48 ディート公爵――側妃からの手紙への返事
公爵家の朝は、王宮より少し遅い。少しだけだ。
だが、その少しが今のフレイアには要る。
王宮では、夜明け前から女官の足音があり、湯の用意があり、礼拝のための装いがあり、昨日の続きの書類があった。
公爵家では、窓掛けを開ける時刻を医師が決めている。朝の光が強ければ、薄絹を一枚残す。湯は温かすぎないものを、枕元ではなく隣室に置く。香は焚かない。
今朝、フレイアは粥を半椀食べた。
半椀。それだけで、妻は少し泣きそうな顔をした。
泣きはしなかった。泣けばフレイアが謝るからだ。
娘は、まだ謝る。粥を残しても謝る。昼に眠っても謝る。
医師の前で言葉に詰まっても、すみません、と言う。
そのたびに妻は、
「謝ることではありません」
と返す。
日に何度も。何度も。
その朝食の後、私は執務室で領地からの報告を読んでいた。
王宮から来る書面は、いまは別に分けている。
王妃宛。公爵宛。王太后陛下より。侍従長より。宰相府より。王妃府旧件。
それぞれ箱を分け、鍵をかけ、フレイアの目に入らぬようにしている。
療養とは、寝台に横にならせることではない。心を王宮から引き離すことだ。
そのために、どれだけ書面を止めねばならないか、王は知らぬ。
「旦那様」
家令が入ってきた。銀盆に封書が一通載っている。
封蝋は王宮のものではない。南の離宮の側妃付きで使う簡略印。
「誰宛だ」
「王妃陛下宛でございます」
家令の声は平板だった。あえてそうしようとしている。よく訓練されている男だ。
「差出人は」
「側妃マリーシア様」
窓の外で、庭師が枝を落とす音がした。ぱきり、と乾いた音。
私は銀盆の上の封書を見た。
淡い花柄の書面。香がついている。ごく薄くはあるが、ついている。
この家の者は、フレイアの部屋へ香のついた書面を入れない。医師から止められている。
「奥へは通していないな」
「はい。受け取りの時点で、こちらへ」
「よろしい」
私は封書を取った。
軽い。書面一枚か、二枚。
軽いものほど、時に扱いが難しい。
ペーパーナイフで封を切る。中の書面にも、同じ香があった。
丸い字。力は強くない。
だが、ところどころ、言葉の頭だけがやけに大きい。
私は読み始めた。
――王妃フレイア様。
――ご療養はいかがでいらっしゃいますか。
――王宮では、皆様が王妃様の御快癒を祈っております。
――わたくしも、側妃として少しずつ王宮のことを覚えております。
――けれど、まだ分からないことばかりで、セレスタ夫人や叔母から教えていただいております。
――王妃様がお戻りになりましたら、茶会のこと、礼拝のこと、夫人方とのおつきあいのことなど、ぜひ教えていただきとうございます。
――陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました。
――わたくしも、そう思います。
――どうか早くお元気になって、王宮へお戻りくださいませ。
――この子も、王妃様にお目にかかれる日を楽しみにしていると思います。
最後に、マリーシア、と署名があった。
側妃、とは書いていない。親しみのつもりなのだろう。
私は書面を机の上に置いた。香が残る。部屋の中に、薄く甘い匂いが広がった。
「妻を呼んでくれ」
家令へ言うと、彼は一礼して下がった。
私はその間、文をもう一度読む。
一度目は、内容を読んだ。二度目は、順を読んだ。
――見舞い。
――自分の王宮での不慣れ。
――教えてほしい。
――陛下も戻れば落ち着くとおっしゃった。
――早く戻って。
――この子も楽しみに。
見事なまでに、悪意がない!
悪意がないまま、こちらの娘を寝台から起こし、王宮へ連れ戻し、自分の教師にし、王宮の穴埋めにしようとしているとは!
