今の言葉は、公爵家にとっても必要なものでしょう。
――フレイアを戻さない。
それだけでは足りません。次の誰かを、また同じ場所へ立たせてはいけないのです。
「では、どうするおつもりです」
宰相が訊ねます。アレクシス殿下は、彼を見ました。
「修道院、施療院、孤児院への支援は、王妃府単独で持たせない。宰相府、王太后府、夫人方の代表、地方からの必要量を合わせる形にする。王妃府は顔と最終調整を担うが、全責任を負わない」
宰相は、膝の上の書面に手を置きました。
書き留めたいのでしょうが、今は書きません。ただ、言葉を聞いています。
「外務の個人事情、贈答、喪、色、紋様は、外務府にも正式控えを置く。儀典の席次も、王妃府の赤い書き込みに頼らず、儀典長の記録として残す。国境や地方の支援は、秋のうちに必要量を上げ、王都が春に迷わないようにする」
フェリクス殿が、ここで初めて口を開きました。
「外務府としても、その仕組みは必要です。今回、ルブラン公国への贈答は、赤い布と双鳥の菓子が入る寸前でした。止められたのは、去年の王妃府控えがあったからです。今年の更新がないままでは、次は止められません」
儀典長も続きました。
「儀典も同じです。王妃席、側妃席、王太后陛下の席、夫人方の配置。これまで王妃府の控えに頼りすぎておりました。記録として、儀典側に残すべきです」
宰相は、少し息を吐きました。
「寄付配分についても、宰相府が全て握るのは無理があります。王妃府が担っていた細かな人間関係は、こちらには見えません。夫人方の代表を入れる方が現実的でしょう」
王太后陛下は、しばらく黙って聞いていました。そして、ゆっくり頷かれます。
「よい。王妃府を空にするのではない。王妃府だけで支えぬ形にする」
「はい」
アレクシス殿下の返事は静かでした。
「王妃陛下が戻られても、戻られなくても、同じ仕組みで動くようにします」




