51 王弟アレクシス――地図の上の遅れは待ってくれない
西部巡察の帰り道、私は王都へ入る前に馬車を北へ向かわせた。
北東国境伯エルンスト卿からの文は、前日の夕刻に届いていた。文面は短い。
――街道警備、国境修道院支援、王都返書遅延の件につき、地図と現物をもって説明したい。
――王太后陛下へも、同じ件を報告済み。
最後の一行がなければ、王都へ戻ってから宰相府に聞けば済むと思ったかもしれない。
だが、母上の名がある。いや、今は王太后陛下と呼ぶべきか。
――王都へ戻る前に、見ておけ。
あれはそういう意味だった。
*
エルンスト卿は、王都郊外にある国境伯家の別邸で待っていた。
別邸というより、国境から運んだ書類と地図を一時置くための館である。玄関の装飾は少なく、馬車置き場の横には、泥のついた荷車が二台並んでいた。王都の貴族屋敷にはあまり似合わないものだ。
私はそれを見て、少しだけ息をついた。王宮へ入る前に来てよかった。
王宮へ入れば、絨毯、扉、礼、先触れ、席、言葉。そういうものに囲まれる。ここには、泥のついた車輪がある。
「王弟殿下」
エルンスト卿は玄関ではなく、奥の広い作業部屋で待っていた。
礼は正しい。ただ、部屋の中央に広げた地図を片付ける気はないらしい。
よい。片付けられたら困る。
「急に寄らせてもらった」
「お立ち寄りいただき、感謝いたします」
「王都へ入る前に見るべきものだと書いてあった」
「そのつもりで書きました」
正直な男だ。兄上の前なら、もう少し包むだろう。私の前でも包んでよいのに、包まなかった。
それだけ急いでいるのだ。
部屋には副官が一人、修道士が一人、それから会計係らしき男がいた。机の上には地図、帳面、薬草の袋、木箱、折れ目のついた返書が並んでいる。
華やかなものは一つもない。けれど、国が動く音がした。
「まず、こちらを」
エルンスト卿が地図の上を指した。北東の街道。
王都の者は、たぶん一本の線として見る。
だが、実際には川があり、橋があり、雪解けで崩れる崖があり、修道院があり、宿場があり、国境の小さな砦がある。
地図には、赤、青、黒の印がつけられていた。
「赤は橋か」
「はい。補修が必要な橋です。青は春先に警備を増やす場所。黒は、先月商隊が馬を失った場所です」
「事故か」
「半分は。半分は、盗賊の下見でしょう」
エルンスト卿は淡々と言った。
「王都へ街道警備費の増額を求めたのが、三月初め。例年なら十日で返書が来ます。今年は、確認が宰相府、財務卿、王妃府旧控え、王太后府と回りました」
「王妃府旧控え」
「王妃陛下が療養中のため、新しい確認ができません」
その言葉は、もう何度も聞いている。
――王妃陛下御療養中。
兄上の妻、フレイア王妃。王宮で静かに働いている方、という印象しかなかった。
私が王都に長くいないせいもある。
儀礼の場では何度も会った。挨拶をすれば、過不足のない返事が返った。
目立たない。だが、ここにある地図の上では、その目立たない王妃の不在が赤い印になっている。
「返書は、どれほど遅れた」
「五日です」
「王都なら、小さな遅れに見える」
「国境では、小さくありません」
エルンスト卿は、橋の赤い印に指先を置く。
「この橋は、王都の返書を待たずに材木を切り出しました。許可は昨日届きました。材木は三日前に山を下りています」
「事後許可か」
「《《現地判断》》です」
その言い方に、反抗の色はなかった。ただ、必要なことをしただけ。
「王都が遅れたために?」
「王都を待っていれば、商隊の道が一つ減りました」
答えは短い。だが、その後ろに人と馬と荷が見える。
橋が落ちれば、商隊は迂回する。迂回すれば、宿場の収入が減る。
護衛が足りない道を通る者が出る。修道院への荷も遅れる。
その一つ一つを、王宮の会議室で誰が見るのか?