妻が入ってきた。朝の薄い灰色のドレスだった。襟元には飾りがない。フレイアの部屋へ行く時は、金具の音がしない服を選んでいる。
「何かありましたか」
「側妃からだ」
吐き捨てるように言うと、妻の足が止まった。
私は手紙を差し出す。妻は受け取る前に、一度だけ封書を見た。香に気づいたのだろう。眉が動いた。
「……香つきの書面を、療養中の王妃へ?」
「読め」
妻は書面を受け取り、立ったまま読んだ。
一行目。二行目。
読み進めるにつれ、口元がひくひくと動くのがわかる。
最後まで読み、もう一度、途中へ戻る。
――陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くとおっしゃっておりました。
そこだろう。妻の指が、その行の少し上で止まった。
「……馬鹿なのですか」
低い声だった。王を罵った時より、さらに低い。
「どちらが、とは訊かないでおく」
「両方です」
妻は書面を机の上へ置いた。置いたというより、書面が机に触れた瞬間、指を離した。
「この文を、フレイアに読ませるつもりで?!」
「こちらで止めた」
「当たり前です!」
妻は立ったまま、机の上の文を見下ろしている。
「お見舞いの形をしていますね」
「している」
「形だけです」
「中身は召喚状だ」
「いいえ」
妻はすぐに言った。
「中身は使用願いです」
私は少し黙る。そう、その言い方の方が正確だった。
――王妃様を戻してください。
――茶会を教えてください。
――礼拝を教えてください。
――夫人方との付き合いを教えてください。
――王宮を落ち着かせてください。
――陛下を困らせないでください。
――わたくしを助けてください。
――この子に会ってください。
療養中の女へ向けた言葉ではない。道具へ向けた言葉である。
「陛下も、王妃様が戻られれば王宮が落ち着くと」
妻がその行を、声に出して読み、途中で止まる。
それ以上、声にしたくなかったのだろう。
「やはり陛下は、そうお考えなのですね」
「そのようだ」
「フレイアが戻れば、王宮が落ち着く。戻れば、側妃の茶会も、夫人方も、礼拝も、寄付も、外交も、全部元に戻る」
「おそらく」
「それを、あの娘にも言った」
妻は書面を指で強く押さえる。書面の端が少し沈んだ。
「言ったから、この文が来たのでしょう!」
「そうだろう」
「側妃が勝手に思いついたのではありませんね。陛下が、そういう空気を与えた――」
そこが問題だった。
側妃マリーシア一人なら、幼い。無知。善意。そう切ることもできる。
だが、この文には王の言葉が入っている。
――陛下も、戻れば王宮が落ち着くと。
それを側妃が書いてよいと思うほど、王は南の離宮でその話をした。
「……フレイアに見せなくてよかった」
妻の声は、少し震えていた。
「見せたら、あの子はどうしたと思いますか」
「まず読む」
「ええ。読むでしょう」
「茶会、礼拝、夫人方、と頭の中で並べる」
「ええ」
「自分が戻れば、セレスタ夫人が休めるのか、と考える」
「そうですわ」
「側妃の子の洗礼まで考えるかもしれない」
妻はああ、と目を閉じた。だが長くはない。すぐに開ける。
「そして、自分がまだ半椀の粥で精一杯だということを、後回しにするんですわ!」
私は机の上の文を見た。
軽い書面。丸い字。薄い香。
これ一枚で、娘の眠りが数日戻るかもしれなかった。
こういう時の怒りは音を立ててやっては来ない。私の中で何かが熱くなるが、なかなか声にはならなかった。
「……返事を出す」
やがて私は言った。
「どなたへですの?」
「まず王太后陛下へ写しを。原本は保管する。側妃へは、公爵家からの返答として、王妃は医師の指示により文を読めない、と」
「それだけですか?」
妻の声が鋭い。
「それだけではない」
私は別の書面を取った。
「陛下へも出す」
「陛下へ?」
「側妃から王妃宛に、このような文が届いた。医師の指示により王妃には見せていない。今後、王妃陛下への文、見舞い、王宮関連報告は、公爵家当主である私がすべて確認する。王妃の療養を妨げる内容は通さない」
「当然です」
「さらに」
ペンを取り、インクをつける。
少し多すぎたので、壺の縁で落とした。
「王妃陛下の御帰還については、医師の診断なく語ることを控えられたい。側妃教育、王宮運営、茶会、礼拝、寄付、外交その他一切を理由に、王妃の療養を短縮することは認めない」
妻が、ようやく椅子に座る。座ったが、背はしゃんと伸びていた。
「もっと柔らかく書くおつもり?」
「柔らかく書く」
「中身は」
「柔らかくしない」
「結構」
妻はマリーシアの手紙をもう一度見た。
「側妃への返事は、わたくしが書いても?」
「任せる」
「公爵夫人として。王妃の母としてではなく」
「いや」
私は妻を見た。
「両方でよい」
妻の目がこちらに来た。
「これは、母として怒ってよい文だ」
妻の口元が、少しだけ動く。
笑いではない。ようやくやってやれる、というものだった。
