50 北東国境伯エルンスト――橋が壊れれば迂回路を作る
王都からの返書は、いつもより五日遅れて届いた。
――五日。
王都の者には、ただの五日かもしれぬ。だが北東の峠では、五日あれば雪解け水が道を削る。馬車一台が谷へ落ちる。盗賊が宿場を一つ変える。国境修道院の薬棚が空になる。
私は封書を受け取り、まず封蝋を見た。
宰相府。その下に、王太后府の小さな添え印。
――珍しい。
宰相府の返書に、王太后府の確認がつくなど、普通ではない。
この時、執務机の上には、北街道の地図を広げていた。赤い印が三つ。橋の補修が必要な場所。青い印が二つ。雪解け後に警備を増やす場所。黒い印が一つ。先月、商隊が馬を一頭失った場所。
私は封を切った。
宰相府の文は、いつもより硬い。
――街道警備費の増額を認める。
――国境修道院への春の薬草支援は、王妃府旧控えに基づき、今年も維持する。
――遅延については、王妃陛下御療養中につき一部確認に時間を要したが、以後、国境関連の急務は宰相府および王太后府にて直接扱う。
――王太后府。
そこを、私は指で押さえた。王妃府ではない。王太后府。
王妃府が使えぬと、王都は認めたのだ。
認めた上で、王太后が印を押した。
「旦那様」
副官のロイドが、机の向こうで立っている。彼は封書を持ってきたまま、下がらなかった。
文面を読め、と言わずとも、私の顔つきで何かを察したのだろう。
「街道費は出る」
「それは助かります」
「薬草支援も維持」
「国境修道院が喜びます。昨日、院長から三度目の使いが来ました」
「三度目か」
「はい。最初の使いは、王都へ直接問い合わせたいと言っておりました。止めましたが」
「止めてよい」
国境修道院が王都へ直接文を出せば、王都の机がまた一つ埋まる。いや、もう埋まっているか。
王妃府が閉じたくらいで、薬草支援の確認が五日遅れる。王都の机は、だいぶ具合が悪い。
「王太后府の印がある」
私が言うと、ロイドの顔が少し引き締まった。
「王太后陛下が直接?」
「少なくとも、確認している」
「王妃陛下ではなく」
「王妃陛下は療養中だ」
その言葉を口にするのは、これで何度目か。
――王妃陛下御療養中。
最初は、気の毒なことだと思った。
次に、王都の茶会や礼拝の話だと思った。
その後、施療院の薬代、修道院の麦、外務府の贈答、街道警備費の遅延へ繋がった。
今は、国境の地図の上にその言葉が乗っている。
「ディート公爵からは」
ロイドが訊いた。
「今朝、私信が来た」
私は机の引き出しから、別の封書を出した。公爵家の封蝋。こちらは王都の宰相府より早く届いた。
ディート公爵の文は短い。
――娘は療養中。
――王宮関連の文書は通していない。
――王妃の帰還を王宮側が急がせる気配あり。
――国境に関わる王都の遅滞については、王太后陛下にも届くよう処置した。
最後に一行。
――国境は、王都の体面より先に守られたし。
彼らしい。飾らない。そして、重い。
「公爵は、王宮と揉めているのですか?」
ロイドは声を落とした。
「揉めている、で済めばよいがな」
私は公爵家の文を畳み直した。
「公爵は、王妃陛下を戻す気がない」
「当然では」
「王は、戻せば王宮が落ち着くと思っているらしい」
ロイドの眉が、はっきり動いた。珍しい。彼は戦場の報告でも顔を変えない男だ。
「療養中の王妃陛下を?」
「そうだ」
「何のために……!」
「王宮を落ち着かせるために」
ロイドは黙る。その沈黙だけで充分だった。
国境の者には、分かりやすい。
壊れかけた橋を、渡れなくて困るからといって馬車道へ戻す者はいない。まず支える。直す。その間、迂回路を作る。
橋そのものを責めても仕方がない。
「……王都は」
ロイドが言った。
「橋を倉庫の扉くらいに思っているのですか?」
「王だけかもしれぬ」
「それが一番困ります」
「そうだ」
――王だけ。それが一番困る。
宰相府は気づいている。王太后府も動いた。外務府も何かを止めたらしい。
公爵家は娘を守っている。
高位夫人達は王宮を通さず施療院や修道院へ物を回し始めた。
皆、迂回路を作っている。
……王だけが、橋を戻せばよいと言っている。
「街道警備費は、こちらで先に出していた分を補填する形にする」
私は宰相府の文をロイドへ渡した。
「会計へ」
「はい」
「ただし、次から王都の承認を待たず、雪解け後の警備は現地判断で増やす。事後報告でよい」
「宰相府が何か言えば」
「王太后府の印つきで、国境関連の急務は直接扱うと来た。こちらも直接扱う」
ロイドは少しだけ口元を動かした。笑いではない。承知した時の顔だ。
