49 王太后――王を止める道
公爵家からの文は、三通あった。
一通は、ディート公爵から陛下へ。一通は、公爵夫人から側妃マリーシアへ。
そしてもう一通は、私へ送られた写しである。
朝の礼拝前、侍従長が銀盆に載せて持ってきた。
封蝋は公爵家のもの。書面は厚い。香はない。
公爵家は、こちらが何を嫌うかではなく、フレイアに何を近づけてはならぬかを見ている。
「公爵家より、至急とのことです」
侍従長はそう言って、盆を差し出した。
――至急。
ディート公爵がその言葉を使う時は、急がねばならぬだけの理由がある。
私は封を切った。
最初に出てきたのは、側妃マリーシアの文の写しだった。
丸い字。ところどころ、大きさの揃わない文字。
お見舞いの文である。形は。
私は読み進めた。
――王宮では、皆様が王妃様の御快癒を祈っております。
――わたくしも、側妃として少しずつ王宮のことを覚えております。
――王妃様がお戻りになりましたら、茶会のこと、礼拝のこと、夫人方とのおつきあいのことなど、ぜひ教えていただきとうございます。
――陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました。
――わたくしも、そう思います。
――どうか早くお元気になって、王宮へお戻りくださいませ。
――この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います。
私はそこで書面を置いた。
礼拝前の部屋は、まだ静かだった。窓の外では、朝の光が庭の端にかかっている。女官が薄絹の掛かった窓を開けようとして、私の手元を見て止まった。
「そのままでよい」
女官は頭を下げた。薄絹が窓に残り、光が少し和らぐ。
私は次の書面を取った。公爵夫人から、側妃マリーシア殿への返答の写し。
――王妃陛下は医師の指示により、現在、王宮に関わる文書を拝読できる状態にはございません。
――御文は王妃陛下にはお見せしておりません。
――王妃陛下の御帰還、王宮の御務め、側妃様への御指南等につきましては、療養中の御身に触れるべき事柄ではございません。
――今後は、そのような内容の御文はお控えくださいませ。
そして最後。
――王妃陛下の療養は、王宮の不足を補うためのものではございません。
公爵夫人の字は美しい。美しいまま、刃がこもっている。
私はその手紙も置いた。
最後に、ディート公爵から陛下への文の写しを開く。そこには、事実だけが並んでいた。
――側妃マリーシア殿より、王妃陛下宛に文が届いたこと。
――医師の指示により、王妃には見せていないこと。
――今後、王妃宛の文、見舞い、王宮関連報告は、公爵家当主である自分がすべて確認すること。
――王妃の療養を妨げる内容は通さないこと。
――王妃の帰還について、医師の診断なく語ることを控えるよう求めること。
――側妃教育、王宮運営、茶会、礼拝、寄付、外交その他一切を理由に、王妃の療養を短縮することは認めないこと。
最後に一行。
――王妃陛下は、王宮の欠損を埋めるための備品ではありません。
備品。その字だけが、書面の上で濃く見えた。ディート公爵が、あえてこの言葉を使ったのだ。
私は手紙を机の上に並べた。
マリーシアのお見舞い。公爵夫人の返答。ディート公爵の抗議。
三枚。
薄い書面三枚で、王宮の床が一段下がったように感じた。
「侍従長」
「はい」
「陛下は、この文を読まれたか」
「公爵家より陛下宛の原本は、先ほど陛下の執務室へ届けられております」
「反応は」
「まだ、こちらには」
――まだ。
じきに来るだろう。怒りとして。
侮辱だと。誰が備品などと言った、と。
陛下は、きっとそう言う。
だが、公爵は「言った」とは書いていない。扱いを見ているだけだ。
――王妃が戻れば王宮が落ち着く。
その言葉を、側妃に言わせるほどの扱いを。
「……一体、陛下は、南の離宮で何を話したのだ」
侍従長は答えなかった。
知らぬからではない。想像がつくからだ。
セレスタからの報告にも、昨夜の御成りがあったと書かれていた。側妃マリーシアが王妃の帰還について言及し、陛下が否定なさらなかった、と。
セレスタは、そこまでしか書かなかった。
だが、公爵家へ届いた文で、足りなかった部分が埋まった。
――陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました。
私は手元のベルを鳴らした。入ってきた女官へ告げる。