「では、書きます」
妻は文机へ移る。侍女を呼ばず、自分で紙を取った。
ペンを手にするが、すぐには書かない。怒りのまま書けば、手紙は刃物になる。
刃物は、必要な時まで鞘に入れておく方がよい。
「香つきの書面は、今後受け取りの段階で別に致しましょう」
妻が書き始める前に言った。
「フレイアの部屋へは近づけません」
「家令へ命じる」
「それと、南の離宮からの文は、すべてこちらへ。側妃様個人からであっても、です」
「すでにそうしている」
「なら、さらに厳しく!」
「分かった」
妻はペンを置いたまま、少しだけ指を揉んだ。
そして書き始めた。
――側妃マリーシア様。
――王妃陛下へのお見舞いの御文、確かに公爵家にて受け取りました。
――王妃陛下は医師の指示により、現在、王宮に関わる文書を拝読できる状態にはございません。
――したがって、御文は王妃陛下にはお見せしておりません。
――御心遣いのみ、公爵家にて承ります。
妻の字は美しい。だが、今日は少し硬い。
私は黙って見ていた。妻は続ける。
――また、王妃陛下の御帰還、王宮の御務め、側妃様への御指南等につきましては、療養中の御身に触れるべき事柄ではございません。
――今後は、そのような内容の御文はお控えくださいませ。
――側妃様におかれましては、まず御自身と御子の御身を大切になさいますよう。
そこで妻は止めた。少し考え、最後に一行を足した。
――王妃陛下の療養は、王宮の不足を補うためのものではございません。
私はその一行を見た。
「強いな」
「削りますか」
「いや」
私は首を振った。
「残せ」
妻は吸い取り紙を取り、文の上に置き、少し待って外す。
最後の一行だけ、インクが濃く見えた。
「陛下への文は?」
「私が書く」
私は自分の書面へ向かう。
書くべきことは多い。だが、長すぎる文は逃げ道を作る。
短く。事実を並べる。
――側妃から王妃宛に文が来たこと。
――王妃には見せていないこと。
――医師の指示。
――今後の文書管理。
――王妃帰還について軽々に語らぬこと。
――王妃療養を、王宮運営の都合で縮めぬこと。
そして最後に、私は一行を書いた。
――王妃陛下は、王宮の欠損を埋めるための備品ではありません。
書いてから、少し見た。
備品。強すぎるか? ――いや。今は強い言葉が要る。
妻が横からのぞき、目を伏せた。
「それは、残してください」
「そうする」
吸い取り紙を乗せる。外す。備品、の字だけが少し太くなった。
*
昼過ぎ、フレイアの部屋へ行った。
文のことは、言わない。妻も私も、そう決めていた。
フレイアは長椅子に座っていた。
膝には薄い掛け布。リーナが窓辺の花を替えている。香りのない白い花だ。
王宮の王妃席に置かれているものと似ているかもしれない、と思ったが、口には出さなかった。
「お父様」
フレイアが顔を上げる。声は少し戻ってきた。
以前より細いが、初日のように途切れない。
「調子はどうだ」
「午前は、少し起きていられました」
「そうか」
「お母様が、焼き林檎を少し」
「食べられたか」
「二切れ」
リーナが、窓辺で小さくうなずいた。
二切れ。
これも、今の公爵家では報告に値する。
「庭の白い花が、そろそろ終わりだそうです」
フレイアが言った。
「次は何を置く?」
「香りのないものを、リーナが選んでくれます」
「自分では選ばないのか」
訊いてから、少し後悔した。フレイアは目を伏せた。
「まだ、選ぶのは少し疲れます」
「そうか」
「でも、見ているのは好きです」
それでよい。
選ばなくてよい。決めなくてよい。見ているだけでよい。
そう言おうとして、言葉を飲んだ。強く言いすぎると、また謝る。
「では、見るだけにしておきなさい」
「はい」
フレイアは小さくうなずいた。その動きも、少しゆっくりだった。
机の上には、今朝の粥の器が下げられた後の小さな盆が残っていた。
空の器。半椀食べた証拠。
王宮から来た文より、ずっと大事なものだ。
「今日は、王宮から何か」
フレイアが言いかけた。リーナの手が、花瓶の横で止まった。
妻がいたら、すぐに止めただろう。私は少しだけ間を置いた。
「急ぎはない」
嘘ではない。急ぎはない。急がせない。
こちらで急がせないことにした。
「そうですか」
フレイアは息を吐いた。ほっとしたのか、少し寂しいのか、まだ分からない。
だが、それでよい。分からないものを無理に決める必要はない。
「焼き林檎をもう一切れ食べるか」
私は訊く。フレイアは少し考えた。
その顔は、茶会の席順を考える顔ではなかった。
皿の上の林檎を、もう一切れ食べられるかどうかを考えている顔だった。
「半分なら」
「半分に切らせよう」
リーナがすぐに動く。私は長椅子の横の椅子に座った。
フレイアは窓辺の花を見ている。王宮から来た香つきの手紙は、鍵のかかる箱の中にある。
今は、それでよい。
白い花の横で、リーナが焼き林檎の皿を受け取った。
小さな銀の匙が、皿の縁に触れた。