今までは、誰かが見ていたのだろう。少なくとも、王妃府から来る控えには、修道院への薬草支援の時期まで書かれていたという。
「こちらもご覧ください」
今度は、修道士が一歩前へ出た。年配の男だった。手には小さな木箱を持っている。
蓋を開けると、中には乾いた薬草が少しだけ残っていた。
「国境修道院の薬棚です。本来なら、春先に王都から支援が届きます。今年は遅れましたので、国境伯家の薬草園から先に分けていただきました」
「王都からは」
「来ることになっております」
修道士は、そこで一度だけ目を伏せた。
「ただ、王妃府からの例年の目録が来ませんでしたので、どの薬草がどれだけ届くか、こちらでは分かりませんでした」
私は木箱の中を見た。薬草は少ない。底が見えている。
こういうものは、空になってから足せばよいというものではない。空になる前に届くから、薬棚として働く。
「去年は」
私が訊くと、修道士は胸元から書面を取り出した。
古い控えだ。
丁寧に畳まれ、端が少し柔らかくなっている。
「王妃府より、雪解け後に届くよう調整する、と一行ございました。王都の春と、北東の春は違いますので」
王都の春と、北東の春は違う。当たり前のことだ。
だが、王都にいると忘れる。王宮の花が咲けば、国中が春になったような気になる。
王妃は、忘れなかったらしい。
「これを、王妃陛下が?」
「おそらく。王妃府の赤い書き込みでした」
赤い書き込み。その言葉も、最近よく聞く。
儀典長からも。外務府からも。今、国境修道院からも。
赤い字は、王宮の机の上だけにあったのではない。街道の雪解けにも届いていた。
私は木箱を閉じる。軽い音がした。
「王都へは、次から秋のうちに必要量を上げるようにします」
エルンスト卿が言った。
「王妃府を通さずにか」
「王妃府にも写しは送ります。宰相府、王太后府にも。ですが、王妃府からの確認を待って春を迎える形は、やめます」
――やめる。
その言葉は、強い。けれど、正しい。
「王都を外すのではありません」
エルンスト卿は続けた。
「王都が遅れても、国境が倒れぬようにするだけです」
私は地図を見た。赤い印。青い印。黒い印。迂回路。補修済みの橋。先に出した薬草。
これは王都への反抗ではない。王都が倒れた時に、国を倒さないための支えだ。
その支えを、兄上はどう見るだろう。
勝手に動いた、と見るか。なぜ確認を待たない、と怒るか。王都を軽んじた、と言うか。
たぶん全部言う。兄上は、そういう方だ。
悪い方ではない。人好きがする。笑えば人が寄る。気前もよい。
だが、目の前にないものを、軽く見る。
目の前で泣く女は抱き寄せる。目の前にない橋は、返書が五日遅れても橋のままだと思う。
目の前にいない王妃は、戻せば働くと思う。
「王弟殿下」
エルンスト卿の声で、私は地図から目を上げた。
「これは、王都の内輪の話ではありません」
「分かっている」
言ってから、自分でも驚いた。
――分かっている。
今、そう《《言えた》》。
この部屋に入る前は、まだ分かっていなかった。
王妃陛下の療養、側妃の入宮、王宮の茶会、夫人達の欠席。どれも王都の中の話だと思っていた。
だが、薬棚の木箱は軽い。橋の材木は三日前に山を下りた。公国使節は、王宮内の乱れを読んだ。
公爵家は、王妃を戻さない。国境伯は、王都を待たない道を作り始めた。
《《これは内輪ではない》》。
「迂回路を作ったのだな」
私が言うと、エルンスト卿は少しだけ目を細めた。
「はい」
「王都への反抗ではなく」
「王都を待って国境を危うくしないためです」
「なら、その迂回路は潰してはならない」
口にした瞬間、部屋の中の者が一斉にこちらを見た。