「宰相、儀典長、外務官フェリクスを呼びなさい。それから侍従長、そなたは残れ」
「かしこまりました」
「イルマ殿下へも使いを。至急、私のもとへ」
侍従長の目が、そこで少しだけ上がる。私は彼を見た。
「何か」
「いいえ」
「言いなさい」
「イルマ殿下をお呼びするということは、内廷の件としては扱わない、ということでよろしいでしょうか」
「そうだ」
言葉にすると、部屋の空気が少し変わった。
「これはもう、側妃の文の問題ではない。王妃の療養だけでもない」
机の上の三枚の書面を見た。
「王が、《《王妃を戻して王宮の穴を塞がせる》》と言った。それが公爵家へ届いたということだ」
侍従長は深く頭を下げた。その沈黙が、同意だった。
*
宰相は書類を抱えて来た。儀典長は春祭礼の目録を持っていた。フェリクス外務官は、ルブラン公国使節の控えを手にしていた。
皆、何かを持っている。この二月、王宮の者は手ぶらで歩かなくなった。
書面を持ち、控えを持ち、写しを持ち、証拠を持つ。口で言っても、もう足りないからだ。
私は三枚の写しを、机の上に置いたままにした。
「読みなさい」
最初に手を伸ばしたのは宰相だった。彼は一枚目を読み、二枚目へ進み、三枚目の最後で指を止めた。
――備品。
声には出さなかった。
儀典長は、マリーシアの文の途中で目を伏せた。
――茶会、礼拝、夫人方とのおつきあい。
彼にとっては、自分の机の上の苦労が、そのまま王妃への依頼として書かれているようなものだろう。
フェリクスは、陛下も戻れば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました、の行で息を止めた。
王が、側妃と子を明るい知らせとして出そうとする。外務官が遮る。王は怒る。その奥にある考えが、この文で形になった。
「意見を」
私は言った。最初に口を開いたのは宰相だった。
「公爵家は、王妃陛下の御帰還を当面認めません」
「当面か」
「医師の診断とありますが、この文面では、王宮側が帰還を求める限り、診断は厳しく出るでしょう」
「当然だ」
私は答えた。娘を守る父なら、そうする。
「王宮運営については」
宰相は抱えていた書面を机に置いた。
「宰相府で一部引き取っておりますが、寄付配分、施療院、修道院、夫人方の私的寄付については、すでに《《王宮を通らない流れ》》ができています。こちらから強く集約を求めれば、さらに反発を招きます」
「反発という形では来ないな」
「はい。礼状の写しだけが来ます」
それが反発である。見えぬ者には分からない。
「儀典長」
「はい」
「春祭礼後、夫人方の出席は」
「王太后陛下主催の礼拝には戻りつつあります。側妃様主催、または南の離宮に関わる茶会は、出席が薄いままです」
「陛下の名で招いた時は来た」
「はい。来られました。礼を尽くし、茶を飲み、帰られました。その後、修道院へ」
私はうなずいた。
王命で席へは座らせられるが、心は座らせられない。
「フェリクス」
「はい」
「ルブラン公国使節は、何を見た」
フェリクスは、手元の控えを開いた。
「公的には、贈答、会食、祈り、すべて滞りなく終わりました。灰青の布と弔意の文は評価されたと思われます」
「私的には」
彼のペンを持つ指が、一度だけ書面に触れた。
「王妃陛下御不在。側妃様御懐妊の気配。陛下がそれに触れかけ、外務府が遮ったこと。王太后陛下と儀典長、外務府が補っていること。王宮内に意思統一の乱れがあることは、読まれたかと」
――隣国に読まれた。内廷の乱れが。
私は椅子の肘に手を置いた。
「国境伯からの文は」
宰相が別の書面を出した。来ていたのだ。やはり。
「昨日届きました。北東国境伯エルンスト卿より。王都からの返書遅延、春の街道警備費の確認が二度戻された件、国境修道院への王妃府経由寄付が止まった件について」
「読み上げなさい」
宰相は書面を開いた。
――王都よりの返書、例年より遅延。
――街道警備費増額の判断、宰相府、財務卿、王妃府旧控えの間で照会が往復。
――国境修道院へ例年届く春の薬草支援が本年未着。
――王妃陛下御療養中との報は承知。
――ただし、王都の諸判断に遅滞が見られる場合、国境側は現地判断を優先する。
――現地判断を優先する。
硬い文である。怒鳴ってはいない。だが、国境伯はこう言っている。《《王都を待てない》》、と。
「国境伯は、公爵家と縁があったな」
「はい。ディート公爵とは、先代より軍務と街道整備で関わりがございます。夫人同士も王妃陛下の寄付配分で近い関係に」