「国境修道院へは」
「薬草支援は来ると伝えろ。ただし、王都便を待たず、領内薬草園から先に出す。足りない分は秋の税から差し引く」
「よろしいのですか」
「子供の熱は、秋の税まで待てない」
「その通りです」
ロイドは書面を受け取り、出ていこうとする。ふと私は呼び止めた。
「アレクシス殿下は、今どこだ」
「西部巡察の帰途と聞いております。三日後には王都へ」
「北東へ寄る予定は」
「ございません」
「では、こちらから手紙を出す。王都へ戻る前に、もし一日取れるなら、国境伯邸へ寄っていただきたい、と」
ロイドの目が、今度はゆっくり上がった。
「王弟殿下へ、ですか」
「そうだ」
「名目は」
「街道警備と国境修道院支援の報告」
「本題は」
「王都へ戻れば分かることだ。先に地図を見せる」
アレクシス殿下は、王位を望む方ではない。
何度か国境へ来られたことがある。派手ではない。馬に長く乗っても文句を言わず、宿場の粥を食べ、橋の補修を見て職人に礼を言う方だった。
《《王になれそうな顔》》ではない。だが、《《国を保たせる器》》である。
「旦那様」
ロイドが言った。
「……それは、かなり踏み込むことになります」
「分かっている」
「王都では、もうそこまで話が進んでいると?」
「進んでいなければ、進める者が要る」
ロイドは深く頭を下げる。もう何も言わなかった。
*
午後、国境修道院の院長が来た。
年老いた修道士で、雪道を歩くような体ではない。だが、今日は馬車で来たらしい。外套の裾に泥はなく、代わりに膝のあたりに毛布の跡がついていた。
「国境伯閣下」
彼は礼を取った後、すぐに顔を上げた。
「薬草支援の件で」
「来る」
私が言うと、院長の肩が少し下がった。だが、安心しきった顔ではない。
「いつ頃でしょう」
「王都からは十日ほどかかる。その前に、こちらの薬草園から先に出す。明日には荷を作らせる」
「それは、ありがたいことです」
「王都便は、届き次第そちらへ」
「王妃陛下の御配分なのでしょうか」
その質問には、少し間が必要だった。
「今年は、王妃府の旧控えに基づき、宰相府と王太后府が確認した」
「王妃陛下は」
「療養中だ」
「そうですか」
院長は、手にした帽子を少し握った。
「去年、王妃陛下から、北東の春は王都より遅いでしょう、とお言葉をいただきました」
「直接か」
「いいえ。文でございます。薬草支援の目録に、一行だけ。王都の春に合わせず、雪解け後に届くよう調整する、と」
私は机の上の地図を見た。
北東の春は遅い。王都の者は、知っていても忘れる。
王妃陛下は忘れなかった。
「今年は遅れた」
「はい」
院長は責めなかった。責められない立場だと知っているのだ。
だが、遅れたことは事実である。
「来年は、こちらから秋のうちに王都へ出す」
私は言った。
「雪解けを待たず、必要量を国境伯家から上げる。王妃府が動けるかどうかに関わらず、控えを残す」
院長は静かに頭を下げた。
「ありがたく」
「ただし、王都へも写しを出す。王宮を外すのではない。遅らせないためだ」
「承知しております」
――承知。
院長はそう言った。
国境ではもう、王都を待たずに動く準備が始まる。それは反逆ではない。備えだ。
そして、備えが増える時、中心の信用は減っている。
*
夕方、私はアレクシス殿下への手紙を書いた。文面は短く。
――西部巡察より王都へお戻りの途上、一日だけ北東国境伯領へお立ち寄り願いたい。
――街道警備、国境修道院支援、王都返書遅延の件につき、地図と現物をもって御説明申し上げたく。
――王太后陛下へも、同じ件を報告済み。
最後の一行で、用件の重さは分かる。アレクシス殿下なら読みとる。そして来るか来ないかを決める。
来なければ、その程度。来れば、王都へ戻る前に何を見るべきか分かっている方だ。
吸い取り紙を乗せて外す。インクはまだ少し光っていた。
私は待った。急いで封をすれば、内側に字が写る。
王都は今、そのような書面ばかり抱えているのだろう。
乾く前に重ねられた書面。宛先を間違えた書面。戻された書面。誰かが読む前に、誰かが疲れてしまう書面。
私は窓の外を見た。北東の空は、王都より暗くなるのが早い。
砦の上に、夕方の旗が下りていく。その下で、兵が二人、橋の補修用の材木を運んでいた。王都の返書を待たずに切り出した材木だ。
宰相府の許可は、今日届いた。材木は、三日前に山を下りている。
それでよい。国境は待たない。
封蝋を垂らし、印を押す。
蝋が固まるまで、私は指を離さなかった。