エルンスト卿も。副官も。修道士も。会計係も。
私は続けた。
「王都に戻したい者は、必ず出る。すべて中央で確認しろ、と。勝手に動くな、と。だが、今作られた迂回路を潰せば、同じことがまた起こる。王妃府に戻すのも違う」
――王妃府に戻すのも違う。
その言葉は、少し重かった。
「王妃陛下が戻られれば」
ロイド副官が、つい口にしたように言った。すぐに頭を下げる。
「失礼いたしました」
「いや、よい」
私は地図の端を押さえた。
「兄上は、おそらくそう考えている。王妃陛下が戻れば、王宮は戻ると」
エルンスト卿は黙っている。公爵家と近い男だ。言いたいことはあるだろう。
だが、ここで言えば、王弟に王を非難したことになる。
だから言わない。私が代わりに言った。
「戻してはならない。少なくとも、今の形へ戻してはならない」
修道士が、胸の前で手を組んだ。祈りの形に近い。
エルンスト卿は、ようやく口を開いた。
「では、殿下はどうお考えになりますか」
逃げられない問いだった。私は王になる気などない。
兄上には子がないとされていたが、側妃マリーシアの腹には子がいるという。その子が生まれる。
男児かもしれない。女児かもしれない。
王の子として名付けられれば、継承の話はさらに複雑になる。
それまで待つのか?
待てば、側妃の子を旗にする者が出る。待たなければ、兄上を退かせる話になる。
どちらも重い。
だが、地図の上の遅れは待ってくれない。
「王妃府の仕事を、王妃府だけに戻してはならない」
私は言った。言いながら、考えが形になっていく。
「修道院、施療院の支援は、宰相府、王太后府、夫人代表、地方からの必要量を合わせる形にする。王妃府は顔と最終調整でよい。全責任を持たせない」
エルンスト卿は、机の端に置いていた紙を一枚引き寄せた。書き留めるつもりだ。
「外務の個人事情は、外務府にも正式写しを置く。儀典の席次も、王妃府の赤い字だけに頼らず、儀典長の記録にする。国境や地方の支援は、秋のうちに必要量を上げる制度に変える」
口に出してしまえば、当たり前のことに思えた。
なぜ今までそうなっていなかったのか。たぶん、王妃ができてしまったからだ。
できる者がいると、人はそこへ任せる。任せて、任せて、任せ続ける。倒れるまで。
「王妃陛下が戻られても、戻られなくても、同じ仕組みで動くようにする」
私は最後にそう言った。そこまで言うと、部屋の中が静かになった。
誰もすぐには返事をしなかった。エルンスト卿が、ゆっくり頭を下げた。
「そのお考えを、王太后陛下へ」
「言う」
「王都で」
「王都で」
私は手を地図から離した。指先に、書面のざらつきが残った。
*
国境伯家の別邸を出る頃、王都からの使いが来た。王太后陛下からだった。
封書は小さい。だが、王太后府の印がある。
馬車の前で受け取り、その場で開いた。
――王都へ戻り次第、私のもとへ。
――イルマ殿下、ディート公爵と同席の上、話すべきことがあります。
――兄王の件です。
――兄王。
母上は、《《兄上》》ではなく、《《兄王》》と書いた。
家族の話ではない。王の話だ。私は封書を折り、懐へ入れた。
馬車の扉に手をかける前に、もう一度別邸を見た。
玄関の脇に、薬草の木箱が積まれている。明日、修道院へ出る荷だ。
王都からの正式な便を待たずに動く荷。国を倒さないための、細い迂回路。
*
私は馬車に乗った。車輪が動く。王都の塔が、遠くに見えた。
あの塔の中に、兄上がいる。南の離宮には、側妃がいる。
公爵家には、王妃がいる。
王妃は戻してはならない。迂回路は潰してはならない。
――では、誰が中央に立つのか。
馬車が王都へ向かって進む。
地図のざらつきが、まだ指先に残っていた。