王以外は知っている。そう思った。
公爵家。国境伯。高位夫人達。
施療院。修道院。
外務府。儀典長。宰相府。侍従長。
皆、それぞれ別の場所で同じものを見ている。
――王妃陛下御療養中。
――王妃府停止。
――王が側妃を明るい知らせとして出したがる。
――困れば王妃を戻せばよいと考える。
その危険を、《《王以外はもう知っている》》。
「陛下は、この国境伯の文を読まれたか」
「まだです」
宰相の返答は小さかった。
「読ませるな、とは言わない」
私は言った。
「だが、読ませる前に、こちらで道を作る」
儀典長が、わずかに顔を上げた。フェリクスも。
「道、でございますか」
宰相が訊いた。
「王を叱る道ではない」
私は机の上の三枚を揃えた。
マリーシアの文を一番上へ。その下に公爵夫人。最後にディート公爵。
「《《王を止める道》》だ」
部屋の中に、誰の息も大きくは聞こえなかった。ただ、窓の薄絹が、わずかに揺れた。
「王太后陛下」
侍従長が口を開いた。
「それは、御退位の話を含む、ということでしょうか」
言葉が出た。
――退位。
誰も驚かなかった。驚くふりもしなかった。
この部屋の者は、そこまで見ていたのだ。言わなかっただけで。
「含む」
私は答えた。
「ただし、今すぐその言葉を陛下へ投げつけることはしない。まず、イルマ殿下を呼ぶ。ディート公爵へ返書を出す。国境伯へは、王太后名で受領と確認中の返答を。宰相、街道警備費は止めるな。王妃府の旧控えを待つな」
「かしこまりました」
「儀典長、当面の公的儀礼で側妃マリーシアを前に出すな。御身を理由に休ませる。王妃席は空位のまま」
「はい」
「フェリクス、公国への正式報告は穏当に。ただし私的に読まれたことは、こちらでも記録する。外務府控えを王太后府へ」
「承知しました」
「侍従長」
「はい」
「南の離宮から陛下への文は止めるな。ただし、陛下から公爵家へ出る文は、すべて私へ上げる」
「陛下が直接お命じになった場合は」
「その時は、私が止める」
侍従長は頭を下げた。
「承知いたしました」
私は最後に、マリーシアの文をもう一度見た。
――この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います。
その子が生まれれば、話はさらに難しくなる。
洗礼。名付け。王子か王女か。継承。側妃母子を担ぐ者。
陛下は、待てばよいと思っているかもしれない。世継ぎが生まれれば、皆が納得すると。
違う。待てないのだ。
生まれる前に整理せねばならぬ。
腹の子に罪はない。だからこそ、罪のない子を旗にされる前に、王家から一線を引く。
「王弟アレクシスは、今どこに」
宰相の顔が、少し強張った。
「西部巡察より、三日後に王都へ戻られる予定です」
「戻り次第、私のもとへ」
「はい」
――王弟。
その名を出すと、部屋の中の書類が一枚増えたような重さがあった。
アレクシス――私の下の息子は、王位を望んでいない。身軽な、そして国務に忠実な子だ。
だがそこがよい。望んでいたなら、ここでは使えぬ。
「この件は、今この部屋の者だけで扱う」
私は言った。
「ただし、ディート公爵とイルマ殿下には、隠さない」
「国境伯は」
フェリクスが訊いた。
「今は知らせない。だが、次の手紙で察するだろう」
エルンスト国境伯なら、私の返書の硬さで読む。いや、読ませる。
だが、直接の文言はまだ置かない。王家の内側で、最初の一線を引く。外へ漏れる前に。
*
皆が下がった後、私は一人で机の前に残った。
礼拝の時刻は過ぎている。女官が扉の外で待っている気配があったが、入っては来ない。
私はディート公爵への返書を書いた。
――側妃マリーシアより王妃陛下宛の御文につき、写しを受領した。
――王妃陛下にお見せしなかった御判断、王太后として妥当と認める。
――王妃陛下の御療養を、王宮の都合により妨げることはしない。
――今後、王宮より王妃陛下へ向かう文、見舞い、報告につきましては、王太后府でも確認する。
そこまで書いて、ペンを止め、最後に一行足した。
――王妃陛下を戻してはならぬこと、こちらでもようやく承知できる。
――ようやく。
その言葉を入れるか、少し迷ったが、結局入れた。
遅れたのは事実である。
吸い取り紙を乗せ、外すと、ようやく、の字だけ少し濃く写っていた。
私は書面を折り、封をする。封蝋が固まるまで、手を離さず待った。
窓の薄絹の向こうで、朝の光はもう強くなっていた。




